歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

「朝倉義景①」戦国時代~名門の戦国大名は「KY」だったのか?

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一乗谷の朝倉館跡(福井県

足利義昭を擁しての上洛を成功させた織田信長と、常に比較対象されているのが、越前(福井県)の戦国大名朝倉義景です。義昭上洛後は、信長と敵対し続け、結果として信長に滅ぼされてしまう悲運の武将となりました。

京を追われた将軍後継候補の義昭は、一乗谷の義景の元に身を寄せます。北陸は昔から京への進軍拠点になった土地で、平安末期の木曽義仲南北朝時代新田義貞も北陸から京へ侵攻しました。ゆえに義昭が朝倉家に期待した理由も分かります。

しかし、義景は上洛の決断をしませんでした。滅亡した事実から、後世では義景を凡将と評する論調も数多く見られます。信長の成功事例と比較して、戦国乱世統一の「KY(空気が読めない)」武将だったのでしょうか?

私は義景が動かなかったのではなく、動けなかったと推察します。隣国には加賀を統治した一向一揆の国があり、背後から攻め込まれる恐れが常にありました。隣国に同盟者の徳川家康がいた信長とは、事情が違っていたのです。

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