歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 

note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の⑨~⑭をブログで一括掲載します。

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「豊臣家は自分が守る」福島正則

今回からは、関ケ原の合戦に参陣した武将たちの銘々伝を書いていきます。最初は福島正則ですが、その前に合戦に至るまでの経過について触れておきます。

関ケ原に集結する両軍

上杉討伐のため東へ向かった徳川家康と豊臣家恩顧の大名による東軍。その間隙をぬって、石田三成毛利輝元宇喜多秀家らの連合軍である西軍が決起しました。

東の美濃方面へ進む西軍に対し、家康は上杉包囲網を敷いたうえで、東軍を西へと反転させました。豊臣家恩顧の大名らの奮闘で、岐阜城を陥落させた東軍に対し、西軍は大垣城を拠点に対峙(たいじ)するのです。

9月14日に家康が大垣城近くの赤坂へ到着すると、西軍は全軍を関ケ原に移動して布陣します。これに合わせ、東軍も関ケ原への進軍を開始し、15日朝までには布陣を完了。間もなく開戦の火ぶたが切られます。

三成を憎んだ福島正則

福島正則は、上杉討伐か西への反転かを決める「小山評定」で、真っ先に発言して西軍との対決姿勢を明確にするなど、東軍に属する豊臣家恩顧の大名の中で最も影響力を発揮した武将です。

正則は「自分が最も豊臣家に近く、秀頼を守るのは自分をおいて他にない」との意識が強い人物です。戦場での働きが第一と思っている正則には、三成が奉行職として豊臣政権の中枢にいることが不満でした。

以前に加藤清正らと組んで、三成を襲撃するという事件を起こしています。この時、三成は奉行職を解かれ、蟄居(ちっきょ)させられましたが、そんな身でありながら軍事行動を起こした三成を許せなかったのでしょう。

正則が本気で敵視していたのは、西軍でも三成や小西行長ら少数だったかもしれません。ですが、根っからの武人である正則は「戦場で相対する者は全て倒さねばならない」と思ったに違いありません。

 

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「死一等を減ぜられた」宇喜多秀家

関ケ原の合戦で西軍の最大軍事力を持っていたのが、備前(岡山)の領主・宇喜多秀家です。この時秀家は28歳の若さでしたが、徳川家康毛利輝元上杉景勝らとともに五大老に列していました。

石田三成や三奉行の招請に応じ、輝元とともに大坂城入りした秀家は、大坂に詰めていた総大将の輝元に代わり、西軍の主力部隊として伊勢方面の攻略を行い、その後関ケ原の合戦に臨みます。

しかし、合戦で西軍は惨敗し宇喜多軍も壊滅。敗走した秀家は、島津氏にかくまわれていましたが、家康と島津氏が和睦したことで身柄を引き渡され、八丈島に遠島処分となります。

本来なら三成らと同じように死罪になるところですが、秀家の妻は前田利家の娘であり、秀吉の養女だった豪姫。家康が前田家や豊臣家に配慮した結果、秀家は「死一等を減ぜられた」のでした。

二度と本土の地を踏むことのない遠い八丈島で、秀家は約50年生き抜きます。過酷な環境だった半面、戦いや権力に振り回されずに穏やかな生涯をおくれたのではないでしょうか。

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ガラシャの悲劇を乗り越えて」細川忠興

関ケ原の合戦にまつわる悲劇的なエピソードとして有名な細川ガラシャの自害。正確に言うと「家臣により命を絶たれた」わけですが、この事件により、西軍は人質戦略の見直しを迫られることになりました。

ガラシャは、家康に従軍した細川忠興の妻で、諱(いみな)は「たま」と言い、明智光秀の娘として知られています。キリスト教に帰依してガラシャの名を授けられ、父光秀譲りの真正直でぶれない性格だったようです。

忠興の父は、光秀の盟友と言われた細川藤孝で、関ケ原の合戦当時は居城の田辺城(京都府舞鶴市)を守っていました。西軍が大坂から進攻を開始し、伏見城とともに攻撃の的にされた城でもあります。

大軍に攻められ落城に追い込まれる父、命を絶つ選択をした妻と、忠興は厳しい立場にありながら、終始家康の味方として上杉討伐から関ケ原の合戦まで、東軍の最前線で戦い抜きます。

その功績をたたえられ、忠興は加増され豊前中津(大分県)の大名となります。さらに、その子忠利の代には熊本藩に加増転封され、細川家は幕末まで熊本藩を統治することになるのです。

細川家の末裔には、総理大臣や熊本県知事を務めた細川護熙さんがいます。

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「三成との友情に殉じた」大谷吉継

西軍を束ねた石田三成が、一番最初に徳川家康打倒を打ち明けた大名が大谷吉継だとされています。三成が佐和山彦根)、吉継が敦賀という「領地を接する間柄だから」というだけではありません。

吉継と三成、真田親子の関係

吉継は、信長の重臣だった頃の秀吉に近習として仕え始め、秀吉が天下統一を果たしてからは、奉行衆として豊臣政権を支える役目を担ってきました。つまり、三成の同僚だったのです。

敦賀の支配を任される実力者でしたが、病気に冒されてしまい、次第に政権の中枢から離れていきます。健康であれば、おそらく三成や浅野長政らとともに、五奉行に列していただろうと思います。

三成とは深い友情で結ばれていたとされています。有名な逸話ですが、秀吉が開いた茶会で、病身の吉継が口をつけた茶碗を誰もが嫌がりましたが、三成は平然と茶を飲み干したそうです。

また、吉継の娘は真田信繁(幸村)に嫁いでいます。信繁は大坂城に出仕していたとされており、吉継はもちろん、三成とも懇意であった可能性があります。

壮絶な関ケ原での戦いぶり

徳川家康が上杉討伐軍を起こしたとき、吉継も従軍するつもりでした。そこに三成がやって来て、自身の決起に同意するよう求めてきます。家康に通報される可能性もありましたが、三成は吉継を信じていたのです。

吉継は「無謀だ」として三成を諫めましたが、決意の固さを知り、最後は共に戦う決断をします。吉継は、丹羽長重ら北陸方面の諸将を調略しながら、家康に味方した前田利長と一戦交えたのです。

さらに関ケ原には早くから陣を張り、三成ら主力部隊が布陣するのを待ち受けます。吉継の陣の南側にある松尾山には、寝返りの噂が絶えない小早川秀秋の軍勢が布陣したのです。

吉継の軍勢は東軍との激しい戦いを繰り広げますが、寝返った小早川軍らが襲い掛かってきたため、壊滅状態になりました。吉継は、三成の友情に殉じ、戦場で自らの命を絶ったのでした。

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「家康の信頼を勝ち得た大名」藤堂高虎

東軍(家康方)の主力部隊の一つだった藤堂高虎は、主君を変えながら出世を続け、家名を残した「世渡り上手」と言われます。マイナスイメージを持たれがちですが、実際はどんな武将だったのでしょうか。

高虎は近江(滋賀県)の出身で、はじめは浅井長政の家臣でした。浅井家滅亡後は主君を何人か変えましたが、豊臣秀吉の弟・羽柴秀長の家臣になってからは、秀長の元で秀吉の天下取りに尽力しました。

高虎が、福島正則加藤清正と違うのは、同じ豊臣家恩顧の大名とはいえ、仕えていた主君はあくまでも秀長だったことです。秀長の死去後は、一時高野山に出家するなど豊臣家と距離を置いた時期もありました。

その高虎が、次の主君として仕えたのが徳川家康だったのです。関ケ原の合戦の頃は、豊臣家恩顧の意識よりも「家康の天下取りに力を尽くす」という意識の方が強かったのではないでしょうか。

家康は高虎を信頼し続け、藤堂家を譜代大名と同等に扱ってきました。それは、藤堂家が津藩(三重県)という要衝の地を与えられ続けたことにも表れています。世渡り上手だけでは、これほどの信頼は勝ち得ません。

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キリシタンが選んだ道」小西行長

西軍の主力武将の一人・小西行長は、堺の商人の子に生まれ、豊臣秀吉に仕えてからは武将としてだけでなく、実務者としても重用されました。キリスト教に帰依したキリシタン大名でもあります。

行長には加藤清正というライバルがいました。二人は肥後(熊本)を北と南に分けて統治しており、朝鮮出兵でも先陣争いをしたほどです。清正と同等の実力者だからこそ、秀吉も競わせたのではないでしょうか。

行長は、徳川家康に極端な敵対感情を持っていたわけではありません。しかし、家康よりも石田三成との関係が深く、家康に味方した清正への対抗心もあって、西軍の中心的存在になっていったのです。

西軍惨敗後、逃亡していた行長も捕らえられます。キリシタンだった行長はキリスト教の教えに基づき、自害という選択をしません。その結果、首謀者の一人として三成らとともに処刑される運命となりました。

徳川幕府キリシタン弾圧もあって、行長は影の薄い存在になってしまいますが、ヨーロッパでは行長を主人公にした音楽劇が作られるなど、キリスト教の庇護者として高く評価されたそうです。

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関ケ原の合戦当日にキーマンとなった人物の紹介

歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳はこちら

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関ケ原の合戦はなぜ起きたのか?

歴史・人物伝~関ケ原編①~④、⑤~⑧はこちら

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