人物ドキュメント
※noteとの共通記事です 先日、長野県高遠に出かけた際、建福寺にある諏訪御寮人の墓所を見学しました。諏訪御寮人は武田信玄の側室で、後継者となった勝頼の母ですが、その生涯はほとんど伝わっていません。しかし、信玄が登場する小説やドラマでは欠かせな…
※noteとの共通記事です 長野県民なら誰でも歌える県歌「信濃の国」の歌詞に、歴史上の偉人が登場する一節があります。木曽義仲、太宰春台、佐久間象山といった人物と共に「仁科五郎盛信」が出てきます。仁科盛信とはどんな人物なのでしょう? 盛信は武田信玄…
note版「歴史・人物伝」との共通コラムです 土佐藩(高知県)の初代藩主となった山内一豊は、掛川(静岡県)の小大名として関ケ原の合戦では徳川家康に従軍し、戦勝の論功行賞として土佐24万石の大名に出世しました。立身出世の代表格の一人といえますが、…
note版「歴史・人物伝」との共通コラムです。 戦国武将のライバル関係として真っ先に挙げられるのが、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信です。5度にわたる川中島の合戦は、戦国屈指の名勝負として語り継がれています。 ともに、最終目標…
佐賀藩のカノン砲(佐賀市) 幕末の佐賀藩主としてその名が知られる鍋島閑叟(直正)は、薩摩藩の島津斉彬と並ぶ西洋通の藩主でした。ペリー来航以来、尊王攘夷を掲げる人々が増える中で、積極的に西洋の軍事力や医学を取り入れたのです。 ただ、政治的なス…
藩老本多蔵品館(金沢市、現在は加賀本多博物館) 前田利家を藩祖とする100万石の加賀藩で、長く家老職を務めた本多家があります。その初代が本多政重で、父親は徳川家康の懐刀と言われた本多正信です。政重の前半生は、主君を次々に変えるなど波乱に満ち…
中岡慎太郎館前にある肖像写真(北川村) 中岡慎太郎は、坂本龍馬と同じ土佐勤王党出身の志士で、薩長同盟を締結すべく奔走しました。近江屋で龍馬と一緒にいたところを狙われ、そろって命を落としたことから、龍馬とは同志のように思われがちですが、考え方…
関ケ原の家康本陣跡 豊臣秀吉の死後、天下取りのチャンスが巡って来た徳川家康は、豊臣家臣団の分断につけ込んで自派(東軍)を形成します。石田三成らの挙兵を受け、上杉討伐から反転して西へ向かい、三成、宇喜多秀家、大谷吉継ら西軍との決戦に挑みます。…
家康が訪れていた堺 織田信長の招きで京都や堺の見物に訪れた徳川家康と主な家臣たちは、堺で予想外の事態に直面します。信長・信忠親子が明智光秀に討たれた本能寺の変の勃発です。一度は自刃を口にしますが、本田忠勝らの説得で虎口を脱する決断をしました…
三方ケ原合戦の直後に武田軍に奇襲をかけたとされる犀ヶ崖の戦いの碑(浜松市) 戦国大名・徳川家康として初めて、命の危機にさらされた戦いが「三方ケ原の合戦」でした。戦国最強と言われた武田信玄が、家康の居城がある浜松城近くまで大軍を率いて向かって…
徳川家康像(静岡市) 当ブログでの人物紹介50件目は、歴史上で最も有名な人物の一人、徳川家康の登場です。事績について紹介するまでもありませんので、ここでは家康が迎えた「命の危機」にスポットを当て、何回かに分けて書いてみたいと思います。 家康…
橋本佐内の像(福井市) 幕末・維新には数多くの志士たちが活躍しましたが、その先駆けとなった人物の一人が福井藩の俊英・橋本佐内です。医者の息子として生まれた佐内は、早くからその才能を開花させ、時の藩主・松平春嶽の絶大な信頼を得ていました。 将…
榊原康政、政敬らを祀る榊神社(上越市) 榊原政敬(まさたか)は、高田藩(新潟家上越市)で幕末・維新の時期に藩主だった人です。榊原家は、藩祖が徳川家康家臣の四天王と呼ばれた榊原康政で、紆余曲折がありましたが、譜代大名として幕末まで存続してきま…
濃姫のラッピングバス(岐阜市) 織田信長の父・信秀が、美濃と尾張の政略結婚として斎藤道三の娘を信長の妻に迎えたことは、よく知られた歴史の事実です。しかし、その娘については当時の史料にほとんど登場せず、どんな生涯だったのかも分かっていません。…
本能寺の変の当時、信雄がいたとされる安土城址 織田信雄は織田信長の子であり、嫡男の織田信忠とは母親が同じきょうだいになります。つまり、本能寺の変で父、兄が討たれたことで、織田家の有力な後継者になり得たのですが、そうならなかったことは後の歴史…
勝頼最後の戦いとなった鳥居畑古戦場(甲州市) 織田信忠は、織田信長の嫡男として早くから後継者に据えられてきました。本能寺の変で信長が横死し、ちょうど京都に滞在していた信忠も、明智光秀の軍勢によって自害に追い込まれてしまい、織田家の運命を変え…
沖田総司終焉の地とされる今戸神社(浅草) 幕末の京都の治安を守ってきた新選組で、一番人気と言えば沖田総司です。局長の近藤勇、副長の土方歳三と同じ道場の試衛館出身で、剣の力量と共に近藤や土方の信頼も厚く、新選組では常に一番組長として先陣を切っ…
日吉丸(秀吉)と仲間たちの群像(名古屋市中村公園) 豊臣秀吉は小者として織田信長に仕え、類まれなる英知と働きぶりで大出世を果たし、信長横死後は天下取りへと突き進んで、ついに天下人になります。その秀吉が、自身の右腕として絶大な信頼を寄せていた…
大坂夏の陣の長宗我部物見の松(八尾市) 長宗我部盛親の父親である長宗我部元親は、一時的ではありましたが四国全土を制覇した猛将として知られています。元親は嫡男の信親に期待をかけていましたが、九州での戦いで信親が戦死してしまい、後継者に選ばれた…
斎藤道三のラッピングをしたバス(岐阜市) 権謀術数を駆使して美濃の国主の座に就き、一時代を築いた斎藤道三は「美濃の蝮(まむし)」と言われ、恐れられていました。その道三の娘(帰蝶)が嫁いだ先が隣国尾張の織田信長で、軍事同盟がらみの政略結婚とさ…
五稜郭の土方歳三像 函館市の五稜郭タワーには、総髪で軍服とブーツを身に着けながら、刀を差している人物の像があります。旧幕府軍の一員として函館戦争を戦った土方歳三の像で、モデルとなったのが有名な一枚の肖像写真です。 この写真は、土方の義兄であ…
二股口古戦場の入り口(北斗市) 近藤勇の盟友であり、新選組では鬼副長として近藤局長を支えてきた土方歳三。戊辰戦争に敗れて江戸へ戻り、再起を期した流山で近藤が投降したことで、土方は新選組の事実上のトップとなって新政府軍と戦っていくのです。 そ…
元寇資料館(福岡市) 竹崎季長といっても「いったい誰?」と思う方がほとんどでしょうが、鎌倉時代の元寇を描いた絵巻「蒙古襲来絵詞」は聞いたことがあるかもしれません。竹崎が、元寇での一族の活躍や恩賞交渉の様子を描かせた絵巻なのです。 無名の御家…
川中島古戦場(長野市) 足利尊氏と足利直義の観応の擾乱や、織田信長による弟の信行謀殺など、肉親同士が権力争いをする「骨肉の戦い」は、どの時代でも見られます。戦国武将の武田信玄も、父親の信虎を国外追放し、嫡男の義信を自害に追い込んでいます。 …
足利直義は、室町時代の初代将軍・足利尊氏の実弟ですが、歴史上の人物としては尊氏ほど知られてはいません。しかし、足利将軍家の政権運営を事実上担っていた点では、当時は尊氏に匹敵する存在感を持っていたと思われます。 尊氏は、将軍としてのカリスマ的…
近藤が戦勝祈願したとされる西光寺(調布市) 幕末の京都で治安維持を担っていた「新選組」は、会津藩お雇いの私的な浪士集団から、様々な事件・戦乱への出動実績を積んで幕府に認められ、ついに幕府の正式な軍事集団へと昇りつめました。その局長が、お馴染…
継体天皇の像(福井市) 今回は継体天皇について書きます。当ブログ初めての古代編、かつ皇族のご紹介となります。継体天皇は約1500年前に即位され、その子の欽明天皇から続く皇統が、今上陛下にまで脈々とつながっています。 継体天皇の前の武烈天皇が…
一乗谷の復元家屋(福井県) 朝倉義景は、足利義昭を庇護していたのにもかかわらず、上洛を決断できませんでした。周囲の状況などの理由があったので、決して「KY(空気が読めない)」ではなかったのですが、その後の行動は「KY」と言われても仕方ありま…
一乗谷の朝倉館跡(福井県) 足利義昭を擁しての上洛を成功させた織田信長と、常に比較対象されているのが、越前(福井県)の戦国大名・朝倉義景です。義昭上洛後は、信長と敵対し続け、結果として信長に滅ぼされてしまう悲運の武将となりました。 京を追わ…
信長が戦勝祈願したとされる熱田神宮 「桶狭間の合戦」は、今川義元の大軍を織田信長が撃破し、大将である義元を討ち取った戦いとして、歴史上に名を残しています。劇的な勝利ではありましたが、奇襲戦ではなく、信長の戦略的勝利だったとブログに書かせても…