歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~太平記編番外コラム2本

note版「思い入れ歴史・人物伝~太平記編」の番外コラム2本を掲載いたします。

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参考文献は「マンガ日本の古典 太平記

太平記編を書くにあたっての参考文献「マンガ日本の古典」シリーズの「太平記」についてご紹介します。著者は劇画家のさいとう・たかをさんです。

この本を書店で見つけたのは今年5月下旬ころでした。「大宰相シリーズ」などで馴染み深いさいとうさんの著作だったので、上中下巻をまとめて購入し、一気に読み込みました。

太平記」の舞台である鎌倉末期から南北朝は、敵味方が激しく入り交じる動乱・戦乱の時代でした。室町幕府初代将軍の足利尊氏でさえ、勝ったり負けたりを繰り返しているほどです。

マンガ「太平記」は原作に沿いながらも、さいとうさんが「注釈」を加えながら描いていますので、原作者の思いや時代背景などが分かりやすかったです。もちろん、合戦の描写が素晴らしいのは言うまでもありません。

今回、noteで書いた部分は上巻にあたります。「太平記」はさらに、後醍醐天皇の親政から南北朝の動乱へと話が進んでいくのです。再度、歴史・人物伝で取り上げていければと思っています。

大河ドラマ太平記」のこと

1991年のNHK大河ドラマで、鎌倉末期から南北朝時代を初めて取り上げた「太平記」が放送されました。脚本は、現在放送中の「麒麟がくる」も手掛けている池端俊策さんです。

戦国時代と幕末・維新の時代ばかりを追いかけていた私にとって、太平記の舞台となる時代は未知でした。放送に合わせて様々な本が出版されましたので、それらを読みまくった記憶があります。

この時代は、敵味方や勝敗がはっきりしている戦国や幕末と違い、理解するのに時間がかかりました。それでも、池端さんの分かりやすいシナリオのお陰で、ドラマは毎回楽しく視聴させていただきました。

主役の足利尊氏真田広之さん、後醍醐天皇片岡孝夫さんが演じ、脇を固める俳優もそうそうたるメンバーが揃っていました。その中でも、印象に残った配役の方が何人かいらっしゃいます。

一人は北条高時役の片岡鶴太郎さん。古典文学「太平記」で描かれる暗君そのままに、どこか虚無感が漂い、やがて滅びゆく最高権力者の姿を見事に演じました。鶴太郎さんの新境地を築いた配役かもしれません。

それから、尊氏の弟・足利直義役の高島政伸さん。常に尊氏を支え続け、足利幕府の基礎を作った人物です。最後は兄弟の対立の末、尊氏に殺されますが、「わしを殺してこそ大将軍じゃ」と語る姿には涙しました。

もう一人、尊氏の生涯の盟友だった佐々木道誉役の陣内孝則さんです。源氏の系譜をもつ道誉は、この当時「ばさら大名」と呼ばれており、陣内さんが豪快かつ知略に富んだ人物を演じていました。

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思い入れ歴史・人物伝~太平記編⑦~⑫

note版「思い入れ歴史・人物伝」~太平記編の⑦~⑫をブログで一括掲載します。

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ばさら大名といえば佐々木道誉

番外コラムの中で、大河ドラマ太平記」で印象に残った出演者に佐々木道誉役の陣内孝則さんを挙げました。権謀術数に長けた武将であると共に、道誉は「ばさら大名」としても知られています。

「ばさら」という言葉を調べると、華美な服装を好んだり、勝手気ままな振る舞いをしたりという南北朝独特の美意識だということが分かりました。天皇や公家といった古くからの権威も軽んじていたとされます。

道誉は北条家に仕える武将で、後醍醐天皇の挙兵時には討伐軍として派遣されますが、足利尊氏らと天皇側に寝返って、倒幕に一役買いました。同じ源氏の系統だったので、行動を共にしやすかったのでしょう。

その後、足利尊氏後醍醐天皇から追討を受けると、足利方だった道誉は天皇方の新田義貞軍に加わります。ところが、新田軍の形勢が不利とみるや、再び足利軍に「寝返り」をして新田軍を敗北に追い込むのです。

「寝返り」というと、卑怯者の代名詞のように言われますが、それは江戸時代以降の価値観であり、当時は「勝ち馬に乗る」ことが当たり前でした。その意味でも、道誉は時代の流れをよく見ていたと言えるでしょう。

次回は話を鎌倉幕府倒幕時に戻し、後醍醐天皇の挙兵に呼応した人物を順次紹介していきます。

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武勇に優れたがゆえに悲劇を生んだ護良親王

後醍醐天皇隠岐へ配流となり、倒幕勢力が衰えるかに思われましたが、天皇に代わって「幕府を倒せ」という令旨(命令)を全国の諸侯に出していたのが、天皇の子・護良親王でした。

親王は幼くして僧籍となり、比叡山天台座主の地位にいました。もともと学問よりも武芸に長けていたとされ、元弘の変をきっかけに起きた動乱で、僧籍から還俗して倒幕の旗手となったのです。

幕府からは、倒幕を企んだ天皇の子の中で「最も危険な存在」だとして、たびたび命を狙われます。親王紀伊半島山中を転々としながらも令旨を出し続け、自らも軍を率いて幕府に抵抗しました。

倒幕が達成され、後醍醐天皇の親政になると、功績を認められた護良親王征夷大将軍に任じられます。しかし、足利尊氏らと対立し、天皇への謀反も噂され、ついには捕らわれの身となってしまいました。

あまりにも武勇に優れていたがゆえに、倒幕後も影響力を保持したかったのでしょう。後継者争いの火種を消したい天皇は、天台座主に戻ることを望んでいたと思われ、父子の思いの違いが悲劇を生んだのだと思います。

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計略を駆使して幕府軍を悩ませた楠木正成

今回紹介する河内の武将・楠木正成は、日本史上屈指の軍事の天才と言われ、その計略を多くの戦国武将が参考にしたほどです。また、天皇に忠義を尽し抜いたことから「忠臣の代表的な人物」と言われてきました。

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕の挙兵に呼応した正成は、小さな勢力ながらも英知を結集した奇想天外な戦略で幕府の追討軍を悩ませ、戦いを引き延ばすことで倒幕勢力を勢いづかせました。

天皇笠置山で捕らえられた後も、正成は自身の居城である赤坂城に立てこもります。幕府軍は「たやすく陥落できる」と高を括っていましたが、巧みな籠城戦を行う正成軍に手を焼き、城攻めが長引きました。

正成は一族全滅を装って赤坂城を撤退しますが、その後も神出鬼没なゲリラ戦を展開。単に敵を蹴散らすだけでなく、相手が武勇の誉れ高い武将ならば「戦わずして退却させる」という戦術も使っていました。

千早城を築いて再び籠城戦に挑んだ正成は、様々な計略を用いて、取り囲む幕府の大軍にも一歩も引かずに交戦します。時期を同じくして、後醍醐天皇隠岐からの脱出に成功し、倒幕の機運が一気に高まるのです。

そして、幕府軍を率いる武将の中にも倒幕に加担する者が現れます。その代表的な人物が、足利尊氏新田義重でした。

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天皇方についた足利尊氏

第9回でご紹介した楠木正成は「忠臣」の代表的人物でしたが、「逆臣」の代表的人物とされたのが足利尊氏後醍醐天皇の親政を打ち破り、征夷大将軍として幕府を開いたため、「逆臣」とされたのです。

しかし、後醍醐天皇の倒幕が成功したのは、足利尊氏天皇の味方に付いたからです。尊氏は幕府(北条氏)から大軍を任されて、倒幕勢力の討伐に出陣しましたが、密かに天皇方と連絡を取っていました。

当時、京都には幕府の組織である六波羅探題がありました。尊氏は西国の武将らを引き連れ、六波羅探題を攻め滅ぼします。北条方が一掃されたことを受け、後醍醐天皇はようやく京都に戻れました。

幕府にとって「反逆」といえる行動を、尊氏はどの時点で決断したのでしょうか。鎌倉を出陣する際には「思い」を持っていたと思われますが、実弟の直義など少数の者しか知らなかったと考えられます。

尊氏は、北条高時から「高」の字を授かって「高氏」と名乗り、北条一族の女性を妻に迎えています。北条氏は「尊氏は身内同然」と思っていたに違いありません。だからこそ、尊氏の「反逆」は致命傷になったのです。

そして、幕府の本拠地である鎌倉にも倒幕軍が襲い掛かります。その主役が新田義貞です。

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海に太刀を投げ入れた新田義貞

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕の挙兵に端を発し、護良親王楠木正成らの抵抗、足利尊氏の寝返りにより、京都をはじめ西国は天皇方が制圧しました。そして、東でも挙兵した武将がいます。新田義貞です。

新田家は、源頼朝や足利家と先祖を同じくしながら、鎌倉幕府での地位は高くありませんでした。その分、北条一族とは一線を画しており、天皇の倒幕の意志が伝えられると、本国(群馬県)で挙兵の準備をします。

最初は新田勢のみの小さな勢力でしたが、足利尊氏の幼少の子・千寿王(義詮)を立てながら鎌倉に向かって快進撃を続けます。尊氏が六波羅探題を滅亡させたと聞き、自分は幕府本体を滅ぼすと意気込んでいたのです。

各地で勝利を収めながら進軍する新田軍ですが、鎌倉は三方を険しい切通しに囲まれ、もう一方が相模湾という天然の要害です。鎌倉西側の稲村ケ崎にたどり着いた義貞は、何とか活路を見出そうとします。

太平記によると、稲村ケ崎で義貞は「我らを通したまえ」と天地神明に願い、海に太刀を投げ入れました。すると、見る間に潮が引いて砂浜が現れ、北条の軍船も沖に流されてしまいます。

義貞の大軍勢は一気に鎌倉へなだれ込むことができ、幕府軍と最後の決戦に挑みます。太平記に書かれた義貞の行動が、故事として唱歌「鎌倉」の1番で歌われるようになったのです。

次回は、追いつめられた北条一族と最高権力者・北条高時について書きたいと思います。

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一族もろとも滅亡した北条高時

後醍醐天皇鎌倉幕府打倒の願いは、六波羅探題滅亡によって京都奪還に成功し、幕府本拠地の鎌倉にも新田義貞の大軍勢がなだれ込み、いよいよ最終決着へと突き進んでいました。

北条軍は各所で果敢に戦いを挑みましたが、勢いに勝る新田軍に次々と打ち破られていきます。足利尊氏の妻の兄で、執権だった北条守時も戦死しました。義弟の裏切りをどう思っていたのでしょうか?

大軍勢に追いつめられた北条一族の最高権力者・北条高時は、一族や御内人とともに東勝寺へと追い込まれます。「もはやこれまで」と感じた高時は、自刃することを決断するのです。

高時の自刃に続き、幕府政治の実権を握っていた御内人や一族の女性に至るまで、次々と相果てていきます。まさに「滅亡」という言葉通り、凄惨な光景だったそうです。

太平記では、高時を愚昧な人物と断じています。ですが、一族や家臣がそろって高時に殉じたことを考えると、決して愚昧なだけでなく、カリスマ的あるいはシンボル的な存在だったのではないでしょうか。

この後太平記は、後醍醐天皇による新たな政治を綴っていきます。この項の続きも、いずれ書きたいと考えています。

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思い入れ歴史・人物伝~太平記編①~⑥

note版「思い入れ歴史・人物伝」~太平記編の①~⑥をブログで一括掲載します。

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鎌倉末期の時代背景とは

「思い入れ歴史・人物伝」で、日本最長の歴史文学と言われる「太平記」を取り上げます。太平記の舞台となる時代は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての約50年間で、日本史上指折りの動乱期です。

歴史・人物伝~太平記編では、動乱の発端となる鎌倉時代末期にスポットを当て、太平記での描写を原本にしながら、登場人物を紹介していきます。
その前に、時代背景に触れておきたいと思います。

天皇家両統迭立

太平記の中心人物となるのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇が即位した当時の天皇家は、持明院統大覚寺統という二つの皇統が交互に天皇を即位させていた「両統迭立(りょうとうていりつ)」でした。

両統迭立の背景には、承久の変の戦後処理以降、鎌倉幕府皇位継承に深くかかわるようになったことが挙げられます。そして、二つの系統のきっかけとなったのは、後深草天皇亀山天皇の兄弟でした。

それぞれ、自分の子孫に皇統を継がせたいと思い、対立が深まっていったのです。そこで幕府が「交互に皇位を継承しなさい」と裁定を下しました。大覚寺統後醍醐天皇も、その流れの中で即位しています。

後醍醐天皇は、兄の子である邦良親王が皇太子でした。しかも、その次は持明院統量仁親王(のちの光厳天皇)とされ、このままでは一代限りの天皇となる運命が待ち受けていたのです。

鎌倉幕府の北条得宗専制

一方の鎌倉幕府ですが、源頼朝が幕府を開いたものの、源氏将軍は3代で潰えてしまいます。その後、将軍は京都から摂関家や皇族を迎え入れ、幕府の実権は、執権を担う北条一族が握っていたのです。

その中でも、北条氏の惣領家系は「得宗家」と呼ばれ、権力の中心にいました。頼朝以来の家臣だった御家人は、得宗家を中心とした一族によって粛清されたり、抑えられたりしていたのです。

太平記が描かれた当時の得宗家惣領は北条高時でした。幕府は高時を頂点として、北条一族と御内人(側近たち)が牛耳っており、御家人が幕府の政治に参画することが出来にくい状況になっていました。

やがて、後醍醐天皇が倒幕を企図し、動乱が起きるようになると、御家人にも同調しようという動きが出てきます。その中に、太平記のもう一人の主役である足利尊氏がいたのです。

 

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 倒幕意識を強めていった後醍醐天皇

太平記の書き出しは、後醍醐天皇の即位から始まります。太平記編①で述べたように、本来は兄の後二条天皇の子・邦良親王皇位を継承するところでしたが、幼少のために後醍醐天皇皇位についたのです。

後醍醐天皇は、当時としては高齢の31歳で即位しています。太平記では「和漢に通じ、詩歌にたけている」と評されたばかりか、政治にも強い関心を持っていたとしています。

父の後宇多上皇院政をやめ、自らが先頭に立つ天皇親政の政治を開始します。それでも、持明院統大覚寺統の「両統迭立」の流れの中では、「自身一代限りの皇統」で終わることは避けられません。

後醍醐天皇は「両統迭立を作り、皇位継承を意のままにしている幕府を倒してしまおう」との思いを持ちます。さらに、邦良親王が亡くなり、自身の子に皇位継承の芽が出てきたことも倒幕意識に拍車をかけたようです。

ただ、幕府は「次の天皇持明院統量仁親王(のちの光厳天皇)」との裁定を下します。後醍醐天皇の倒幕意識は頂点に達し、ついに1331年、倒幕に直結していく「元弘の変」が勃発するのです。

 

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北条高時御内人の政治

持明院統大覚寺統という二つの皇統が交互に天皇を即位させていた「両統迭立」の時代に、鎌倉幕府はどんな政治を行っていたのでしょうか? そのキーワードになるのが「得宗家」です。

鎌倉幕府は、将軍を補佐する執権という職を置いていましたが、政務は執権が中心となって動かしており、代々北条一族がその職に就いています。北条一族の惣領家が「得宗家」と呼ばれていたのです。

鎌倉時代全般を通して、得宗家はライバルだった他の北条一族や御家人たちを滅ぼしたり、屈服したりして、専制の度合いを強めていきます。その過程で、得宗家の家臣である御内人が台頭するようになりました。

得宗家を北条高時が継いでからも、御内人が政治の実権を握り続けました。太平記では「政務への意欲を無くした高時が、闘犬や田楽にうつつを抜かす日々をおくっていた」と、愚昧ぶりを書き記しています。

本当に暗君だったかどうかは分かりませんが、高時がトップに立つ北条一族の強固な絆は揺るぎないものがありました。倒幕軍に対抗する戦いや後醍醐天皇親政時の反乱などでは、その結束の強さが見られます。

ただ、北条一族に対する御家人たちの不満は、決して小さなものではありませんでした。そんな御家人の一つが足利家でした。

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北条氏と深くかかわっていた足利尊氏

太平記を舞台にした1991年の大河ドラマ太平記」は、足利尊氏が主人公でした。言うまでもなく、室町幕府足利将軍家の初代征夷大将軍で、鎌倉幕府を倒した功労者の一人です。

足利家が征夷大将軍になれたのは、源氏の系統だったのが要因でしたが、当時は他にも源氏の名門家は数多くあり、決して足利家が突出した存在だったわけではありません。

尊氏は元々、高氏と名乗っていました。得宗家の北条高時から「高」の文字をいただいたからで、高氏(以下こう記します)ら足利家は、北条一族と深いかかわりがあったことをうかがわせます。

高氏の正室は、執権を務めた北条守時の妹でしたし、後に後醍醐天皇ら討幕を企図した勢力に対し、幕府の命令で大軍を任されて出兵しています。北条一族にとって足利家、とくに高氏は「身内同然」だったのです。

太平記では、「父親の貞時の喪中を理由に出兵を辞退したが認められず、不満を持った」としています。「身内同然」ゆえに、足利家にとって理不尽と思えるような命令を日常的に受けていたのでしょう。

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倒幕への種をまいた日野俊基

倒幕の思いを持っていたのは後醍醐天皇だけでなく、取り巻きの側近たちも同じでした。その急先鋒だったのが、日野資朝日野俊基でした。1324年には倒幕計画を疑われ、幕府に捕らわれるまでに至ったのです。

この時は、資朝が佐渡流罪となりましたが、俊基は証拠不十分で無罪放免となりました。ただ、太平記は俊基が諸国を歩いて、倒幕の必要性を説きながら勢力拡大を図ったとしています。

太平記の記述通りだとすれば、俊基が楠木正成新田義貞ら討幕の中心人物と接触したかもしれません。また、当時天台座主だった護良親王後醍醐天皇の子)とは連絡を取っていた可能性があります。

後醍醐天皇自らが倒幕を決意した1331年の元弘の変では、再び俊基が捕らえられて鎌倉に送られます。企てを自白した者がいたため死罪は免れず、葛原ヶ岡で斬首されたのです。

さらに、佐渡に流されていた資朝も処刑され、後醍醐天皇護良親王にも幕府の追及の手が伸びていきます。倒幕計画が知られたことで、後醍醐天皇は具体的な行動を起こさざるを得なくなり、笠置山に陣を構えるのです。

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島流しにも怯まなかった後醍醐天皇

1331年の元弘の変で、後醍醐天皇の倒幕計画が幕府の知れるところとなり、身の危険を感じた天皇は京都から脱出して笠置山にこもります。この間に反幕府勢力の結集を試みたのです。

太平記によると、天皇は「大きな常盤木の日陰に上座が設けられている夢」をごらんになり、その大木がクスノキだったとして、河内の豪族だった楠木正成を召還したといいます。

しかし、幕府が派兵した大軍によって笠置山は陥落し、天皇は捕らわれの身となります。そして、約100年前の承久の変の後鳥羽上皇と同様、隠岐島流罪としました。同時に天皇の位もはく奪されます。

過去の天皇上皇は「流罪」にされると、権威や政治生命が断たれるため、諦めて隠遁生活に入っていました。しかし、後醍醐天皇隠岐を脱出して再度蜂起することを考え、それを実行したのです。

護良親王だけでなく、味方につく楠木正成ら西国の武将が多くいたことに加え、自分への監視の目も緩いと思ったのではないでしょうか。幕府の権力の衰えを肌で感じた天皇の果敢な行動が、倒幕へとつながっていくのです。

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★歴史・人物伝~太平記編⑦~⑫はこちら

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「麒麟がくる」放送再開(8月31日、9月1日の記事)

大河ドラマ麒麟がくる」について書きたいと思います。

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光秀の生涯を池端俊策さんが描く

新型コロナウイルスの影響で撮影ができず、大河ドラマが約2か月間放送中断する事態になりましたが、8月30日の放送から再開されました。再開したドラマもしっかりと視聴させていただきました。

麒麟がくる」の主人公は明智光秀です。戦国時代後半、とくに織田信長豊臣秀吉のドラマでは絶対欠かせない重要人物ですが、光秀にスポットを当てたドラマはほとんどありませんでした。

中断前のドラマでは、謎に包まれている光秀の前半生が描かれました。ある意味、脚本の池端俊策さんのフィクションによる部分が中心だったと思います。ですが、全く違和感なくドラマを楽しめましたね。

池端さんは、大河ドラマ太平記」の脚本を書かれており、鎌倉末期から南北朝という敵味方が交錯する時代のドラマを、分かりやすく、かつドラマチックに描かれたのが印象に残っています。

明智光秀も、信長や秀吉のような分かりやすい人物像とは異なり、主人公としては書きづらい武将でしょう。だからこそ、池端さんの脚本に期待しながら毎回楽しみにドラマを視聴しています。

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今後の光秀がどう描かれるか?

8月30日の再開後の話は、桶狭間の合戦の4年後からスタートしました。光秀は越前に居住したままですが、後にキーマンとなる最後の将軍・足利義昭(覚慶)が初登場するなど、新しい動きも見られました。

義昭は、足利将軍家の正当な後継者として、織田信長の助力を得て京都への上洛を果たします。その義昭と信長を引き合わせる役目を担ったのが、光秀だと言われています。

ドラマでは、信長と光秀は旧知となっていますが、家臣の一員になるのはこの時からでした。会社に例えるなら、「信長が幹部候補生をスカウトした」ことになり、すぐに重臣として取り立てられました。

権威や権力に対する信長と光秀の考え方は、根本的に異なっていたと思っています。光秀は、将軍家を中心とした秩序ある世の中を理想としますが、信長は自らが権力の中心になることを目指すのです。

信長の天下統一の過程にあって、光秀は理想とのギャップをどう埋めていくのか、あるいは埋まらないままなのか。池端俊策さんの脚本で、どんなふうに描かれていくのか楽しみにしています。

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歴史・人物伝~新選組編番外コラム:大河ドラマ「新選組!」

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今回は新選組にまつわる大河ドラマについて語りたいと思います。2004年に放送された三谷幸喜さん脚本の「新選組!」です。

以前から新選組に関心はありましたが、近藤勇をはじめとした銘々伝にまでのめり込んだのは、大河ドラマがきっかけでした。三谷さんが、登場人物のキャラクターを見事に描き分けていたからです。

例えば、山南敬助役には堺雅人さんをキャスティングしています。知的で温厚ながら、一本筋が通った人物像を演じられました。堺さんのその後の活躍は、半沢直樹真田丸で実証済みですよね。

ドラマで近藤勇が口にした「武士よりも武士らしく生きる」は、寄せ集め集団である新選組のキャッチフレーズだったと思います。それでも、ほとんどの隊士は志半ばで命を落としているのです。

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思い入れ歴史・人物伝~新選組編⑦~⑫

note版「思い入れ歴史・人物伝」~新選組編の⑦~⑫をブログで一括掲載します。

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 一番隊長で人気ナンバーワンの沖田総司

ここからは、新選組の礎を築いた試衛館時代の仲間たちの銘々伝を語っていきます。

近藤勇土方歳三と並び、新選組の中でも知名度抜群なのが沖田総司です。近藤、土方より10歳ほど年下ですが、剣の腕は抜群だったようで、近藤から塾頭を命じられるほどでした。

沖田は「三段突き」と呼ぶ技が得意だったそうで、新選組時代は多くの浪士たちに恐れられていました。試衛館での指導ぶりは、かなり荒っぽかったと伝わっていますが、若さゆえだったのかもしれません。

ドラマで沖田総司を演じる俳優は、イケメンをキャスティングすることが多いようですが、当の沖田が美男子だったのかは定かではありません。病気により若くして亡くなったことからイメージされたのでしょう。

人柄については、新選組屯所だった八木家の八木為三郎が「子供たちと鬼ごっこをしたり、いつも冗談を言っていた」と振り返っています。人懐こい若者だったのではないでしょうか。

ちなみに、総司の姉は八王子千人同心の井上家から婿をもらい、沖田家を相続しました。これが、総司が天然理心流や試衛館との縁を結ぶきっかけになったのだと思います。

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新選組の変遷を書き残した永倉新八

新選組銘々伝は沖田総司に続き、永倉新八について書きます。永倉は、松前藩士の子として生まれた武士出身で、修行の最中に近藤勇と出会い、試衛館に出入りするようになりました。

永倉は神道無念流の使い手で、その実力は沖田を上回り、新選組では一番の剣の達人とも言われました。近藤勇とともに、浪士たちが集まっていた池田屋へ真っ先に突入した武勇伝が残っています。

一方で、近藤や土方の新選組運営に対し、異を唱えることもしばしばありました。「近藤のわがままが増長している」として、京都守護職松平容保会津藩主)に直接訴え出たことさえあったのです。

幕末・維新の激動を生き抜いた永倉は、明治になって間もなく、近藤や土方らを供養するための碑を東京板橋に建立しました。無念の思いで生涯を閉じた近藤の思いが、永倉にはよく分かっていたのでしょう。

大正時代まで生きた永倉は、自伝「新選組顛末記」を残しました。ここには、試衛館時代からの新選組の様々なエピソードが書き記されており、新選組の実像を知るための貴重な資料になっています。

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短気な槍の使い手の原田左之助

槍の使い手として知られる原田左之助は、幾つかの武勇伝を残している人物でもあります。かなりの短気だったと伝わっており、それを示す次のエピソードが有名です。

左之助は若い頃、「腹を切る作法も知らない」と馬鹿にされたことに腹を立て、本当に切腹をしてしまいます。幸い、命に別状はなかったのですが、その時の傷が腹に一直線に残されていたといいます。

しかも、そのことを反省するのではなく、何かといえば腹を見せ、「俺の腹は金物の味を知っている」と自慢していたそうです。豪放磊落な性格だったことがうかがえます。

坂本龍馬中岡慎太郎が京都で暗殺されたとき、新選組の犯行が疑われ、左之助が容疑者として浮かび上がりました。瀕死の中岡が「こなくそ」という方言を聞いたと証言したことがきっかけになりました。

左之助愛媛県出身で、「こなくそ」は四国地方の方言だったのです。ただ、もし左之助が犯人なら、刀ではなく得意の槍を使っただろうと私は思いますので、新選組の犯行ではないと考えます。

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全盛期に切腹した幹部・山南敬助

山南敬助は、土方歳三とともに新選組の副長を務めた幹部隊員ですが、その活動ぶりや人物像についてはあまり伝わっていません。新選組の全盛期に、切腹により世を去ってしまったからかもしれませんね。

永倉新八の「新選組顛末記」によると、山南は仙台の出身で、剣術の腕もさることながら、尊王攘夷思想の持ち主だったといいます。試衛館時代から上京する頃は、近藤勇も頼りにしていた存在だったのでしょう。

人柄は温厚篤実と伝わっており、新選組で現場の第一線に立った土方歳三に対し、裏方として近藤のサポート役を務めてきたのだろうと思います。それゆえに、徐々に土方と「そりが合わなくなった」のかもしれません。

新選組顛末記」では、切腹の様子に触れています。介錯をしたのは沖田総司で、山南は取り乱すことなく、作法にのっとって堂々と腹を切ったのです。近藤らに武士としての最後の意地を見せつけたかったのでしょう。

その姿に近藤は「浅野内匠頭でも、こうみごとにあいはてまい」と称賛したといいます。ちなみに大河ドラマ新選組!」では、山南を堺雅人さんが演じ、彼の切腹の回が最も反響が大きかったようです。

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切り込み隊長・藤堂平助の非業の死

試衛館時代からの同志の中で、最も年下だったのが藤堂平助でした。沖田総司とほぼ同年代で、若さもあってか、新選組では「切り込み隊長」として様々な修羅場の最前線に立っていたそうです。

平助は、藩祖に藤堂高虎をもつ津藩藤堂家の殿様の落胤だったと伝わっていますが、真偽のほどは定かではありません。仮に落胤なら、藤堂とは名乗らないと思うので、個人的には「偽」かなと思っています(苦笑)

そのエピソードを「真」と思わせたのは、平助が美男子だったからでしょう。新選組隊士の美男子と言えば、沖田が真っ先に浮かびますが、実は平助のことだったのではないかとも言われています。

平助は、試衛館の前に伊東甲子太郎の道場にも出入りしており、その縁で伊東一派を新選組に誘います。ですが、伊東は間もなく「御陵衛士」として分派し、最後は近藤らによって粛清されてしまうのです。

この時、平助は伊東とともに御陵衛士に加わったため、伊東粛清の際の油小路事件では、旧知の仲間たちと斬り合いになって殺害されます。永倉新八は平助を逃がそうとしましたが、かないませんでした。

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浪士組に参加して江戸を立つ

近藤勇をはじめ、試衛館の同志たちにとって大きな転機となる出来事がありました。幕府が上洛する将軍の警護のため、志のある者たちを募って京都に送り込む「浪士組」を組織したのです。

浪士組の発案者は、尊王攘夷思想の持ち主である清川八郎で、腕に自信があるならば身分は問わないという画期的な組織でした。そのため、幕府の予想を大きく上回る浪士たちが集まったといいます。

浪士組の中には、有名道場の出身者や名の知れた博徒、そして水戸藩出身の芹沢鴨といったそうそうたる面々がいました。町道場に過ぎない試衛館は、さほど目立たない存在だったと思われます。

それでも、実戦的な剣術である天然理心流の真価を発揮するには、これ以上ない条件であり、佐幕意識の高い多摩出身の近藤は、幕府に取り立ててもらう絶好のチャンスだと考えたのかもしれません。

浪士組は小石川の伝通院を出発し、中山道を通って京都へと向かいました。近藤勇を筆頭に、土方歳三沖田総司山南敬助永倉新八原田左之助藤堂平助井上源三郎の胸に去来した思いは何だったのでしょうか? 

思い入れ歴史・人物伝~新選組編は、ひとまず今回で終了させていただきます。いずれ、京都での活躍も書きたいと思っています。

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思い入れ歴史・人物伝~新選組編①~⑥

note版「思い入れ歴史・人物伝」~新選組編の①~⑥をブログで一括掲載します。

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 幕末だからこそ生きた天然理心流

幕末の京都で、浪士取り締まりなど治安維持にあたっていた「新選組」は、局長の近藤勇をはじめ、腕に自慢の剣士らが揃う異色の集団でした。その中核を担ったのが、江戸からやって来た「個性派」たちでした。

庄内藩浪人の清川八郎による「京都に上洛する将軍の警護を浪士集団に担わせる」との奇想天外な献策により、幕府は「浪士組」を組織します。この呼びかけに応じたグループの一つが、近藤率いる道場の一派だったのです。

近藤の道場「試衛館」は、天然理心流という極めて実践的な剣術の修練を行っていました。平和な時代であれば、無用の長物だったかもしれませんが、動乱の幕末だからこそ天然理心流の剣術が生きたのでしょう。

天然理心流の稽古で使う木刀はバットくらいの太さがあり、私も持ったことがありますが、振り下ろすだけでも大変です。これで打ち合いをするのですから、かなり厳しい稽古だったと想像されます。

近藤勇と共に浪士組に参加したのは、土方歳三沖田総司井上源三郎山南敬助永倉新八原田左之助藤堂平助でした。彼らは、将軍警護を立派に務め、幕臣に取り立てられることを目標に掲げていたと思います。

新選組」として歴史に名を残す集団が、なぜ登場したのでしょうか? 近藤をはじめ、一人ひとりの人物像を紹介しながら、その「前史」を書いていきます。

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リーダーの素養を持っていた近藤勇

新選組局長の近藤勇は、天然理心流・試衛館道場の道場主でもあり、若い頃から弟子たちを指導する立場にありました。つまり、リーダーとしての素養と経験を持ち合わせていたと言えるでしょう。

近藤は武士の出身ではありません。上石原村(調布市)の農民出身で、子供の頃から熱心に剣術を習って腕を磨き、試衛館の先代に実力と人物を見初められて養子に入り、道場を継ぐことになりました。

大正時代まで生きた永倉新八が、後年こんな話をしています。
近藤が、ある道場で手合わせをした時、相手に竹刀を払い落とされてしまいます。普通ならここで「勝負あった」なのですが、近藤は2、3歩下がって柔術の構えをして寸分のすきも与えなかったのです。最後まで勝負を諦めない天然理心流の真骨頂とも言えるエピソードですね。

新選組時代の近藤は、上昇志向の高い人物でした。それは自身の立身出世のためだけではなく、「(将軍家お膝元の)多摩出身の自分たちこそ、本当の直臣なのだ」という強い佐幕意識があったからだと思います。

現存する近藤の写真を見ると、いかにも武骨で怖そうな印象を与えます。そんな近藤の特技が「げんこつを口の中に入れること」だったそうで、あちこちで特技をお披露目し、得意げになる表情が目に浮かびます(笑)

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偉大なるナンバー2だった土方歳三

新選組の「鬼の副長」と恐れられ、近藤勇の盟友として最後まで支え続けてきた男が土方歳三です。土方も多摩の石田村(日野市)で農家の末っ子として生まれており、出自は武士ではありません。

剣一筋の近藤とは異なり、土方は実家が生産した薬を売り歩いたり、奉公に出たりと、世間の荒波にもまれてきました。そうした経験が、新選組での隊士管理や実務に生かされていたのだと思います。

土方は「偉大なるナンバー2」であり続け、決して自分がトップに立とうとは考えませんでした。近藤と別れた後の函館戦争での指揮ぶりを見れば、リーダーになってもおかしくない力は持っていたと考えられます。

しかし土方は「新選組のトップは近藤勇であるべき」との強い信念を持っていました。同時に近藤も、土方に隊を任せておけば安心だという絶対の信頼があったのです。二人の絆は非常に強固だったと言えます。

冷徹な実務者とのイメージがある土方ですが、和歌や俳句を詠むのが好きという風雅な一面も持っています。また、戊辰戦争直後にいち早く断髪し、洋装に変えるという先進性や合理性も兼ね備えていました。

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近藤を支え続けてきた源さん

新選組編で近藤勇土方歳三と紹介してきましたので、次は一番隊長の沖田総司かと思いきや・・・多摩(日野市)出身のこの人の存在を忘れてはなりません。「源さん」こと井上源三郎です。

多摩地方には、「八王子千人同心」と呼ぶ人々が居ました。普段は農業に従事していますが、有事が起きた際には将軍家を自分たちが守るという強い佐幕意識を持ち、剣術の修練に励んでいたといいます。

八王子千人同心の家に生まれた源三郎は、剣術を学ぶため試衛館の先代に弟子入りします。近藤にとっては兄弟子にあたる存在ですが、近藤が道場主を継ぐと、終生支えていく役に徹したのです。

源三郎の兄で、井上家を継いだ松五郎の子・泰助も新選組に入隊しました。泰助は後に、源三郎の人物像をこんな風に語っています。
「ふだんはおとなしく、温和な人だったが、一度こうと思い込んだら梃子でも動かない一徹な人だった」

日野市にある井上源三郎資料館は、松五郎の子孫の方が井上家にまつわる資料を展示・公開されており、泰助の後日談も2004年に資料館を見学した際に、ご当主の井上雅雄さんから伺いました。

次回は、近藤勇新選組の「サポーター」となった多摩の人々について書きたいと思います。

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支え続けた佐藤彦五郎、小島鹿之助

前回、井上源三郎の紹介の中で、多摩地方に根付いていた八王子千人同心について触れましたが、幕府の治安維持のために京都で活動する「新選組」に対しても、多摩地方の人々は支援し続けていました。

日野の寄場名主だった佐藤彦五郎は、土方歳三の姉と結婚していた縁もあって、試衛館時代から近藤勇たちの良き理解者でした。天然理心流との付き合いは先代の頃からで、日野に出げいこ用道場を設けました。

試衛館道場は多摩地方へ積極的に出げいこに赴いていたといい、彦五郎は自らも心酔した天然理心流を広めたいと考えていたのです。出げいこ道場がなければ、土方や源三郎が近藤と出会う機会もなかったと思います。

小野路村(現町田市)の寄場名主だった小島鹿之助も、新選組を支援した人物の一人でした。近藤や彦五郎とは義兄弟の契りを交わすほど付き合いは深く、鹿之助も出げいこの道場を提供していました。

試衛館時代の近藤も出げいこに訪れていましたが、稽古を付ける代わりに鹿之助から漢学などを学んでいたそうです。後に京都で、様々な層の人物と議論を交わせるだけの学問を養えたのではないでしょうか。

佐藤彦五郎も小島鹿之助も、子孫の方がそれぞれ生家で資料館を設け、新選組などに関する資料公開をしています。二人は、新選組や試衛館を正しく後世に伝えるという使命も果たしていたのです。

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天然理心流4代目を継ぎ、妻を迎える

近藤勇の少年時代(当時の名は勝太)に素質を見初めた天然理心流3代目の近藤周助が、勝太を養子に迎えるきっかけとなったエピソードがあります。永倉新八が「新選組顛末記」の中で語っています。

ある晩、勝太と兄が家にいる時に盗賊たちが押し入りました。退治してやろうと気がはやる兄を勝太は押しとどめます。兄に「賊は入って来た時は気が立っている。逃げる時にこそスキが生じる」と言ったそうです。

そして、引き上げようとする盗賊たちに対し、勝太は「待て!」と一喝します。驚いた盗賊たちは、獲ったものを投げ捨てて一目散に逃げ出しました。勝太が武勇だけでなく、知略も兼ね備えていたことが分かります。

こうして勝太は、近藤勇として4代目を継ぎます。

そして、「つね」という女性と結婚します。近藤は「つねは不器量だ」と語っていたそうですが、夫婦仲はよかったようです。つねが、近藤の稽古着に縫ったという「髑髏(どくろ)」の刺しゅうが現存しています。

つねとの間に一人娘「たま」を授かりますが、間もなく近藤は浪士隊として京都に向かい、つねに留守を任せます。たまは、明治になってから近藤の兄の子(勇五郎)を婿に迎え、5代目を継がせたのでした。

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★歴史・人物伝~新選組編⑦~⑫はこちら

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