歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~信長飛躍編⑥~⑨「じっくり時間をかけて美濃を攻略」

noteで連載中の「思い入れ歴史・人物伝~信長飛躍編」で、美濃攻略について紹介しました。note版の⑥~⑨を一括掲載いたします。

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斎藤道三戦死後の美濃はどうなっていた?

織田信長桶狭間の合戦に勝利し、今川義元を討ち果たしました。当面、東からの脅威を懸念することがなくなった信長は、新たなターゲットとして美濃攻略に着手し始めるのです。

美濃は、信長の義父(濃姫の父)でもある斎藤道三が事実上支配していましたが、1556年に息子の義龍が決起し、長良川の戦いで道三を敗死させたことで実権を握りました。

ところが、義龍は桶狭間の合戦の翌年となる1561年に死去し、その長男の龍興が14歳で家督を継ぎます。龍興は若すぎたことに加え、器量も道三、義龍に劣ると言われ、美濃の統治は不安定になっていきました。

信長とすれば、尾張一国を実力で支配下に収めたうえ、今川義元という大敵を破ったという自信もあったでしょう。また、道三から「美濃一国の譲り渡し」も約束されていたとも伝えられています。

幸い、美濃を取り巻く他国の情勢を見ても、尾張織田家以外に美濃進攻が出来そうな領主はいません。また、三河で独立を果たした徳川家康とは同盟関係を結び、東の脅威も払拭できました。

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小牧山を美濃攻略の拠点に

織田信長が、他の戦国武将と違う点の一つに、領地を増やしていくたびに拠点(居城)を移していったことです。武田信玄躑躅ケ崎(甲府)を終生拠点にしていたのとは対照的な動きといえます。

斎藤龍興の代になったからといって、美濃を攻略するのは並大抵のことではありません。何度も攻めてはいますが、道三が支配していた頃の歴戦の武将たちも数多く、長期戦を余儀なくされました。

そこで信長は、清洲城から拠点を美濃寄りに移すことを計画します。最初に家臣たちに申し渡したのは、二の宮山(犬山市)という場所。ここは山中の高山にあり、行き来するのが大変で家臣たちも迷惑がったそうです。

すると信長は「小牧山に移ろう」と言い出しました。こちらは麓まで川が続いているため、引っ越しも便利な場所。家臣たちは「二の宮山よりは、はるかにいい」と喜んだそうです。

信長公記太田牛一は、信長は最初から小牧山を拠点にするつもりだったと推測し、先に不便な二の宮山のことを言ってからなら小牧山移転もスムーズにいくだろうと考えた「計略」だと述べています。

小牧山城は、敵の前線基地だった犬山城とは目と鼻の先にあります。肥沃で物流などの便もよかった清洲城をあえて離れ、この場所に拠点を置いた信長の慧眼ぶりには頭が下がりますね。

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信長公記に記された前田利家

織田信長の側近の一人に前田利家がいます。信長の重臣柴田勝家の指揮下で北陸攻略に尽力し、信長の死後は豊臣秀吉に臣従し、秀吉の厚い信頼を得て加賀百万石の礎を築いた武将として知られています。

利家は、信長から「犬千代」と呼ばれてかわいがられており、側近として常に付き従っていたイメージがありますが、実は信長からけん責処分を受け、近臣から外されていた時期があったのです。

その頃、桶狭間の合戦が起きました。当然ですが、利家には出陣命令は来ません。しかし、「信長様の一世一代の戦いに参加しないわけにはいかない」と思った利家は、合戦に出陣して敵の首を取る活躍をしました。

手柄を挙げた利家は、帰参がかなうものと思っていましたが、信長は許しませんでした。それでも利家は、信長の側近だという自負を持ち続けていたのです。そして翌年、美濃攻めでチャンスが巡ってきました。

この時も、許しを得ずに戦いに加わった利家は、敵方の勇将として名高い足立六兵衛を見事に討ち取ります。信長公記は利家の活躍ぶりに触れたうえで、「前田利家は赦免された」と記しています。

信長は「どんな境遇、立場になっても、自分の力になってくれた」という厚い信頼感を持てたのではないでしょうか。帰参後の利家は、天下統一を目指す信長の期待に応え続けていくのです。

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7年がかりで美濃を攻略

桶狭間の合戦の後、美濃進攻に着手した織田信長でしたが、斎藤道三以来の家臣が多く残っており、攻略には時間がかかりました。ただ、私には「手こずった」というより、「じっくり攻めた」との印象があります。

小牧山城を拠点に据えてからは、北東にある犬山城加治田城富加町)、猿啄城(さるばみじょう、坂祝町)、宇留間城(各務原市鵜沼)と、美濃方の武将たちを次々と攻略していきました。

また、木下藤吉郎豊臣秀吉)が築いたとされる墨俣一夜城のエピソードのように、木曽川長良川を北上して何度も攻め込み、徐々に勢力範囲を広げていったのです。

信長にとって攻略の決定打となったのが、美濃三人衆(稲葉一鉄氏家卜全安藤守就)が味方に付いたことです。これを受けて、斎藤龍興の居城である稲葉山城を一気に攻め、龍興は敗走しました。

信長は、小牧山城から稲葉山城に拠点を移し、地名を「岐阜」と改めさせました。信長の視線の先には、はっきりと京の都が見えていたのでしょう。天下統一を目指す信長の居城にふさわしい名前を選んだのです。

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地図と読む 現代語訳 信長公記

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