歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~関ケ原編番外コラム3本

note版「思い入れ歴史・人物伝~関ケ原編」の番外コラム3本を掲載いたします。

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大河ドラマ葵徳川三代」のこと

関ケ原の合戦をはじめ徳川幕府初期を描いた大河ドラマ葵徳川三代」について、番外コラムとして取り上げます。

葵徳川三代」とは

葵徳川三代」は、2000年に放送された大河ドラマです。関ケ原の合戦からちょうど400年目の節目にあたり、ジェームス三木さんが脚本を担当した本格的な歴史ドラマとして強く印象に残っています。

物語は、豊臣秀吉死去の直後に始まり、関ケ原の合戦、徳川幕府誕生、大坂冬・夏の陣、秀忠の治世、そして家光の将軍就任までと、家康、秀忠、家光の3代の将軍の時代を描いています。

主役である徳川家康役は津川雅彦さん、秀忠役は西田敏行さんが務め、敵役の位置づけとなる石田三成役は江守徹さんが演じていました。津川さんの家康は、まさに「はまり役」と思いました。

石田三成は、ドラマの作り方によっては卑劣な人物像をあてがわれることもありますが、「葵徳川三代」では、融通は利かないが、豊臣家の行く末だけを心配する実直な人物として描かれています。

ドラマの特徴は

このドラマで強く印象に残っているのは、放送第1回で関ケ原の合戦をダイジェストで紹介し、2回目以降で合戦に至るまでの過程を、それぞれの人物の動きを踏まえながらたどっていく、という構成です。

関ケ原の合戦シーンは、壮大なロケが行われたと聞いており、とても迫力がありました。もちろん、各武将たちの動きや思いも緻密に描かれ、第1回から私を含む視聴者をくぎ付けにしたのです。

ダイジェスト版を紹介するという構成は、ドラマでは欠かせない「先が読めない」という要素を取り払い、逆に「なぜ、この結果になったのか」を見る人に考えさせるように作られています。

セリフも、現代人の言葉ではなく、出来る限り当時の人の言い回しを使っていました。意味が分かりづらい部分も多少はありましたが、時代劇の重厚さが感じられ、私には耳馴染みがよかったです。

なお、オーケストラとピアノが競演するテーマ音楽も好きでした。

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関ケ原の合戦の布陣を考える

歴史・人物伝~関ケ原編を執筆中ですが、本日は私自身が「関ケ原の合戦の史跡」を旅行した時に感じたことを書きます。

関ケ原を歩いてみる

私が関ケ原に降り立ったのは2000年。今から20年前になります。当時、大河ドラマ葵徳川三代」が放送されており、関ケ原の合戦からは400年目の節目にあたっていました。

JR関ケ原駅から徒歩で各武将が布陣した史跡を巡りましたが、かなりコンパクトにまとまっている印象でした。裏を返せば、狭い範囲の中で壮絶な戦いが繰り広げられたということになります。

北西部の石田三成布陣の笹尾山は、関ケ原が一望できる場所にありました。案内図を見ると、家康方の東軍を、西軍が覆うように陣を張っていることが分かります。後方には毛利勢らが布陣した南宮山も見えます。

三成の盟友だった大谷吉継の陣は、関ケ原から西へ向かう狭い谷間だったことも分かりました。かつて不破の関があった交通の要衝であり、そこに最も信頼する吉継を配置した三成の意図がうかがえます。

西軍有利の布陣だったが・・・

現地で入手した陣形図(武将名は私が入力)は、地形や今の交通網が書かれており、旅行から帰ってきた後も随分参考になりました。

合戦の布陣について有名な話があります。明治時代に軍事顧問だったドイツの軍人が、布陣図を見て即座に「西軍の勝利」と言ったそうです。つまり、西軍有利の布陣だったことは明白でした。

ところが、史実では「東軍の勝利」となっています。家康は、どのようにして関ケ原の合戦で勝利を収めたのでしょうか?

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西軍勝利をシミュレーションしてみる

関ケ原の合戦は東軍の圧勝、西軍の大惨敗に終わりましたが、西軍が勝つとしたらどんなケースだったのかを考えてみました。

私がキーマンに挙げるのは、西軍の総大将で毛利家当主の毛利輝元です。輝元は、秀頼を守る名目で大坂城に詰めていたものの、家康らとの戦いにはあまり積極的ではなく、領地を守ることが最も重要と考えていました。

もし輝元が東へ向かって出陣し、関ケ原で布陣するか、少なくとも後詰として佐和山城石田三成の居城、彦根市)に入っていたら、合戦の様相は一変したと考えられます。

輝元が西軍の旗印になれば、吉川広家日和見というわけにはいかず、西軍として参戦を余儀なくされるでしょうし、毛利一族を継いだ小早川秀秋も東軍に寝返らなかったのではないでしょうか。

布陣だけ見れば、西軍が有利であることは一目瞭然で、輝元参陣で両軍が激突すれば、西軍に勝機があっただろうと思います。最悪の場合、家康が合戦で討ち死にすることもあり得ます。

もっとも輝元の出陣となれば、徳川家康も戦略を練り直し、関ケ原での合戦そのものがなかった可能性があります。その場合、歴史はどう変わっていったのか・・・そこまで深追いすることはやめておきましょう(笑)

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