豊臣秀吉の死後、天下取りのチャンスが巡って来た徳川家康は、豊臣家臣団の分断につけ込んで自派(東軍)を形成します。石田三成らの挙兵を受け、上杉討伐から反転して
西へ向かい、三成、宇喜多秀家、大谷吉継ら西軍との決戦に挑みます。
明治時代、関ケ原の合戦の布陣図を見たドイツの軍事顧問は、即座に「西軍の勝ちだ」と断言しました。家康の東軍を包み込むような西軍の布陣は、兵力的には完璧だったといえます。しかし、戦略的には家康がはるかに上回っていました。
家康は、西軍最大の軍事力を持つ毛利家を調略し、毛利軍総司令官の吉川広家に軍勢を動かさないように工作します。さらに、一族の小早川秀秋には東軍への寝返りをそそのかせます。これにより、西軍の事実上の兵力は半減したのです。
ただ、調略に乗るかどうかは、時々刻々変化する政治情勢、さらに合戦後の状況にも大きく左右します。兵力通りの戦いとなってしまえば、東軍惨敗の可能性や家康の戦死もあり得たかもしれません。その意味では、関ケ原は「大博打」だったとも言えます。
次のブログでは、関ケ原で西軍が勝てた可能性について考察したいと思います。
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