歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~番外コラム:大河ドラマ「青天を衝く」で知った渋沢栄一

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大河ドラマ「青天を衝く」が、2月中旬からという中途半端な時期の放送開始となりました。前週まで「麒麟がくる」が放送されており、とくに最終回は本能寺の変というクライマックスで、その余韻が残っているという中でのスタートとなったのです。

主役の渋沢栄一は「近代日本経済の父」と言われ、新しい1万円札の絵柄に採用されたことで話題となりましたが、その経歴はあまり知られていません。私も渋沢については、幕臣だったことや明治時代に多くの企業を創設した人物だという程度の知識しかありませんでした。

渋沢は、農家の跡取り息子として生まれましたが、「農業」だけでなく、藍玉や繭の生産という「工業」、製品を売りさばいたり、材料を買い付けたりする「商業・流通」を経験してきました。農工商にかかわってきた暮らしこそが、彼の経済人としての原点だったと思います。

ドラマの放送に合わせて、渋沢栄一の自伝である「雨夜譚」を読んでみました。若い頃の自分の足跡を振り返った話で、徳川慶喜の家臣になっていく過程や、ひょんなことから徳川昭武の海外留学のお供をしたことなど波乱万丈な青年期をおくっていた姿がうかがえます。

その中から読み取れたのは、「良いこと」を取り入れるのなら自論を変えるのも辞さないという柔軟な姿勢です。「思想信条に殉ずる」志士たちが多かった時代には、ある意味異色の人物と言えます。ですが、渋沢も「人の役に立ちたい」という一本筋が通った考えを持ち続けていました。

渋沢栄一については、まだまだ書き足りないことがたくさんありますが、今回はひとまずここまでといたします。ドラマは、まだ名もない農民という段階ですが、今後どのように描かれていくのか楽しみです。

※note版の転載コラムです

 

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

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歴史・人物伝~信長飛躍編⑩~⑮「足利義昭を奉じて上洛へ」

noteで連載中の「思い入れ歴史・人物伝~信長飛躍編」で、上洛への道について紹介しました。note版の⑩~⑮を一括掲載いたします。

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足利義輝の悲劇と足利義昭の流浪

美濃攻略を果たした織田信長は、いよいよ京を見据えた行動に出ます。その前に、京の支配や足利将軍家がこの頃、どんな状況だったのかについて解説いたします。

信長が上洛して謁見した将軍は足利義輝でしたが、京の事実上の支配者は家臣の三好長慶でした。長慶の死後も嫡男の三好義継や三好一族、松永久秀らが実権を握っていました。

義輝が疎ましい存在となってきたため、三好一族は将軍の排除を企てます。1665年、将軍の屋敷に三好の軍勢が押し入り、義輝を殺してしまうという強硬な手段に出たのです。

義輝には、弟で僧籍にあった覚慶(のちの義昭)がいました。覚慶は三好・松永に命を狙われる恐れがあるとして、側近とともに逃亡します。最初に近江の六角氏を頼り、さらに越前の朝倉義景のもとに身を寄せるのです。

朝倉家は5代にわたって越前を支配する大名で、一乗谷福井市)に大きな城下町を築いていました。義景が、京周辺で最も実力のある大名と見られていたことも、覚慶が頼った理由となったのです。

覚慶は還俗して足利義昭と名乗るようになり、義景に再三、自分を擁して上洛するよう求めました。しかし義景は動きませんでした。そこで、義昭が目を付けたのが、美濃まで台頭してきた織田信長だったのです。

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足利義昭織田信長の歴史的対面

殺された前将軍・義輝の弟である足利義昭は、京を支配する三好一族を追い払い、将軍宣下と京奪還を願いますが、頼みとしていた越前の大名・朝倉義景は上洛の軍を出す気配がありません。

そこで義昭は、織田信長を頼ることにしました。この時、信長との間に入り仲介役を務めたとされるのが明智光秀だと言われています。光秀は朝倉家の元におり、将軍家とも知己の関係だったようです。

信長公記によると、義昭と信長が対面したのは岐阜市の立政寺で、義昭を迎えるにあたり、銅銭千貫文(現在の価値で約1億~1億5千万円)と太刀、鎧、武具、馬を用意し、献上したとしています。

注目すべきは、銅銭千貫文を差し出したことです。織田家は、信長の父・信秀が朝廷に内裏の修理費を献上するなど、豊富な財力を誇っていました。信長が美濃を併合し、さらに経済的基盤が巨大化したのだろうと思います。

対面を果たした信長は、上洛への道のりで障害となる近江の六角氏に対し、上洛に協力するよう求めました。しかし、源氏の流れをくむ六角義賢は応じません。そこで信長は、六角氏征伐を企図するのです。

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上洛の関門となる近江を制する

足利義昭を美濃に迎え入れた織田信長は、義昭を奉じて上洛するための手はずを整えます。三好一族や六角氏など京周辺で信長に対抗しそうな武将たちを制圧し、上洛の安全を確保しようとしたのです。

まず近江の六角義賢父子の征伐にあたります。信長公記によると、六角征伐の武将の中に木下藤吉郎豊臣秀吉)の名がありました。この頃には藤吉郎が、それなりの地位に出世していたことがうかがえます。

また信長公記は、稲葉一鉄ら美濃三人衆が「先鋒を命じられる」と覚悟していたにもかかわらず、信長はそうしなかったため、「意外ななされようだ」と不思議に思ったそうである、と記しています。

当時の戦国武将は、占領した地から次へ進攻する際、占領地の兵に先陣を切らしていました。新しい主への忠誠心を試したのだろうと思われます。しかし信長は、こうした考え方にあまりとらわれなかったのでしょう。

戦力差もあってか、六角氏はさほど抵抗することなく逃亡し、信長は近江平定を果たしました。そこで、美濃で待機していた義昭を迎え、いよいよ京へと上洛の軍を進めていったのです。

一方、京で信長を待ち構えていたのは三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)と松永久秀でした。

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三好三人衆を各個撃破していく

足利義昭を奉じて上洛を目指した織田信長は、近江を平定して京の間近にまで迫ってきました。ただ、畿内には三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)がおり、予断を許さない状況だったのです。

万全を期すため、信長は各個撃破にあたります。京都の東側にある東福寺に陣を張り、桂川を超えて岩成友通と激突しました。柴田勝家らが先陣を切った戦いで、抵抗してきた岩成を降伏させたのです。

続いて、京都の西側にある山崎に進軍し、摂津の三好長逸らを攻めます。三好方の池田勝正との戦いは、信長公記で「敵味方とも討ち死にする者が多く出た」と記される激戦でしたが、最後は制圧に成功しました。

上洛戦について、信長公記はこう振り返ります。

戦意は日ごと新たに湧き上がり、戦うに当たっては風の吹き荒れるように激しく、攻めるに当たっては大河が氾濫するような勢いである
※地図と読む現代語訳信長公記より

信長の家臣たちにとっては、多くの戦国武将が目標としていた上洛を、主君が成し遂げようとしていたことはお家の誇りであり、同時に自身の立身出世のきっかけになるととらえていたのでしょう。

そんな信長の上洛を、起死回生のチャンスだと考えていた武将がいました。それが、大和(奈良県)の松永久秀だったのです。

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信長の実力を見定めた松永久秀

残任で勇猛な人物のことを「梟雄(きょうゆう)」と評しますが、戦国時代を代表する梟雄の一人に、松永久秀を挙げる方が多いです。出世を遂げていく過程での行動が梟雄と呼ばれる所以になったとされています。

久秀は、織田信長が上洛する前の京を実効支配していた三好長慶の家臣で、かつては「長慶を抑えて実権を握り、挙句の果てには将軍・足利義輝を殺した」とまで言われていた人物でした。

その後の研究で、久秀は将軍殺しに関与していなかったばかりか、将軍を排除した三好三人衆とは敵対関係だったといいます。久秀は「影の権力者」どころか、存亡の危機にさえあったのではないでしょうか。

そんな中で、足利義昭を奉じて織田信長が上洛の軍を進め、三好三人衆らを次々に撃退してきました。窮地に立っていた久秀は「千載一遇の好機」ととらえ、信長に臣従することを決断します。

信長公記では「久秀は我が国に二つとない茶入れ『九十九髪』を献上した」とあります。「茶の湯道具は一国一城にも相当する」と言われていた時代でしたので、信長もさぞかし喜んだろうと思われます。

当時の織田信長は義昭を奉じたとはいえ、天下統一を成し遂げる武将だとの評価は定まっていません。しかし久秀は、いち早く信長の実力を見定めました。つまり、先見の明があった戦国武将だったのです。

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戦国大名のトップに躍り出る

織田信長の圧倒的な軍事力で上洛を果たした足利義昭は、念願の第15代将軍となりました。京の人々は義昭を歓迎する一方、信長の軍勢に対しては「狼藉を働きはしないか」などと不安を抱いていたといいます。

そうした声に信長は、自軍への厳しい軍律を申し渡すとともに、抵抗勢力に備えて内外に厳重な警備を張りました。治安維持に力を尽くすことで、京の貴族や民衆の支持を得て、事実上の支配権を手に入れたのです。

もう一つ、画期的な政策を行います。それは領国内にあった関所の撤廃です。人々の往来をスムーズにさせるだけでなく、物流を広げる効果がありました。信長には「経済」という視点を持つ先見性があったのです。

一方で、将軍義昭からは副将軍や管領といった幕府の要職への任官を求められますが、すべて辞退しています。分不相応と思ったのか、あるいは幕府の枠組みに入りたくなかったのか、信長公記からは読み取れません。

信長は帰国の前、義昭のもとへ挨拶に出向き、義昭から感状とともに足利氏の紋章と旗印を贈られました。信長公記は「前代未聞の度重なる名誉であり、ここに書き尽くすこともできない」と書いています。

「歴史・人物伝~信長飛躍編」では、桶狭間の合戦から美濃攻略、足利義昭を奉じての上洛までを書いてきました。上洛によって、信長が戦国大名のトップに躍り出たのですが、この先にはトップを守るための厳しい戦いの日々が待ち受けているのです。続きは次の機会に書きたいと思います。

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歴史・人物伝~信長飛躍編「桶狭間の合戦」まとめ記事

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歴史・人物伝~信長飛躍編「美濃攻略」まとめ記事

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地図と読む 現代語訳 信長公記

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歴史・人物伝~信長飛躍編⑥~⑨「じっくり時間をかけて美濃を攻略」

noteで連載中の「思い入れ歴史・人物伝~信長飛躍編」で、美濃攻略について紹介しました。note版の⑥~⑨を一括掲載いたします。

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斎藤道三戦死後の美濃はどうなっていた?

織田信長桶狭間の合戦に勝利し、今川義元を討ち果たしました。当面、東からの脅威を懸念することがなくなった信長は、新たなターゲットとして美濃攻略に着手し始めるのです。

美濃は、信長の義父(濃姫の父)でもある斎藤道三が事実上支配していましたが、1556年に息子の義龍が決起し、長良川の戦いで道三を敗死させたことで実権を握りました。

ところが、義龍は桶狭間の合戦の翌年となる1561年に死去し、その長男の龍興が14歳で家督を継ぎます。龍興は若すぎたことに加え、器量も道三、義龍に劣ると言われ、美濃の統治は不安定になっていきました。

信長とすれば、尾張一国を実力で支配下に収めたうえ、今川義元という大敵を破ったという自信もあったでしょう。また、道三から「美濃一国の譲り渡し」も約束されていたとも伝えられています。

幸い、美濃を取り巻く他国の情勢を見ても、尾張織田家以外に美濃進攻が出来そうな領主はいません。また、三河で独立を果たした徳川家康とは同盟関係を結び、東の脅威も払拭できました。

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小牧山を美濃攻略の拠点に

織田信長が、他の戦国武将と違う点の一つに、領地を増やしていくたびに拠点(居城)を移していったことです。武田信玄躑躅ケ崎(甲府)を終生拠点にしていたのとは対照的な動きといえます。

斎藤龍興の代になったからといって、美濃を攻略するのは並大抵のことではありません。何度も攻めてはいますが、道三が支配していた頃の歴戦の武将たちも数多く、長期戦を余儀なくされました。

そこで信長は、清洲城から拠点を美濃寄りに移すことを計画します。最初に家臣たちに申し渡したのは、二の宮山(犬山市)という場所。ここは山中の高山にあり、行き来するのが大変で家臣たちも迷惑がったそうです。

すると信長は「小牧山に移ろう」と言い出しました。こちらは麓まで川が続いているため、引っ越しも便利な場所。家臣たちは「二の宮山よりは、はるかにいい」と喜んだそうです。

信長公記太田牛一は、信長は最初から小牧山を拠点にするつもりだったと推測し、先に不便な二の宮山のことを言ってからなら小牧山移転もスムーズにいくだろうと考えた「計略」だと述べています。

小牧山城は、敵の前線基地だった犬山城とは目と鼻の先にあります。肥沃で物流などの便もよかった清洲城をあえて離れ、この場所に拠点を置いた信長の慧眼ぶりには頭が下がりますね。

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信長公記に記された前田利家

織田信長の側近の一人に前田利家がいます。信長の重臣柴田勝家の指揮下で北陸攻略に尽力し、信長の死後は豊臣秀吉に臣従し、秀吉の厚い信頼を得て加賀百万石の礎を築いた武将として知られています。

利家は、信長から「犬千代」と呼ばれてかわいがられており、側近として常に付き従っていたイメージがありますが、実は信長からけん責処分を受け、近臣から外されていた時期があったのです。

その頃、桶狭間の合戦が起きました。当然ですが、利家には出陣命令は来ません。しかし、「信長様の一世一代の戦いに参加しないわけにはいかない」と思った利家は、合戦に出陣して敵の首を取る活躍をしました。

手柄を挙げた利家は、帰参がかなうものと思っていましたが、信長は許しませんでした。それでも利家は、信長の側近だという自負を持ち続けていたのです。そして翌年、美濃攻めでチャンスが巡ってきました。

この時も、許しを得ずに戦いに加わった利家は、敵方の勇将として名高い足立六兵衛を見事に討ち取ります。信長公記は利家の活躍ぶりに触れたうえで、「前田利家は赦免された」と記しています。

信長は「どんな境遇、立場になっても、自分の力になってくれた」という厚い信頼感を持てたのではないでしょうか。帰参後の利家は、天下統一を目指す信長の期待に応え続けていくのです。

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7年がかりで美濃を攻略

桶狭間の合戦の後、美濃進攻に着手した織田信長でしたが、斎藤道三以来の家臣が多く残っており、攻略には時間がかかりました。ただ、私には「手こずった」というより、「じっくり攻めた」との印象があります。

小牧山城を拠点に据えてからは、北東にある犬山城加治田城富加町)、猿啄城(さるばみじょう、坂祝町)、宇留間城(各務原市鵜沼)と、美濃方の武将たちを次々と攻略していきました。

また、木下藤吉郎豊臣秀吉)が築いたとされる墨俣一夜城のエピソードのように、木曽川長良川を北上して何度も攻め込み、徐々に勢力範囲を広げていったのです。

信長にとって攻略の決定打となったのが、美濃三人衆(稲葉一鉄氏家卜全安藤守就)が味方に付いたことです。これを受けて、斎藤龍興の居城である稲葉山城を一気に攻め、龍興は敗走しました。

信長は、小牧山城から稲葉山城に拠点を移し、地名を「岐阜」と改めさせました。信長の視線の先には、はっきりと京の都が見えていたのでしょう。天下統一を目指す信長の居城にふさわしい名前を選んだのです。

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歴史・人物伝~信長飛躍編の「桶狭間の合戦」まとめ記事

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 歴史・人物伝~信長飛躍編「義昭を奉じて上洛」まとめ記事

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地図と読む 現代語訳 信長公記

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大河ドラマ「麒麟がくる」についての感想

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大河ドラマ麒麟がくるが、昨夜の放送で最終回を迎えました。このドラマがスタートした時から、最終回は「本能寺の変」だと分かっていましたので、どんな描かれ方をするのかに注目していたのです。

改めて本能寺の変について紹介すると、天下統一にばく進していた織田信長に対し、重臣明智光秀が信長と嫡男・信忠を殺害した謀反で、その後の日本史の転換点となった事件です。

光秀が謀反を起こした理由は昔から様々な推測がされてきましたが、「麒麟がくる」では「光秀が一人で考えて決断した」という筋書きでした。ただし、野望や恨みではなく「排除する」との視点になっていました。

自害の前に信長は「わしを焼き尽くせ」と命じました。信長という存在そのものを世の中から完全に消してしまうとの意図だったと思います。それは光秀の「排除」の理屈とも、ある意味合致するのではないでしょうか。

少し前の回で、帰蝶(信長の妻)との間で「信長が死んだら、光秀も死ぬ」との会話がありました。それはドラマで、光秀の敗北や非業の死がリアルに描かれなかった理由づけにもなっていたのでしょう。

ひとつ釈然としないのは、タイトルの「麒麟がくる」の意味です。光秀は麒麟を呼ぶ存在ではなかったという結末でした。では、麒麟を呼ぶのは誰か、麒麟とは誰のことだったのか? 私には分かりません(苦笑)

最後に、放送中も話題になった架空人物の扱いです。ラストで天皇や将軍が光秀への思いを架空人物(東庵、駒)に語っていますが、あの場面はモノローグでも十分だったなあ、というのが率直な感想です。

1年間たっぷり楽しませていただきました。制作者や俳優さん、スタッフの皆さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。

※当ブログはnote版「歴史・人物伝~わたし編」より転載いたしました

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歴史・人物伝~信長飛躍編①「信長とはどんな人物か?」と聞いた武将

note版「思い入れ歴史・人物伝~信長飛躍編」を執筆中です。前回まで桶狭間の合戦について書いてきましたが、次は美濃攻略の話に進んでいます。

順番が前後しましたが、信長飛躍編①「信長とはどんな人物か?」と聞いた武将、を掲載いたします。

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「信長とはどんな人物か?」と聞いた武将

時は1559年頃、信長は一族との厳しい戦いに打ち勝ち、尾張一国をほぼ統一した時期にあたります。

太田牛一の「信長公記」によると、その頃「天沢(てんたく)」という尾張出身の高僧が、甲斐の国を訪れて武田信玄と面会したそうです。すると信玄は、信長の様子をありのまま話すよう求めたといいます。

天沢は、信長が毎朝馬の調練をし、鉄砲の練習、弓の稽古、兵法の学習を行い、鷹狩りにも熱心だと話します。さらに信玄が「趣味はあるのか」と尋ねると、天沢は「舞と小唄」だと答えました。

ここで、小説やドラマでお馴染みの一節が登場します。

人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり
※敦盛の舞

さらに、これまたお馴染みの小唄も紹介されます。

死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすよの
※死は必ず訪れる。死後、私を思い出してもらうよすがとして、何をしておこうか。きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろう

天沢に対し、信玄は「真似をしてみよ」と言ったそうです。出家の身だからと一度は断りますが、是非にと言われたため、真似をしたといいます(笑)

鷹狩りに「戦上手」を見た信玄

信玄と天沢の面会の中で、注目しておきたいのが「鷹狩り」の話です。天沢は、信長の鷹狩りの仕方について詳しく説明しています。かなり用意周到に準備した鷹狩りをし、信長は「上手だ」と話しているのです。

鷹狩りのお供に太田牛一が入っているので、天沢の言葉を借りながら、太田が鷹狩りの様子を振り返って記したのではないかと思われます。いずれにしろ、その話を聞いた信玄は次のように語りました。

「信長の武者をしられ候事、道理にて候よ」
※信長殿は合戦上手ということだが、なるほど、そのとおりですな

戦国屈指の名将である武田信玄が、織田信長に注目し始めたことをうかがえるエピソードと言えるでしょう。さらに、多くの武将たちをアッと言わせる出来事が間もなく起こるのです。

★参考文献 「現代語訳 地図と読む信長公記

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地図と読む 現代語訳 信長公記

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歴史・人物伝~信長飛躍編②~⑤「世にその名を知らしめた桶狭間の合戦」

noteで連載中の「思い入れ歴史・人物伝~信長飛躍編」で、桶狭間の合戦について紹介しました。note版の②~⑤を一括掲載いたします。

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桶狭間の合戦は信長の「逆転劇」ではない

永禄3年(1560年)、織田信長が天下にその名を知らしめた「桶狭間の合戦」がありました。駿河など3か国の太守・今川義元の大軍を打ち破り、大将である義元の首級を挙げたのです。

義元が3万とも4万とも言われる大軍を率いていたのに対し、信長の軍勢は2千足らずの寡兵とされていたことから、信長の奇襲による戦国屈指の番狂わせ、あるいは逆転劇と言われ続けてきました。

一昔前のドラマや映画では、輿に乗って悠々と進軍する義元に対し、信長は僅かな近臣だけで出陣します。そして、義元の本陣に奇襲戦を仕掛けて義元を討ち取り、勝ちどきをあげます。まさに名場面ですよね。

ところが近年の研究で、信長が「一か八か」の戦いに挑んだ奇襲戦ではなかったことが分かってきました。

大高城を巡る攻防戦

沓掛城まで進軍してきた義元は、松平元康(徳川家康)に命じて、大高城に兵糧を運び入れるよう指示します。義元の軍略は、尾張との境にある大高城を拠点にして、尾張侵攻作戦を実行するつもりだったと思われます。

一方の信長は、大高城への進軍を想定し、その近くに鷲津、丸根、善照寺、中島の各砦(とりで)を築いたのです。そこに一族や重臣を配置し、今川軍への防戦体勢を整えます。

また、尾張への玄関口となる鳴海城を守っていた敵将・山口教継(元々は織田家の家臣だったが今川方に裏切っていた)を、義元自らの手で誅殺させるという謀略も図っていたのです。

大高城を拠点とするためには、各砦の織田軍は邪魔であり、危険な存在です。また信長は、たびたび今川軍に兵を差し向けてきます。義元は、各個撃破のために軍勢を分散させなければなりませんでした。

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 桶狭間の合戦に向けた信長の軍略とは

桶狭間の合戦の当日、沓掛城を出た今川義元の大軍は、兵糧を運び込んだ大高城を目指して、西へと進軍を開始しました。義元の胸中は「大高城に入ってから尾張侵攻の戦いをする」だったと思われます。

その前夜、清州城の織田信長の元に「今川軍が大高城に兵糧を運び込んだ」との知らせが入ります。ところが、家老たちとは軍略の話をせず、いったん各自を引き上げさせるのです。

合戦当日の夜明け前、鷲津、丸根の両砦に今川軍が攻めかかったとの知らせを受けた信長は、意を決したかのように「敦盛」を舞います。そして戦支度を整え、出陣するのです。信長公記はこう記します。

この時、従ったのはお小姓衆の(6人の名前は省略)。これら主従六騎、熱田まで三里を一気に駆けた。
※地図と読む現代語訳信長公記より

まさに電光石火のごとく、飛び出していったのです。

明暗を分けた「戦いへの意識の差」

出陣の様子だけを読むと、信長がごく少数の軍勢を率いて今川軍に奇襲戦を挑んだと思ってしまいますが、信長は慎重でした。重臣佐久間信盛が守る善照寺砦に入り、自軍を整えながら軍略を練ります。

そして、今川軍が東から西へと進軍し、途中の桶狭間で長時間の休憩を取っていることを知ります。清州城からの信長は、北から南へと進んできました。今川軍の進軍路とクロスする場所こそが桶狭間だったのです。

信長は、義元が大高城に入ってしまったら勝ち目はないと考え、「本陣に居る今こそ、義元を討つ千載一遇のチャンス」だと決断。今川軍が各砦の攻略で、軍勢を分散させているのも好機ととらえたのです。

義元は「戦いはこれからだ」と思っていたのに対し、信長は「今こそ戦うべき時」と考えます。この意識の差こそが、桶狭間の合戦での明暗を分けたのではないでしょうか。

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桶狭間の合戦で信長が大勝利

いよいよ桶狭間の合戦のクライマックスです。今川義元が軍勢を休めている桶狭間に近づくため、織田信長は善照寺砦から中島砦に将兵たちを移動させます。信長公記によると、兵の数は2千に満たなかったそうです。

中島砦から出陣すれば、あとは桶狭間に突撃するしかありません。今川軍に対して、あまりにも寡兵だったので、家老たちは信長を止めようとします。すると信長はこんなことを言いました。

「少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある」ということを知らぬか。(中略)敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ。ひたすら励め。※地図と読む現代語訳信長公記より(以下、引用同じ)

単に将兵たちを鼓舞しただけではありません。敵の首を取って来た近臣たちにも同じことを言い聞かせました。つまり、「敵の大将・義元の首さえ取ればよい」という明確な指示だったのです。

ついに義元を討ち取る

こうして信長は、義元の本陣だけを目指して突き進んでいきます。その時、激しいにわか雨が振りつけ、今川軍に悟られないうちに接近することができました。天運も信長に味方したのです。

空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて「それ、掛かれ、掛かれ」と叫ぶ。黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水をまくように後ろへどっと崩れた。(中略)義元の朱塗りの輿(こし)さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。

防戦一方の今川軍に対し、猛然と攻めかかる織田軍。こうなると、兵の数は関係なくなります。織田軍は、馬回りや小姓たちに死傷者を出しながらも、徐々に義元を追いつめていくのです。そして・・・

服部春安は義元に打ちかかり、膝口を切られて倒れ伏す。毛利良勝は、義元を切り伏せて首を取った。

信長は、義元を討つ千載一遇のチャンスを見事にものにして、大勝利を上げました。信長公記によると、信長は馬の先に義元の首を掲げ、その日のうちに清洲城に帰還したといいます。

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桶狭間の合戦は徳川家康の運命も変えた!

織田信長今川義元を討ち取った桶狭間の合戦は、その後の織田家の飛躍と今川家の凋落をもたらすきっかけになりました。同じように、この合戦で運命を大きく変えた人物がいます。徳川家康です。

家康は当時、松平元康と名乗っており、三河の領主でありながら人質として今川家で育ちました。成長しても三河(岡崎)に戻ることはかなわず、今川家の属国扱いをされていたようです。

尾張攻略の拠点を大高城に定めた義元は、家康に先陣を命じ、大高城への兵糧運び込みを指示しました。さらに、織田軍の前線防衛基地である鷲津、丸根の両砦攻めにも出陣していたのです。

大高城に戻っていた時、「義元討ち死に」の報に接します。家康は今川軍と行動を共にはせず、本来の居城である岡崎城に戻りました。今川家との離反とも、織田軍への備えとも言われる独自の動きです。

信長公記によると、織田軍は何度か三河攻めをしているようですが、信長の次のターゲットは美濃だったため、本格的な攻略には至っていません。家康は、三河一向一揆に苦しめられながらも、やがて三河統一に成功します。

義元が大高城入城を果たしていたら、おそらく尾張攻略の先陣を申し渡されていたでしょう。あるいは戦いの中で命運尽きたかもしれません。その意味では、桶狭間の合戦は家康の大きな転機だったと言えます。

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歴史・人物伝~信長飛躍編「美濃攻略」まとめ記事

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歴史・人物伝~信長飛躍編「義昭を奉じて上洛」まとめ記事

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地図と読む 現代語訳 信長公記

地図と読む 現代語訳 信長公記

  • 作者:太田 牛一
  • 発売日: 2019/09/28
  • メディア: 単行本
 

 

note版「歴史・人物伝」執筆再開

「思い入れ歴史・人物伝」の2021年執筆をnote版にて再開いたします。当面、ブログでは、note版の「歴史・人物伝」より記事を数本程度まとめて掲載させていただく形を継続したいと考えています。

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note版本年第1弾は、戦国武将の織田信長を取り上げます。note版では、昨年8月に引き続いての「信長編」となります。

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この時は、尾張の大うつけと陰口を叩かれながら、斎藤道三の娘を妻に迎え、一族の争いに勝って尾張一国を統一するまでの「若き日の織田信長」について書いてきました。

今回はその続きで、信長がその名を世に知らしめた「桶狭間の合戦」から、美濃進攻と攻略、そして足利義昭を奉じての上洛までを「信長飛躍編」として書いていく予定です。

前回同様、執筆資料とするのは太田牛一の「信長公記」です。2次史料ですが、信長側近の太田が比較的客観的な目線から丁寧に書き綴っているため、史料価値が高いとされています。参考文献には「現代語訳 地図と読む信長公記を使わせていただきます。

ブログへの掲載は今しばらくお待ちください

地図と読む 現代語訳 信長公記

地図と読む 現代語訳 信長公記

  • 作者:太田 牛一
  • 発売日: 2019/09/28
  • メディア: 単行本