歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

note版「歴史・人物伝」執筆再開

「思い入れ歴史・人物伝」の2021年執筆をnote版にて再開いたします。当面、ブログでは、note版の「歴史・人物伝」より記事を数本程度まとめて掲載させていただく形を継続したいと考えています。

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note版本年第1弾は、戦国武将の織田信長を取り上げます。note版では、昨年8月に引き続いての「信長編」となります。

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この時は、尾張の大うつけと陰口を叩かれながら、斎藤道三の娘を妻に迎え、一族の争いに勝って尾張一国を統一するまでの「若き日の織田信長」について書いてきました。

今回はその続きで、信長がその名を世に知らしめた「桶狭間の合戦」から、美濃進攻と攻略、そして足利義昭を奉じての上洛までを「信長飛躍編」として書いていく予定です。

前回同様、執筆資料とするのは太田牛一の「信長公記」です。2次史料ですが、信長側近の太田が比較的客観的な目線から丁寧に書き綴っているため、史料価値が高いとされています。参考文献には「現代語訳 地図と読む信長公記を使わせていただきます。

ブログへの掲載は今しばらくお待ちください

地図と読む 現代語訳 信長公記

地図と読む 現代語訳 信長公記

  • 作者:太田 牛一
  • 発売日: 2019/09/28
  • メディア: 単行本
 

 

 

2021年の執筆初めにあたって

2021年の松の内も明け、いよいよ本格的なスタートとなります。ただ、新型コロナウイルスの蔓延で首都圏に緊急事態宣言が出されるなど、不穏な年明けになってしまいました。今は一日でも早い終息を願うばかりです。

さて、本題の「歴史・人物伝」についてです。今後、どんな形で書いていこうかを昨年末から検討してますが、まだ方向性が決まっていません。note版も今は「日常のつぶやき」が主になっていて、歴史の記事は書いていないのです。

昨年末に勤めていた会社の仕事から引退し、年明け後は「生活のリズム」づくりを第一に考え、実践し始めているところです。リズムに慣れてこないと、なかなか腰を据えて物事を考えることはできません。言い訳かもしれませんが(苦笑)

「歴史・人物伝」を本格的に再始動させるまでには、もう少し時間が必要なのが現状です。そんなわけですが、本年も当ブログをよろしくお願いいたします。

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今年を振り返る~ブログ開設からnote版へ

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「戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています」と銘打って、2020年5月に当ブログがスタートしました。

8月上旬までは歴史上の人物をピックアップしながら、トピックスやエピソードを書いていましたが、8月にnote版「歴史・人物伝」を開設し、noteでの連載執筆を始めました。それに伴い、ブログもnote版のまとめ記事の掲載がメインとなっています。

 

noteでこの5カ月間を振り返ったので、それを転載します。

8月にnoteでの執筆を開始して5カ月が経ち、気がつけば2020年もあとわずかとなりました。noteでは、日本の歴史に絞って「歴史・人物伝」と銘打ち、幾つかのテーマを設けて書き綴ってきました。

自分の興味や関心が深い戦国時代と幕末を中心にテーマを考え、「信長編」「新選組編」「太平記編」「関ケ原編」「松陰先生編」「謙信の戦い編」の6つを書き上げ、いずれもマガジンにまとめています。

テーマを書いていくうちに「あれもこれも書きたい」と、構想がどんどんと膨らんできましたが、各テーマそれぞれに書き足りなかった部分も多く、まだまだ試行錯誤を続けている状況です。

とくに最初の3テーマは、いずれも「序章部分」を書いたに過ぎません。

「信長編」は、信長が戦国の世に名乗りを上げた桶狭間の合戦の直前までですし、「新選組編」も、近藤勇らが浪士隊として京都に出発する前の無名時代の話でとりあえず終わっています。

鎌倉幕府滅亡まで書いた「太平記編」とともに、3テーマについては、ぜひ続きを書きたいと考えています。この5カ月間、つたない歴史コラムを読んでいただいた皆さんに感謝申し上げます。

 

2021年のブログ版「歴史・人物伝」について、このままnote版のまとめを続けるのか、あるいは別の展開にするのか、考えはまとまっていません。ただ、せっかく始めたブログですので、充実させたいという思いはあります。

改めまして、ブログを読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。よい年末年始をご家庭でお過ごしください。 マイケルオズ

歴史・人物伝~謙信の戦い編番外コラム4本

歴史・人物伝~謙信の戦い編の番外コラムをまとめて掲載しました。

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描かれた上杉謙信大河ドラマ武田信玄

戦国時代屈指の名将である上杉謙信は、戦国をテーマにしたNHK大河ドラマでたびたびキャスティングされています。その中から、いくつかの大河ドラマを振り返ってみましょう。

1988年の「武田信玄」は、信玄の生涯を描いたドラマでした。その最大のライバルとして上杉謙信が登場します。信玄役は中井貴一さん、謙信役は柴田恭兵さんが演じました。

柴田さんの謙信は、勇猛果敢な性格を見せるとともに、「義」を重んじる姿を強烈に印象付けてくれました。多くの戦いの場面で「正義の何たるかを示す」と声高に語っていたのを思い出します。

武田信玄」のラストは、謙信が織田信長と対決するシーンが描かれています。信玄没後の武田家ではなく、あえて謙信を持ってきたところに、ドラマの意図を感じさせられました。

つまり、信玄の生涯を描くドラマであるとともに、信玄を通して「謙信の生き方」も描いていたのです。日本人の美学である「義」のあるべき姿を、謙信を通して訴えたかったのだと思います。

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描かれた上杉謙信大河ドラマ風林火山

戦国時代屈指の名将である上杉謙信は、戦国をテーマにしたNHK大河ドラマでたびたびキャスティングされています。2007年の「風林火山」も、主要な人物として登場しました。

ドラマは、武田信玄の軍師である山本勘助の半生を描いたもので、勘助を内野聖陽さんが演じました。信玄は歌舞伎の市川猿之助さん、ライバルの謙信はミュージシャンのGACKTさんという配役でした。

配役が決まった時には、正直言って「ミスマッチ」と思っていました。私の描く謙信像は、武骨な猪突猛進型の男をイメージしており、二枚目でスマートなGACKTさんでは合わないと考えたからです。

しかし、ドラマが始まってみると、GACKT謙信はぴったりハマりました。謙信のもう一つのイメージである「孤高のカリスマ」を見事に演じられ、同時に「義」を大切にする重厚な姿も見せてくれました。

風林火山の最終回は、勘助が討ち死にする第4次川中島の戦いで、もちろん信玄と謙信の一騎打ちのシーンも登場しました。GACKT謙信が強烈に印象に残った大河ドラマでしたね。

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描かれた上杉謙信大河ドラマ天地人

戦国時代屈指の名将である上杉謙信は、戦国をテーマにしたNHK大河ドラマでたびたびキャスティングされています。2009年の「天地人」では、晩年の上杉謙信が登場しました。

ドラマは、謙信の後継者の上杉景勝と、景勝を支え続けた重臣直江兼続の生涯をたどった作品で、兼続役は妻夫木聡さんが演じ、無口で重厚感あふれる景勝を北村一輝さんが好演していました。

少年期の景勝や兼続に大きな影響を与えた人物こそが上杉謙信で、とくに兼続(少年期は樋口与六)を高く評価し、上杉家で最も大切な「義」を叩きこみながら、軍略などを教えていました。

阿部寛さんが演じた謙信は、孤高の武将でありながら、圧倒的な存在感を見せつけ、私がもつ「謙信像」のイメージともマッチしました。「風林火山」のGACKTさんとはひと味違ったカリスマ感もありましたね。

ちなみに「天地人」の原作者は新潟県出身の作家・火坂雅志さんで、郷土愛と上杉愛にあふれる素晴らしい作品を残しています。残念ながら、2015年に58歳でお亡くなりになりました。

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上杉謙信は酒が唯一の楽しみだった?

本日は謙信の素顔について書きたいと思います。

謙信といえば、「質実剛健」という言葉が思い浮かびます。少年時代に林泉寺で僧の修行を積んできた人物なので、信仰心が非常に強く、生涯妻帯しなかったのもその影響を受けていたからと思われます。

自らに対し、非常に厳しかった印象がある謙信ですが、酒だけは欠かさなかったようです。戦国武将の中でも屈指の酒豪だったと言われ、酒の肴には梅干を好んでいたとされています。

謙信の酒好きを象徴するものに「馬上盃」があります。盃の下側(高台)を手で握れるため、乗馬しながら酒が飲めるよう工夫されているのです。盃の大きさは直径12センチあったとも言われています。

四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒

これは謙信の辞世とされる句です。後半は「ひと時栄華を誇っても、それは一杯の酒を飲むのと同じこと」という意味ですが、酒を飲むのが何よりも好きだったことを物語る句だと読み取れます。

裏を返せば、戦いや領国経営に明け暮れる毎日は、ストレスとの戦いだったのでしょう。生活全般でも自らを律して過ごしていた謙信にとって、酒を飲むことが唯一の楽しみだったのかもしれません。

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note版「歴史・人物伝~謙信の戦い編」のマガジンで本編をご覧になれます

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歴史・人物伝~謙信の戦い編⑫~⑯「合戦を通して上杉謙信を語る」

群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた上杉謙信。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われました。義の武将・謙信の生涯について「合戦」を通して紹介します。

note版「思い入れ歴史・人物伝」~謙信の戦い編の⑫~⑯を一括掲載します。

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北関東を巡る激しい勢力争い

上杉謙信武田信玄が死闘を繰り広げた川中島の戦いですが、北信濃での両者の対陣は1564年で区切りとなります。ですが、上杉と武田が和睦したのではなく、北関東を巡る情勢が厳しくなったからです。

第4次川中島の戦いのまとめ記事

rekishi-jinbutu.hatenablog.com

61年に箕輪城主(高崎市)の長野業正が死去します。長野は武田氏の上野(群馬県)攻略の壁になっていた武将ですが、その死により、信玄は上野への侵攻の手を強めていくのです。

信玄は北条氏康と同盟関係にあり、武田氏と北条氏の共通の敵である上杉氏の勢力を関東から追い出すため、たびたび出兵しました。また、佐野昌綱ら地元の武将の抵抗も強く、謙信は劣勢になることも多かったようです。

ところが信玄は、弱体化した今川氏の駿河へ侵攻したため、武田氏と北条氏との同盟関係は破棄されます。氏康は、信玄との対決に備えて、長年敵対していた謙信に同盟を持ちかけるのです。

謙信も越中富山県)への出兵に向け、後顧の憂いをなくすために同盟を承知します。そして、氏康の子・三郎を養子に迎え入れました。人質ではありますが、謙信は三郎に「景虎」の名を与えたのです。

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一向一揆との戦い、そして越中進出

北関東を巡る武田氏、北条氏との三つ巴の争いが続いてきた上杉謙信ですが、宿敵だった北条氏康武田信玄が死去し、北条氏は氏政、武田氏は勝頼の代になると情勢が徐々に変わってきました。

北条氏とは同盟関係を結んでおり、氏康の子・三郎(のちの上杉景虎)を養子に迎えました。また武田勝頼は、徳川家康織田信長との勢力争いに力を注いでいたため、信玄の時代ほど敵対関係にはありません。

そこで謙信は、越後の西にある越中富山県)への勢力拡大を図ります。越中一向一揆が力を持っており、隣接する越後にも脅威を与えていました。そのため、謙信はたびたび越中に出陣していたのです。

同じ頃、越前(福井県)から加賀(石川県)に侵攻していた織田信長も、一向一揆には手こずっていました。上杉氏と織田氏一向一揆という「共通の敵」がいたため、友好関係にあったとされています。

ところが、一向一揆の総本山である本願寺顕如が、謙信との和睦を持ちかけてきました。本願寺は、足利義昭や毛利氏、上杉氏らと組んで、織田信長包囲網を築こうとしたのです。

謙信が本願寺との和睦に応じた結果、織田氏との対決姿勢が深まっていくのです。

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手取川の戦いで織田軍を撃破

上杉謙信は、一向一揆の本拠である本願寺顕如と講和し、越中富山県)を領地としました。さらにその先の能登(石川県)へ侵攻を開始し、拠点である七尾城を包囲します。

七尾城内では、天下統一を果たそうとする織田信長に付く長続連らの一派と、戦国最強クラスの上杉軍は敵に回せないとする遊佐続光らの一派があり、家臣同士が対立していました。

信長にとっても、七尾城は死守しなければなりません。1577年、柴田勝家を総大将とした大軍を救援に派遣します。ところが織田軍が到着する前に、謙信は調略によって七尾城を陥落させていました。

上杉軍はそのまま南下し、織田軍との決戦を目指します。一方の織田軍は、上杉軍が近づいてきたとの知らせを受けて、ようやく七尾城陥落を知りました。勝家は「形勢は不利だ」と考えて撤退を決断します。

上杉軍は織田軍に手取川周辺で攻めかかります。突撃する側(上杉)と撤退側(織田)との士気の違いもあり、大軍だったはずの織田軍は惨敗を喫してしまうのです。「手取川の戦い」と呼ばれる謙信会心の戦いでした。

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志半ばで突然の死

1577年の手取川の戦いで織田軍を一蹴した上杉謙信は、季節が冬になるのを前にいったん越後に引き上げます。そして、翌年の雪解けを待って出陣するため、大軍勢を整えるよう指示を出すのです。

翌78年、出陣目前のその時、謙信は突如倒れて意識不明となり、間もなく急死してしまうのです。まだまだ活躍できるはずの49歳という生涯を閉じたのでした。

この時の大軍勢が、どこに向かっていたのかは定かではありませんが、最終的には上洛を目指していたのではないでしょうか。ただし、天下を取るというよりも、足利将軍家を再興したいとの思いだったと私は考えます。

謙信には実子がなく、有力な後継候補者となる養子が二人いました。一人は長尾一族で謙信の姉が嫁いだ長尾政景の子・景勝、もう一人は北条氏との同盟で送られてきた北条氏康の子・景虎です。

相続について謙信にも深い思惑があったとみられますが、急死してしまったため、家督を継ぐべき後継者を指名できませんでした。その結果、上杉家と家臣団は、景勝派と景虎派に二分されてしまうのです。

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後継者争いを制した上杉景勝

1578年の春、上杉謙信が急死し、後継者候補の上杉景勝上杉景虎の対立が深まっていきます。謙信が、明確に後継者を指名していなかったのが、対立の原因になったのです。

景勝は先手を打って春日山城本丸に移り、景虎を圧迫します。やむなく景虎春日山城を出て、前関東管領上杉憲政が住んでいた御館に拠点を移します。この内乱が「御館の乱」を呼ばれる所以となる場所です。

北条氏の出身である景虎は、兄の北条氏政に助力を求めます。北条氏は、同盟関係にあった武田勝頼にも助勢を依頼し、状況によっては越後への侵攻も視野に入れていたと思われます。

有力家臣を味方にしているとはいえ、外圧を懸念した景勝は、腹心の直江兼続を通して武田勝頼との和睦を画策します。そして、勝頼が景勝側に付いたことで情勢が徐々に変わっていきました。

優位に立った景勝軍は、翌79年春に景虎軍を攻め滅ぼし、内乱の鎮圧に成功します。上杉景勝は実力で謙信の後継者になったのですが、内乱によって上杉家の勢力は弱体化してしまいました。

その後、景勝は豊臣秀吉への臣従、徳川家康の上杉討伐などの難局を何とか乗り越え、家名を存続させました。謙信が掲げた「義」を重んじる家風は、江戸時代の上杉家に引き継がれていったのです。

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歴史・人物伝~謙信の戦い編①~⑥まとめ記事

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歴史・人物伝~謙信の戦い編⑦~⑪「合戦を通して上杉謙信を語る」

群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた上杉謙信。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われました。義の武将・謙信の生涯について「合戦」を通して紹介します。

note版「思い入れ歴史・人物伝」~謙信の戦い編の⑦~⑪を一括掲載します。1561年の第4次川中島の戦いを書いていきます。

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並々ならぬ覚悟で川中島へ出陣

第4次の戦いは、上杉謙信武田信玄が激しくぶつかり合った戦いとして知られており、一般的に「川中島の戦い」と言えば、この第4次を指します。まずは、合戦に至る背景について触れます。

小田原城を包囲する北条氏討伐戦で関東に出兵し、関東管領と上杉家を継承した上杉謙信(当時は政虎、記事では以後謙信に統一する)は、幕府の組織上、関東の支配を任される立場になりました。

一方、武田信玄は幕府から信濃守護に任じられ、川中島のある善光寺平の支配権を得たものの、謙信がそれより上級職の関東管領となったため、文字通り「目の上のたんこぶ」の存在だったのです。

善光寺平の支配を確実にしたい信玄は、同盟関係にあった北条氏康を援護するため、北信濃に出兵します。再び動いた信玄を警戒し、謙信も関東遠征から帰国後、ただちに北信濃へ出陣しました。

善光寺平へ先に到着したのは謙信で、武田氏が領有する海津城の南にある妻女山に布陣します。善光寺に兵を残してはいるものの、主力部隊を敵陣深くまで投入するという並々ならぬ決意がうかがえます。

これに対し信玄は、西側の茶臼山にいったん陣を張り、上杉軍の様子を見ます。しばらく膠着状態となっていましたが、上杉軍の攻撃を警戒しながら善光寺平を横断し、海津城に入城しました。

そして、運命の決戦前夜を迎えるのです。

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信玄の作戦を謙信が見破った!

信玄の作戦「啄木鳥の戦法」

川中島の東にある海津城に入城した武田信玄と、南にある妻女山に布陣した上杉謙信。武田軍は2万、上杉軍は1万3千と言われており、軍勢の数は武田軍が勝っていました。

数的優位の武田軍は、妻女山を総攻めすることもできたでしょうが、信玄は「上杉軍の強さを考えると味方の損害も大きくなる」と慎重に構えます。そして、上杉軍撃滅のために策を弄するのです。

それが、信玄の軍師である山本勘助らが進言した「啄木鳥(きつつき)の戦法」です。キツツキが木の幹をくちばしで叩くことで、驚いて飛び出した虫を捕らえるという習性を軍略に応用したのです。

武田軍を二手に分け、別動隊1万2千を密かに妻女山の裏手に回らせ、上杉軍を奇襲します。上杉軍を八幡原(川中島)に追い立て、待ち構えていた本隊8千と挟み撃ちにするという作戦です。

信玄は、高坂昌信馬場信房らに別動隊を命じ、深夜に海津城から出立させます。さらに翌早朝には自らが率いる本隊が出陣し、八幡原に陣を構えるのです。その時、一帯は深い霧に包まれていました。

夜陰と霧にまぎれて全軍を移動させた謙信

女山上杉謙信は、武田軍が山に向かって総攻めはして来ないだろうと考え、自ら動くことはせず、武田軍の動きを注視していました。兵の数で劣るため、勝機を探っていたのかもしれません。

ある日の夕刻、海津城から炊き出しの煙がいつもより多く立ち込めているのに気が付きます。武田軍に何か動きがあると察知した謙信は、全軍に臨戦態勢を取らせるとともに、武田軍の動向を徹底的に偵察させます。

別動隊の進軍をキャッチした謙信は、裏をかいて密かに全軍を妻女山から下山させ、西側をう回しながら千曲川を渡ります。夜の闇と朝方の濃霧に隠れるような形で、八幡原に布陣し臨戦態勢を整えたのです。

江戸時代に頼山陽が「川中島」という漢詩を書いています。冒頭部分が、この有名なフレーズです。

「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)

信玄に気づかれないよう全軍を大移動させる謙信の統率力は、素晴らしいものがあります。この結果、八幡原で両軍が対峙した時、謙信は数的優位に立てたのです。

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武田軍の総崩れを狙った上杉軍の総攻撃

海津城武田信玄は、妻女山に陣を張る上杉軍に向けて別動隊を出発させ、自らは本体を率いて八幡原に出陣します。しかし、作戦を見破った上杉謙信は全軍で妻女山を下り、八幡原に布陣したのです。

やがて深い霧が晴れてくると、信玄の目の前に上杉軍全軍が姿を現します。信玄の本隊は8千、対する上杉軍は1万3千。数的優位に立った謙信は、全軍での総攻撃を仕掛けてきました。

信玄は鶴翼の陣形をとり、別動隊1万2千が到着するまでは守りに徹する戦いを強いられます。逆に、絶好のチャンスを逃してはなるまいと、謙信は車懸かりの陣形で攻撃し、武田軍の総崩れを狙ったのです。

劣勢だった武田軍は、「啄木鳥(きつつき)の戦法」の提案者だった山本勘助が討ち死にし、さらに信玄の弟で武田軍の守りの要だった武田信繁も討ち取られてしまうなど、武将クラスの戦死が相次ぎました。

ただ、さすがは信玄率いる本隊だけあって、大きく陣形が崩れることはありません。妻女山から引き返してくる別動隊も間もなく到着します。優位だった謙信にも徐々に焦りの色がにじみ出てくるのです。

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謙信VS信玄の一騎打ち

武田信玄の挟撃策「啄木鳥(きつつき)の戦法」を見破り、八幡原で猛然と武田軍本隊に襲い掛かる上杉謙信率いる上杉全軍。武田軍は、信玄の弟・武田信繁や軍師・山本勘助らが討ち死にするダメージを受けています。

しかし、武田軍本隊に壊滅的な打撃を与えるまでには至っていません。信玄には、妻女山から引き返してくる別動隊1万2千の軍勢があり、彼らは無傷のまま上杉軍を攻めてくるでしょう。

そんな激戦のクライマックスに描かれるのが、世に名高い「謙信と信玄の一騎打ち」です。謙信が単騎で相手本陣に乗り込み、信玄目がけて太刀を振るい、それを信玄が軍配で受け止めた、という逸話です。

後の軍記物や歴史小説で、必ずといっていいほど紹介される名場面です。史実かどうかは定かではありませんが、当時の書状で謙信自らが太刀を振るったことが分かっており、激しい戦いだったことを物語っています。

やがて、武田軍別動隊が八幡原に到着し、数的優位が逆転します。「もはやここまで」と思った謙信は、全軍に善光寺方面への撤退を命じます。武田軍にも追撃する力は残されていませんでした。

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川中島の戦いの本当の勝者は?

上杉謙信武田信玄が一騎打ちをしたとまで伝わる第4次川中島の戦いは、双方が勝利を主張して引き上げました。どちらが本当の勝者だったのでしょうか? 私は「痛み分け」だったと考えています。

謙信は、北信濃から武田氏の勢力を払拭させたいと思っていましたが、できませんでした。一方の信玄は、北信濃領有の野望こそかなえられましたが、自身の右腕とも言える弟・信繁をはじめ、多くの重臣を失いました。

川中島では、1564年に第5次合戦がありましたが、この時は両者がにらみ合うだけで、本格的な戦いには至っていません。信玄は、上杉軍の強さを思い知らされたので、直接対決は避けたいと考えていたのでしょう。

川中島の戦いがなければ、信玄あるいは謙信は天下を取っていた」と、よく言われます。戦国屈指の名将である二人が、真正面から激突したことで「戦力も時間も消耗してしまった」というのが根拠のようです。

ただ、実際に信玄が上洛軍を進めたのは第4次から12年後、謙信に至っては天下取りを考えていたかどうかすら分かりません。第4次川中島の戦いが名勝負だったがために生まれた仮説だと私は思います。

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歴史・人物伝~謙信の戦い編①~⑥まとめ記事

rekishi-jinbutu.hatenablog.com

 

歴史・人物伝~謙信の戦い編⑫~⑯まとめ記事

rekishi-jinbutu.hatenablog.com

歴史・人物伝~謙信の戦い編序章及び①~⑥「合戦を通して上杉謙信を語る」

群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた上杉謙信。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われました。義の武将・謙信の生涯について「合戦」を通して紹介します。

note版「思い入れ歴史・人物伝」~謙信の戦い編の序章及び①~⑥を一括掲載します。

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序章:孤高の名将・上杉謙信と「義」について

群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた武将がいます。生涯、妻帯しなかったことでも知られている孤高の名将・上杉謙信です。

歴史に興味を持ち始めた若い頃、数多くの戦国武将の中でも、とくに上杉謙信の生きざまに共感を覚えました。今年5月に歴史のブログを開設した時も、真っ先に紹介した人物が謙信だったのです。

上杉謙信を漢字一文字で言い表すならば「義」。これしかありません。謙信の「義」には、正義、信義、忠義など様々な思いがあり、それは戦いだけでなく、朝廷や幕府を重んじる姿勢にも表れています。

謙信の「義」を象徴する逸話が「敵に塩を送る」です。領地に海を持たない武田信玄を苦しめるため、駿河の今川家が「塩止め」という手段に出て、相模の北条家もこれに賛同し、上杉家にも協力を求めました。

ところが、謙信は「私が戦う相手は信玄であり、領民ではない」として、塩止めはしなかったそうです。糸魚川から大町を経て松本までの千国街道が「塩の道」と言われる由縁になったとされます。

生涯における戦いも独特で、その多くが領土拡大のためではなく、「義」を侵す武将(武田信玄北条氏康)を倒すための戦いでした。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われています。

次回からは、「歴史・人物伝~謙信の戦い編」と銘打ち、上杉謙信の生涯について「合戦」を通して紹介していきたいと思います。

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初陣で武将としての才能を見せつける

謙信は、越後の守護代長尾為景の子として生まれました。幼名は虎千代、後に長尾景虎と称します。家督は長男の晴景が継ぐことになったため、虎千代は春日山新潟県上越市)の林泉寺に入りました。

林泉寺では僧侶の修行を積んでいたのですが、一方で幼い時から武将としての鍛錬や戦略の研究も好きだったといいます。修行の経験は、後の謙信の生きざまに大いなる影響を与えたと思われます。

晴景は病弱だったこともあり、父の為景のように地域の有力武将たちを制圧できませんでした。このため、虎千代は元服後に長尾景虎と名乗り、林泉寺を出て修行の道から武将の道へと歩み始めるのです。

栃尾城(長岡市栃尾)を任された景虎に対し、周辺の有力武将たちが「若輩を一捻りしてやる」とばかりに攻め立てます。しかし景虎は、初陣にもかかわらず戦略を駆使して有力武将を撃退しました。

この栃尾城の戦いは、後に戦国最強クラスの軍団を率いた上杉謙信の片りんを見せる合戦となったのです。

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家督を継ぎ、越後統一を果たす

初陣の栃尾城の戦いで、戦国武将としての資質を見せつけた長尾景虎上杉謙信)。「越後統一の救世主になる」と、多くの有力武将たちが景虎に期待したのですが、守護代・長尾家を取り巻く状況は複雑でした。

すでに長尾家は、景虎の兄の晴景が継いでおり、景虎は兄を支える家臣の立場でした。ただ、病弱だった晴景の力量では、越後統一は難しいと思われていたのも事実です。

そんな中で、晴景に代わって景虎守護代にしようという有力武将らの動きが出てきます。その結果、越後守護の上杉家の裁定により、晴景が隠居して景虎家督を相続し、新たに守護代の任に着きました。

これに対し、長尾一族の実力者・長尾政景らが反発し兵を起こします。政景は、景虎の姉を妻にしているため、骨肉の争いでもありました。景虎は軍勢を率いて政景らを制圧し、念願の越後統一を果たすのです。

ちなみに、政景と妻との間に生まれた子の一人が、後に景虎の養子に迎えられます。この人物こそ、謙信の後継者として戦国から江戸初期を生き抜き、上杉家を存続させた上杉景勝です。

越後統一を果たした景虎ですが、越後の外にはさらなる強敵が待ち受けていました。景虎の戦いは、これからが本番となるのです。

 

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北条氏、武田氏との敵対関係へ

越後統一を果たした長尾景虎上杉謙信)のもとを、関東管領上杉憲政が訪れます。相模の北条氏に圧迫されたため、庇護を求めたのです。景虎は憲政を迎え入れることにしました。

関東管領は、足利将軍家が関東など東国を支配するために配置し、上杉家が代々務めています。景虎は、将軍家を筆頭とする室町幕府の権威を重んじており、関東管領の後ろ盾になることは自分の意に即していました。

北条氏は当主が氏康で、全盛期を迎えようとしていました。領地も北へと伸びていき、やがて越後の勢力圏に近い上野(群馬県)へと進出してきます。上杉憲政を庇護する景虎とも敵対関係になっていくのです。

同じ頃、信濃(長野県)の守護である小笠原長時や北信濃の有力武将・村上義清らが、景虎のもとに救援を求めてきます。甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)が信濃へ侵攻してきたからです。

関東管領を後ろ盾とする景虎は、秩序を乱そうとする晴信が許せず、討伐を決意します。上杉軍は北信濃善光寺平へと進軍し、武田軍と激突しました。ここに、謙信対信玄の「川中島の戦い」が始まるのです。

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犀川を挟んでにらみ合う景虎VS晴信

武田晴信(信玄)は、甲斐(山梨県)から諏訪、佐久、松本と侵攻し、信濃での領地を拡大してきました。その勢力が善光寺平(長野市周辺)にまで及んだところで、長尾景虎上杉謙信)が立ちはだかったのです。

信濃の有力武将だった村上義清らの救援要請もあったでしょうが、それに加えて善光寺平は、景虎の居城・春日山城との距離が60キロほどしか離れておらず、直接的な脅威になっていたのです。

晴信と景虎は天文4年(1555年)、再び善光寺平で相対します。犀川を挟んで両軍がにらみ合いますが、小競り合いはあっても本格的な戦いにはなりません。時間だけがどんどんと経ってしまいました。

休戦を望む晴信は今川義元に仲介を求め、晴信が築いた旭山城の破却などを条件に景虎も休戦に同意し、双方が兵を引き上げました。景虎は、善光寺平から晴信の勢力を削ぐことができたと思っていたのです。

しかし、信濃制圧を目的とする晴信は、再び善光寺平に勢力を伸ばしていくことになります。当然、看過できない事態ではありますが、景虎にはもう一つの戦いが待ち構えていたのです。

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名実ともに関東支配を任される

「義」を重んじる武将・長尾景虎上杉謙信)は、足利将軍家を頂点とした権威も重要視していました。関東管領上杉憲政を越後領内に庇護したことも、その表れとされています。

武田晴信との争った3度の「川中島の戦い」の合間に、景虎は2回上洛しています。1558年には将軍・足利義輝の要請に応じ、軍勢を率いて2度目の上洛を果たします。

義輝は、将軍家の権威を守ってくれる武将として、景虎を頼りにしていたとみられます。そして、東の押さえを任せるため、景虎関東管領に匹敵する立場を与えたとされています。

景虎は、幕府から「関東の支配を任された者」として、侵略を繰り返す北条氏や武田氏を討伐する「大義名分」を得ます。後日、上杉憲政から関東管領と上杉家を相続し、関東における最高権力者になるのです。

一方の北条氏康武田晴信は「実力ある者が支配地を広げるのは当然」との考えで、景虎と真っ向から対立します。北条氏の関東侵攻に業を煮やした景虎は、北条氏討伐の軍勢を起こすのです。

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北条氏討伐の大軍勢で小田原城を囲む

幕府から関東管領と同等の立場を得た長尾景虎上杉謙信)は、相模の北条氏康打倒に向け立ち上がります。景虎が本格的に関東へ出陣するのは、この時(1560~61年)が初めてでした。

氏康は、河越城の戦い関東管領上杉憲政らを破るなど、勢力を北へと拡大していました。憲政は景虎を頼って越後に逃れており、景虎は幕府の大義名分と憲政の後ろ盾の両方を得ていたのです。

厩橋城(前橋)で越年した景虎は、関東の諸侯に北条氏討伐の号令を発し、大軍を率いて南下しました。野戦では分がないとみた氏康は、居城である小田原城での籠城戦で上杉軍を迎え撃ちます。

上杉軍は10万を超える大軍で小田原城を包囲しますが、戦国屈指の堅城を攻め落とせませんでした。それでも、北条氏の勢力を押し込められたので、大軍での遠征は成功裏に終わったと考え、引き上げます。

景虎小田原城包囲戦の後、鎌倉の鶴岡八幡宮上杉憲政から正式に家督関東管領を引き継ぎます。名を上杉政虎と改名し、幕府における関東の名門の地位を手に入れたのです。

関東遠征から戻った政虎を待ち受けていたのは、宿敵である武田晴信でした。世に名高い「川中島の戦い」が目前に迫っていたのです。

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歴史・人物伝~謙信の戦い編⑦~⑪まとめ記事(川中島の戦い編)

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歴史・人物伝~謙信の戦い編⑫~⑯まとめ記事

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当ブログ第1回目となった「上杉謙信」の記事

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