歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 

note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の⑮~⑳をブログで一括掲載します。

関ケ原の合戦に参陣した武将たちの銘々伝 

歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭はこちら

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徳川家の面目を保った井伊直政

ここからは、関ケ原の合戦当日にキーマンとなった人物を紹介していきます。

昔から合戦では、戦闘の火ぶたを切る先陣こそ名誉だとされ、いろいろな戦いで仲間同士の先陣争いが繰り広げられてきました。日本史上最大級の戦いである関ケ原の合戦も例外ではありません。

徳川軍は、家康と秀忠の二つに軍勢を分けていましたが、関ケ原の合戦に秀忠軍が間に合わず、豊臣家恩顧の大名が主力部隊にならざるを得ません。その家康軍に従軍していたのが徳川四天王井伊直政でした。

秀忠の同母弟・松平忠吉は、直政の娘婿で、関ケ原の合戦が初陣となります。直政は、忠吉に何としても軍功を立ててもらいたいと思うとともに、徳川家の面目を保とうと画策するのです。

常に東軍の先陣を切ってきた福島正則軍の間隙をぬい、忠吉と直政が率いる鉄砲隊が、西軍の宇喜多秀家軍に銃弾を撃ち込みます。これに宇喜多軍が応戦したことで、関ケ原の合戦が開戦されたのです。

深い霧の中での偶発的な出来事ではないかとも言われますが、私は直政の作戦だったと思います。家康は、先陣が忠吉と直政だと聞いて大いに喜び、同時に「面目が保たれた」と安堵したことでしょう。

井伊直政は合戦後の論功行賞で、三成の領地だった佐和山を所領とし、彦根に城を築きます。井伊家は「徳川譜代の先陣」として、大坂や西国大名に睨みを利かす役割を担うことになるのです。

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毛利家への思いが異なった二人の人物

西軍の総大将に担ぎ出された毛利輝元は、徳川家康と並ぶ五大老の一角であり、西国地方では押しも押されぬ大大名です。ただ、一枚岩だった徳川家とは違い、毛利家は一枚岩になれませんでした。

毛利家を二分したのは安国寺恵瓊吉川広家だったのです。

毛利家の天下を目指した恵瓊

石田三成は家康に対抗するため、輝元を味方に引き入れようと考えます。その橋渡し役となったのが安国寺恵瓊です。恵瓊は毛利家の外交僧として知られ、輝元や小早川隆景毛利元就の三男)の信頼が厚い人物でした。

三成が「秀頼や豊臣家を守るため」に決戦を挑んだのに対し、恵瓊の胸の内は「毛利家が天下に号令すること」を目指していたようです。ただ、「家康を倒す」という目的は一致していました。

三成らの要請を受けた恵瓊は、輝元を説き伏せて大坂城入りを決断させます。その後は、輝元の名代として出陣した秀元(輝元の養子)を後見し、西軍の主力部隊として各地を転戦するのです。

秀元ら毛利勢は、関ケ原の合戦で東軍の東側に位置する南宮山に布陣します。家康を挟撃する絶好の位置なのですが、恵瓊の思惑通りに事は運びませんでした。先陣に吉川広家がいたからです。

毛利家安堵を願った広家

吉川広家は、毛利元就の次男で吉川家を継いだ吉川元春の子で、毛利一門の重鎮です。小早川隆景死去後の毛利家の所領を巡って石田三成に反発心を持ったとされ、どちらかというと家康寄りの人物でした。

広家と恵瓊は馬が合わず、互いに嫌っていたとされます。輝元の大坂城入りにも最後まで反対し、恵瓊と激論を戦わせましたが、結局輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったのです。

「毛利家存亡の危機」と悟った広家は、西軍に従軍しながらも家康に味方することを決断します。黒田長政を通して「関ケ原では戦闘に加わらないので、毛利家の領土を安堵してほしい」と内通するのです。

そして関ケ原の合戦では、毛利家の先陣にいた広家が兵を動かさなかったことで、南宮山の毛利家などの軍勢は西軍から切り離されてしまいます。これが、西軍の大惨敗につながっていくのです。

 

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父譲りの調略で貢献した黒田長政

西軍の総大将だった毛利輝元は、毛利一族を一枚岩で束ねることができず、一族の重鎮・吉川広家の東軍内応という結果を招きました。その広家をはじめ、西軍諸侯の調略に奔走したのが黒田長政です。

長政の父親は、秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛(如水)です。本能寺の変直後の中国大返しをはじめ、九州の平定、北条氏の小田原城開城など、秀吉の天下統一を軍略や調略で支えてきた人物です。

長政は、加藤清正福島正則と親しい間柄だったこともあり、石田三成とは対立する立場となります。また、先妻を離縁して家康の養女を妻に迎えるなど、家康に接近して信頼を得るようになるのです。

関ケ原の合戦に先立ち、長政は「毛利一族が東軍に寝返らせるための調略」にかかります。吉川広家には毛利本家の領土安堵をちらつかせ、小早川秀秋には所領の大幅な加増を約束しました。

東軍大勝利の恩賞として、黒田家は筑前(福岡県)の大大名に出世します。その時、「子々孫々にお家騒動があっても取り潰しはしない」とのお墨付きをもらったとも言われています。

長政は、父の如水を深く尊敬しており、晩年には「父と自分が味方したから東軍が勝った」と豪語したとされます。一方で徳川家への忠節を子々孫々守り続け、福岡藩黒田家は明治維新まで命脈を保ったのです。

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合戦の勝敗を決めた小早川秀秋の寝返り

関ケ原の合戦は東軍西軍ともに相譲らず、数時間にわたって激しい戦いが繰り広げられています。その様子を松尾山から見ていたのが、西軍で1万5千の軍勢を率いていた小早川秀秋でした。

小早川家は、毛利元就の三男隆景が後を継いで毛利一族となりましたが、秀秋は毛利家の血筋ではありません。豊臣秀吉の妻・高台院の兄の子として生まれ、幼少時には秀吉の後継者候補にもなった人物です。

「秀秋を毛利輝元の養子に」との豊臣家からの要望に対し、隆景が逆に「ぜひ自分の養子に」と申し出ました。秀秋の器量を見極め、「毛利家の後継者にすれば、お家存続の危機がくる」と予見したからとも言われています。

小早川軍は、関ケ原で西軍の一員だったとはいえ、東西どちらに付くのか懐疑的に見られていました。結局は東軍に「寝返る」形で、西軍の大谷吉継軍に攻めかかり、西軍総崩れの要因を作ることになったのです。

秀秋は論功行賞で岡山の大大名に出世します。しかし、そのわずか2年後に21歳の若さで亡くなってしまい、小早川家は断絶しました。隆景の予見は不幸な形で当たってしまったのです。

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中央突破で武勇を示した島津義弘

戦国時代の九州で圧倒的な力を誇っていた島津氏。豊臣秀吉に屈服したものの、その武勇は全国に名をとどろかせていました。島津義弘は当主・義久の弟で、多くの戦いに出陣した猛将として知られています。

島津軍は、家康方が守る伏見城へ援軍に出向いたものの、留守居鳥居元忠が入城を拒否したため、西軍に参陣することになりました。関ケ原の合戦では、石田三成の南側に1500の軍勢で布陣します。

合戦が始まっても島津軍は積極的に交戦せず、三成の家臣が出陣を促しても「馬上での物言いは無礼」と追い返しました。結局、小早川秀秋らの裏切りで西軍は壊滅し、戦機を失ってしまったのです。

戦場に取り残された島津軍は「死中に活を求める」ため、東軍に向かって全軍が突撃し、強引な中央突破を試みます。甥の豊久ら多くの家臣が討ち死にする中で、義弘は辛うじて虎口を脱したのです。

家康は、島津征伐も持さないつもりでしたが、島津家の武力と老獪とも言える和平交渉に根負けし、本領安堵させました。その後の島津家は、徳川家と積極的に縁組みをするなど、親幕府の立場を貫き通したのです。

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論功行賞と処分の実権を握った徳川家康

徳川家康率いる東軍が圧勝し、石田三成ら連合軍の西軍が大惨敗した関ケ原の合戦。大坂城にいた西軍総大将の毛利輝元は抵抗することなく退去し、家康はすんなりと大坂城入りしたのです。

巧みな論功行賞ぶり

家康は、豊臣秀頼を立てながらも、諸大名に対する論功行賞と処分の実権を自らが握り、行使していきます。論功行賞では、まず徳川家の領地を大幅に拡大し、金山・銀山など利権の大きい場所を直轄地にしました。

続いて、一門への厚遇です。次男の結城秀康は越前(福井)に、四男の松平忠吉尾張(愛知)に、五男の武田信吉は水戸に加増配置します。娘婿の池田輝政には播磨(兵庫)、蒲生秀行には会津(福島)を与えます。

東軍の豊臣家恩顧の大名も、福島正則に広島、黒田長政筑前(福岡)、細川忠興豊前(福岡・大分)、山内一豊に土佐(高知)など大幅に加増します。ただし、江戸からは遠い地に領地を与えたのです。

家康譜代の家臣団も大名に取り立てられますが、最大でも井伊直政彦根(滋賀)18万石でした。ただし、幕府の政治を担う権利を与え、徳川家を頂点とする譜代大名の集団指導体制を確立させるのです。

徹底した処分を断行

一方、西軍に対しては厳しい処分を科しました。首謀者の石田三成は、小西行長安国寺恵瓊とともに京都の六条河原で処刑され、いずれも所領は没収されました。遠島処分の宇喜多秀家も所領没収となったのです。

毛利輝元は、一族で東軍に付いた吉川広家の嘆願により、辛うじて長門(山口)のみ領土を安堵されます。上杉景勝会津から米沢へ、佐竹義宣常陸から出羽(秋田)へ、それぞれ減封されました。

また、長曾我部盛親(土佐)をはじめ、たくさんの大名が所領没収の改易処分となりました。盛親ら浪人となった武将の中には、後に豊臣家が蜂起した大坂冬・夏の陣に加わる者も出てきます。

豊臣秀頼は、当然処分の対象にはならなかったわけですが、豊臣家が諸大名に管理させていた領地を家康が再配分した結果、摂津・河内・和泉(大阪)のみの所領となってしまったのです。

まとめ

関ケ原の合戦は、関ケ原という特定の場所だけの戦いではなく、東北、北陸、九州などでも戦いが繰り広げられ、全国の大名たちが少なからずかかわっていました。

その結果、勝利者となった徳川家康は、全国の領地を差配する権利を得ることになったのです。合戦から3年後、家康は征夷大将軍に任官して江戸に幕府を開き、260年にわたる徳川幕府が始まります。

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歴史・人物伝~関ケ原編①~④、⑤~⑧はこちら

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