歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~信長飛躍編⑩~⑮「足利義昭を奉じて上洛へ」

noteで連載中の「思い入れ歴史・人物伝~信長飛躍編」で、上洛への道について紹介しました。note版の⑩~⑮を一括掲載いたします。

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足利義輝の悲劇と足利義昭の流浪

美濃攻略を果たした織田信長は、いよいよ京を見据えた行動に出ます。その前に、京の支配や足利将軍家がこの頃、どんな状況だったのかについて解説いたします。

信長が上洛して謁見した将軍は足利義輝でしたが、京の事実上の支配者は家臣の三好長慶でした。長慶の死後も嫡男の三好義継や三好一族、松永久秀らが実権を握っていました。

義輝が疎ましい存在となってきたため、三好一族は将軍の排除を企てます。1665年、将軍の屋敷に三好の軍勢が押し入り、義輝を殺してしまうという強硬な手段に出たのです。

義輝には、弟で僧籍にあった覚慶(のちの義昭)がいました。覚慶は三好・松永に命を狙われる恐れがあるとして、側近とともに逃亡します。最初に近江の六角氏を頼り、さらに越前の朝倉義景のもとに身を寄せるのです。

朝倉家は5代にわたって越前を支配する大名で、一乗谷福井市)に大きな城下町を築いていました。義景が、京周辺で最も実力のある大名と見られていたことも、覚慶が頼った理由となったのです。

覚慶は還俗して足利義昭と名乗るようになり、義景に再三、自分を擁して上洛するよう求めました。しかし義景は動きませんでした。そこで、義昭が目を付けたのが、美濃まで台頭してきた織田信長だったのです。

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足利義昭織田信長の歴史的対面

殺された前将軍・義輝の弟である足利義昭は、京を支配する三好一族を追い払い、将軍宣下と京奪還を願いますが、頼みとしていた越前の大名・朝倉義景は上洛の軍を出す気配がありません。

そこで義昭は、織田信長を頼ることにしました。この時、信長との間に入り仲介役を務めたとされるのが明智光秀だと言われています。光秀は朝倉家の元におり、将軍家とも知己の関係だったようです。

信長公記によると、義昭と信長が対面したのは岐阜市の立政寺で、義昭を迎えるにあたり、銅銭千貫文(現在の価値で約1億~1億5千万円)と太刀、鎧、武具、馬を用意し、献上したとしています。

注目すべきは、銅銭千貫文を差し出したことです。織田家は、信長の父・信秀が朝廷に内裏の修理費を献上するなど、豊富な財力を誇っていました。信長が美濃を併合し、さらに経済的基盤が巨大化したのだろうと思います。

対面を果たした信長は、上洛への道のりで障害となる近江の六角氏に対し、上洛に協力するよう求めました。しかし、源氏の流れをくむ六角義賢は応じません。そこで信長は、六角氏征伐を企図するのです。

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上洛の関門となる近江を制する

足利義昭を美濃に迎え入れた織田信長は、義昭を奉じて上洛するための手はずを整えます。三好一族や六角氏など京周辺で信長に対抗しそうな武将たちを制圧し、上洛の安全を確保しようとしたのです。

まず近江の六角義賢父子の征伐にあたります。信長公記によると、六角征伐の武将の中に木下藤吉郎豊臣秀吉)の名がありました。この頃には藤吉郎が、それなりの地位に出世していたことがうかがえます。

また信長公記は、稲葉一鉄ら美濃三人衆が「先鋒を命じられる」と覚悟していたにもかかわらず、信長はそうしなかったため、「意外ななされようだ」と不思議に思ったそうである、と記しています。

当時の戦国武将は、占領した地から次へ進攻する際、占領地の兵に先陣を切らしていました。新しい主への忠誠心を試したのだろうと思われます。しかし信長は、こうした考え方にあまりとらわれなかったのでしょう。

戦力差もあってか、六角氏はさほど抵抗することなく逃亡し、信長は近江平定を果たしました。そこで、美濃で待機していた義昭を迎え、いよいよ京へと上洛の軍を進めていったのです。

一方、京で信長を待ち構えていたのは三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)と松永久秀でした。

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三好三人衆を各個撃破していく

足利義昭を奉じて上洛を目指した織田信長は、近江を平定して京の間近にまで迫ってきました。ただ、畿内には三好三人衆三好長逸三好宗渭岩成友通)がおり、予断を許さない状況だったのです。

万全を期すため、信長は各個撃破にあたります。京都の東側にある東福寺に陣を張り、桂川を超えて岩成友通と激突しました。柴田勝家らが先陣を切った戦いで、抵抗してきた岩成を降伏させたのです。

続いて、京都の西側にある山崎に進軍し、摂津の三好長逸らを攻めます。三好方の池田勝正との戦いは、信長公記で「敵味方とも討ち死にする者が多く出た」と記される激戦でしたが、最後は制圧に成功しました。

上洛戦について、信長公記はこう振り返ります。

戦意は日ごと新たに湧き上がり、戦うに当たっては風の吹き荒れるように激しく、攻めるに当たっては大河が氾濫するような勢いである
※地図と読む現代語訳信長公記より

信長の家臣たちにとっては、多くの戦国武将が目標としていた上洛を、主君が成し遂げようとしていたことはお家の誇りであり、同時に自身の立身出世のきっかけになるととらえていたのでしょう。

そんな信長の上洛を、起死回生のチャンスだと考えていた武将がいました。それが、大和(奈良県)の松永久秀だったのです。

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信長の実力を見定めた松永久秀

残任で勇猛な人物のことを「梟雄(きょうゆう)」と評しますが、戦国時代を代表する梟雄の一人に、松永久秀を挙げる方が多いです。出世を遂げていく過程での行動が梟雄と呼ばれる所以になったとされています。

久秀は、織田信長が上洛する前の京を実効支配していた三好長慶の家臣で、かつては「長慶を抑えて実権を握り、挙句の果てには将軍・足利義輝を殺した」とまで言われていた人物でした。

その後の研究で、久秀は将軍殺しに関与していなかったばかりか、将軍を排除した三好三人衆とは敵対関係だったといいます。久秀は「影の権力者」どころか、存亡の危機にさえあったのではないでしょうか。

そんな中で、足利義昭を奉じて織田信長が上洛の軍を進め、三好三人衆らを次々に撃退してきました。窮地に立っていた久秀は「千載一遇の好機」ととらえ、信長に臣従することを決断します。

信長公記では「久秀は我が国に二つとない茶入れ『九十九髪』を献上した」とあります。「茶の湯道具は一国一城にも相当する」と言われていた時代でしたので、信長もさぞかし喜んだろうと思われます。

当時の織田信長は義昭を奉じたとはいえ、天下統一を成し遂げる武将だとの評価は定まっていません。しかし久秀は、いち早く信長の実力を見定めました。つまり、先見の明があった戦国武将だったのです。

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戦国大名のトップに躍り出る

織田信長の圧倒的な軍事力で上洛を果たした足利義昭は、念願の第15代将軍となりました。京の人々は義昭を歓迎する一方、信長の軍勢に対しては「狼藉を働きはしないか」などと不安を抱いていたといいます。

そうした声に信長は、自軍への厳しい軍律を申し渡すとともに、抵抗勢力に備えて内外に厳重な警備を張りました。治安維持に力を尽くすことで、京の貴族や民衆の支持を得て、事実上の支配権を手に入れたのです。

もう一つ、画期的な政策を行います。それは領国内にあった関所の撤廃です。人々の往来をスムーズにさせるだけでなく、物流を広げる効果がありました。信長には「経済」という視点を持つ先見性があったのです。

一方で、将軍義昭からは副将軍や管領といった幕府の要職への任官を求められますが、すべて辞退しています。分不相応と思ったのか、あるいは幕府の枠組みに入りたくなかったのか、信長公記からは読み取れません。

信長は帰国の前、義昭のもとへ挨拶に出向き、義昭から感状とともに足利氏の紋章と旗印を贈られました。信長公記は「前代未聞の度重なる名誉であり、ここに書き尽くすこともできない」と書いています。

「歴史・人物伝~信長飛躍編」では、桶狭間の合戦から美濃攻略、足利義昭を奉じての上洛までを書いてきました。上洛によって、信長が戦国大名のトップに躍り出たのですが、この先にはトップを守るための厳しい戦いの日々が待ち受けているのです。続きは次の機会に書きたいと思います。

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歴史・人物伝~信長飛躍編「桶狭間の合戦」まとめ記事

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歴史・人物伝~信長飛躍編「美濃攻略」まとめ記事

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地図と読む 現代語訳 信長公記

地図と読む 現代語訳 信長公記

  • 作者:太田 牛一
  • 発売日: 2019/09/28
  • メディア: 単行本