2020-01-01から1年間の記事一覧
関ケ原布陣図 日本史上屈指の内戦でもある関ケ原の合戦は、徳川家康が天下取りをするための最後の大戦(おおいくさ)でした。数に勝る西軍を撃破できたのは、家康方の巧みな調略が物を言ったわけですが、もちろん西軍にも十分勝ち目があったと私は思います。…
関ケ原の家康本陣跡 豊臣秀吉の死後、天下取りのチャンスが巡って来た徳川家康は、豊臣家臣団の分断につけ込んで自派(東軍)を形成します。石田三成らの挙兵を受け、上杉討伐から反転して西へ向かい、三成、宇喜多秀家、大谷吉継ら西軍との決戦に挑みます。…
家康が訪れていた堺 織田信長の招きで京都や堺の見物に訪れた徳川家康と主な家臣たちは、堺で予想外の事態に直面します。信長・信忠親子が明智光秀に討たれた本能寺の変の勃発です。一度は自刃を口にしますが、本田忠勝らの説得で虎口を脱する決断をしました…
三方ケ原合戦の直後に武田軍に奇襲をかけたとされる犀ヶ崖の戦いの碑(浜松市) 戦国大名・徳川家康として初めて、命の危機にさらされた戦いが「三方ケ原の合戦」でした。戦国最強と言われた武田信玄が、家康の居城がある浜松城近くまで大軍を率いて向かって…
徳川家康像(静岡市) 当ブログでの人物紹介50件目は、歴史上で最も有名な人物の一人、徳川家康の登場です。事績について紹介するまでもありませんので、ここでは家康が迎えた「命の危機」にスポットを当て、何回かに分けて書いてみたいと思います。 家康…
橋本佐内の像(福井市) 幕末・維新には数多くの志士たちが活躍しましたが、その先駆けとなった人物の一人が福井藩の俊英・橋本佐内です。医者の息子として生まれた佐内は、早くからその才能を開花させ、時の藩主・松平春嶽の絶大な信頼を得ていました。 将…
榊原康政、政敬らを祀る榊神社(上越市) 榊原政敬(まさたか)は、高田藩(新潟家上越市)で幕末・維新の時期に藩主だった人です。榊原家は、藩祖が徳川家康家臣の四天王と呼ばれた榊原康政で、紆余曲折がありましたが、譜代大名として幕末まで存続してきま…
江戸時代は幕府の命令が絶対とされ、例え大名であっても命令に背くとはできませんでした。その代表的な出来事が転封すなわち領地替えです。1840年に庄内藩の酒井家も、長岡藩への転封を命じられましたが、その時天保義民事件が起きました。 庄内藩の領民…
濃姫のラッピングバス(岐阜市) 織田信長の父・信秀が、美濃と尾張の政略結婚として斎藤道三の娘を信長の妻に迎えたことは、よく知られた歴史の事実です。しかし、その娘については当時の史料にほとんど登場せず、どんな生涯だったのかも分かっていません。…
本能寺の変の当時、信雄がいたとされる安土城址 織田信雄は織田信長の子であり、嫡男の織田信忠とは母親が同じきょうだいになります。つまり、本能寺の変で父、兄が討たれたことで、織田家の有力な後継者になり得たのですが、そうならなかったことは後の歴史…
勝頼最後の戦いとなった鳥居畑古戦場(甲州市) 織田信忠は、織田信長の嫡男として早くから後継者に据えられてきました。本能寺の変で信長が横死し、ちょうど京都に滞在していた信忠も、明智光秀の軍勢によって自害に追い込まれてしまい、織田家の運命を変え…
沖田総司終焉の地とされる今戸神社(浅草) 幕末の京都の治安を守ってきた新選組で、一番人気と言えば沖田総司です。局長の近藤勇、副長の土方歳三と同じ道場の試衛館出身で、剣の力量と共に近藤や土方の信頼も厚く、新選組では常に一番組長として先陣を切っ…
日吉丸(秀吉)と仲間たちの群像(名古屋市中村公園) 豊臣秀吉は小者として織田信長に仕え、類まれなる英知と働きぶりで大出世を果たし、信長横死後は天下取りへと突き進んで、ついに天下人になります。その秀吉が、自身の右腕として絶大な信頼を寄せていた…
再現された馬防柵(新城市) 織田信長と徳川家康が、強敵の武田勝頼を徹底的に叩きのめし、戦国史のターニングポイントとなった長篠の戦い。信長の生涯を記録した「信長公記」の記述からも、信長が並々ならぬ決意で決戦に臨んだことがわかります。 信長は「…
長篠城 織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いは、戦国時代の中でも大きなターニングポイントとなった合戦です。信長・家康軍はほぼ無傷だったのに対し、勝頼軍は甚大な犠牲者を出し、明暗がはっきりと分かれました。 私は、信長と家康…
大坂夏の陣の長宗我部物見の松(八尾市) 長宗我部盛親の父親である長宗我部元親は、一時的ではありましたが四国全土を制覇した猛将として知られています。元親は嫡男の信親に期待をかけていましたが、九州での戦いで信親が戦死してしまい、後継者に選ばれた…
斎藤道三のラッピングをしたバス(岐阜市) 権謀術数を駆使して美濃の国主の座に就き、一時代を築いた斎藤道三は「美濃の蝮(まむし)」と言われ、恐れられていました。その道三の娘(帰蝶)が嫁いだ先が隣国尾張の織田信長で、軍事同盟がらみの政略結婚とさ…
五稜郭の土方歳三像 函館市の五稜郭タワーには、総髪で軍服とブーツを身に着けながら、刀を差している人物の像があります。旧幕府軍の一員として函館戦争を戦った土方歳三の像で、モデルとなったのが有名な一枚の肖像写真です。 この写真は、土方の義兄であ…
二股口古戦場の入り口(北斗市) 近藤勇の盟友であり、新選組では鬼副長として近藤局長を支えてきた土方歳三。戊辰戦争に敗れて江戸へ戻り、再起を期した流山で近藤が投降したことで、土方は新選組の事実上のトップとなって新政府軍と戦っていくのです。 そ…
元寇資料館(福岡市) 竹崎季長といっても「いったい誰?」と思う方がほとんどでしょうが、鎌倉時代の元寇を描いた絵巻「蒙古襲来絵詞」は聞いたことがあるかもしれません。竹崎が、元寇での一族の活躍や恩賞交渉の様子を描かせた絵巻なのです。 無名の御家…
川中島古戦場(長野市) 足利尊氏と足利直義の観応の擾乱や、織田信長による弟の信行謀殺など、肉親同士が権力争いをする「骨肉の戦い」は、どの時代でも見られます。戦国武将の武田信玄も、父親の信虎を国外追放し、嫡男の義信を自害に追い込んでいます。 …
足利直義は、室町時代の初代将軍・足利尊氏の実弟ですが、歴史上の人物としては尊氏ほど知られてはいません。しかし、足利将軍家の政権運営を事実上担っていた点では、当時は尊氏に匹敵する存在感を持っていたと思われます。 尊氏は、将軍としてのカリスマ的…
近藤が戦勝祈願したとされる西光寺(調布市) 幕末の京都で治安維持を担っていた「新選組」は、会津藩お雇いの私的な浪士集団から、様々な事件・戦乱への出動実績を積んで幕府に認められ、ついに幕府の正式な軍事集団へと昇りつめました。その局長が、お馴染…
継体天皇の像(福井市) 今回は継体天皇について書きます。当ブログ初めての古代編、かつ皇族のご紹介となります。継体天皇は約1500年前に即位され、その子の欽明天皇から続く皇統が、今上陛下にまで脈々とつながっています。 継体天皇の前の武烈天皇が…
一乗谷の復元家屋(福井県) 朝倉義景は、足利義昭を庇護していたのにもかかわらず、上洛を決断できませんでした。周囲の状況などの理由があったので、決して「KY(空気が読めない)」ではなかったのですが、その後の行動は「KY」と言われても仕方ありま…
一乗谷の朝倉館跡(福井県) 足利義昭を擁しての上洛を成功させた織田信長と、常に比較対象されているのが、越前(福井県)の戦国大名・朝倉義景です。義昭上洛後は、信長と敵対し続け、結果として信長に滅ぼされてしまう悲運の武将となりました。 京を追わ…
信長が戦勝祈願したとされる熱田神宮 「桶狭間の合戦」は、今川義元の大軍を織田信長が撃破し、大将である義元を討ち取った戦いとして、歴史上に名を残しています。劇的な勝利ではありましたが、奇襲戦ではなく、信長の戦略的勝利だったとブログに書かせても…
このブログは、戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、「日本の歴史の面白さや奥深さについて紹介したい」と5月16日に開設いたしました。以来書き続け、1ヵ月を迎えたところです。 ブログのカテゴリーの作り方や…
松陰と金子の像(萩市) 松下村塾で若き志士たちを育てた吉田松陰は、行動派としての一面を持っていました。若い頃に藩の許可を得て全国を遊学し、自分の目を通して貪欲に知識を身につけていったのです。その最たる行動が「海外密航」でした。 松陰は弟子の…
吉田松陰 吉田松陰は、幕末から明治にかけて活躍した多くの人材を育てたことで知られていますが、松陰自身も思想家であり、革命家としてその生涯を貫き通しました。松下村塾時代に松陰が訴え続けた「草莽崛起(そうもうくっき)」について考えます。 「草莽…