歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~関ケ原編⑤~⑧「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 

note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の⑤~⑧をブログで一括掲載します。

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大軍勢を相手に壮絶に戦った鳥居元忠

「内府ちがひの条々」により、徳川家康に宣戦布告をした石田三成は、西軍の総大将となる毛利輝元大坂城入りしたことを受け、ただちに軍事行動を起こします。東へ向かって軍勢を進めるのです。

行く手に待ち受けるのは、家康の居城となっていた伏見城です。家康が大軍を率いて出陣したのち、この城は鳥居元忠ら少数の徳川家臣団が守っていました。ここに西軍は攻撃を仕掛けたのです。

鳥居元忠は、家康が今川家の人質だった頃から付き従っていた家臣で、上杉討伐の際には「一人でも多く従軍していただきたい」と進言したそうです。伏見城はわずかな兵力で守る覚悟があったと思われます。

元忠ら徳川家臣団は決死の攻城戦を繰り広げましたが、多勢に無勢だったため、10日余で攻め落とされました。落城の知らせは家康の元にも届き、家康は上杉討伐から「新たな戦略」を迫られることになるのです。

関ケ原の合戦のキーマンも

一方、西軍の攻め手の中に、関ケ原の合戦でキーマンになる2人の大名がいました。一人は小早川秀秋、もう一人は島津義弘です。二次史料では、2人とも当初は東軍に味方するつもりだったとされています。

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家康を後押しした小山評定での発言

上杉討伐のため、大軍勢を率いて東に向かった徳川家康でしたが、その留守を狙って石田三成ら(西軍)が軍事行動を起こしました。家康の家臣・鳥居元忠らが守る伏見城を陥落させたのです。

江戸から北へ向かおうとした徳川家康は、従軍する豊臣家恩顧の大名を集め、今後の方針を決める軍議を開きました。これが「小山評定」です。どんな話し合いが持たれたのでしょうか?

家康の決意に福島正則が・・・

この時、従軍していた主な武将は、福島正則黒田長政細川忠興藤堂高虎池田輝政浅野長政山内一豊らでした。加藤清正は領地の九州に戻っており、従軍していません。

家康は、石田三成宇喜多秀家らが決起し、伏見城を攻略したのち、東へ向かっていると説明。「家族を人質にされている武将もいるだろうから、西軍に味方しても遺恨は残さない」と言い、決断を迫ります。

これに対し、豊臣家を最も大事にしていると自負する福島正則は「この軍事行動は秀頼公のご意向とは関係なく、三成らが勝手にやったこと。家康殿に味方し、三成らを討つ」と宣言したのです。

黒田長政藤堂高虎のように、はじめから家康方に付いていた武将もいましたが、多くの武将は秀頼がいる大坂に向かって出兵することにためらいがあったので、正則の言葉は「強力な大義名分」となりました。

家康を喜ばせた山内一豊

小山評定では、もう一人重要な役割を果たした人物がいます。当時、東海道掛川に領地があった山内一豊です。一豊は「掛川城を家康殿にお預けいたします」と宣言したのでした。

東海道沿いは、家康など関東以北の諸大名対策のため、秀吉が豊臣家恩顧の大名を配置していました。一豊もその一人でしたが、この一言により徳川家に仕える意志を明確にしたのです。

東海道沿いの大名たちも次々と「城明け渡し」を宣言し、家康は西への安全なルートを確保できました。一豊は、この時の功績も加味され、関ケ原の合戦後には土佐一国の大大名に栄転しました。

ちなみに、一豊の妻・千代は聡明かつ先見の明がある女性として知られており、石田三成から味方になるよう求められた密書を「封を切らずに家康様にお渡ししてほしい」と、一豊の陣に届けさせたと言われています。

 

上杉討伐を中断し、石田三成ら西軍との戦いを決断した家康ですが、後顧の憂いは断たねばなりません。次回は、上杉包囲網について書きます

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結城秀康らによる上杉包囲網

石田三成ら西軍が伏見城を攻略し、東へ向かっていると聞いた徳川家康は、小山評定で西軍と対決する決断を下します。しかし、進軍の目的だった上杉景勝への対処も忘れてはいませんでした。

上杉討伐は、会津上杉家と隣接する越後(新潟)の堀秀治や山形の最上義光が、家康に訴え出たことに端を発します。とくに越後は上杉家の元領地であり、会津転封の際に堀家とトラブルがあったようです。

家康は、堀や最上は当然ですが、仙台の伊達政宗常陸(茨城)の佐竹義信にも国境への出陣を命じていました。会津を四方から包囲し、上杉景勝に圧力をかけた上で、本隊が進軍する予定でした。

家康は、軍勢の西への反転を知り、上杉軍が背後を突く可能性があるとみて、上杉討伐の前線基地となる宇都宮に次男の結城秀康を残しました。上杉はもちろん、伊達、最上、佐竹へのけん制の意味合いもあったでしょう。

秀康は、豊臣秀吉と家康が和議を結んだ際に秀吉の養子という形で人質に出され、その後関東の名門・結城家の婿養子になりました。家康は、後継者に秀忠を考えていましたが、秀康の武勇も評価していたと思われます。

上杉包囲網で封じ込めに成功した家康は、自身が東海道を進軍し、秀忠には主力部隊を率いて中山道を進軍するよう命じます。しかし、秀忠の進軍はスムーズにはいかなかったのです。

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合戦に間に合わなかった徳川秀忠

石田三成ら西軍と対決するため、西へと反転した徳川家康ら東軍。豊臣恩顧の大名を先行させ、家康自身は東海道を進み、後継者の徳川秀忠中山道を進むよう命じます。

秀忠には、徳川家のブレーンである本多正信重臣の大久保忠隣、榊原康政をはじめ、そうそうたる徳川家臣団が付けられました。しかし、進軍先で待ち構えていたのは、あの真田昌幸だったのです。

東軍と西軍に分かれた真田家

真田昌幸は、上田(長野県)を拠点とする小さな大名でしたが、策略と戦上手で戦国時代を生き抜いてきました。昌幸には嫡男の信之(当時は信幸)と次男の信繁(のちの幸村)がいました。

真田親子も家康に従軍していましたが、石田三成から密書が届き、東西どちらに付くべきかを相談しました。信之は東軍、信繁は西軍と意見が分かれましたが、これには理由があります。

信之の妻は家康の重臣本多忠勝の娘で、彼女は「家康の養女」として嫁いできました。一方、信繁の妻は三成と同盟を組んだ大谷吉継の娘で、信繁自身も大坂に出仕しており、三成と懇意だった可能性があります。

昌幸の選択は、信繁と同じく西軍に付くことでした。ただし、信之はそのまま徳川軍に従軍させ、東西どちらが勝っても、真田家の家名を残そうと考えたのです。後に「犬伏の別れ」と言われた決断です。

上田城攻めのロスで関ケ原に間に合わず!

徳川軍の一員となっていた信之は、上田城にこもる昌幸と信繁に対し、降伏を促す使者に立ちました。昌幸は降伏に従うようなそぶりを見せながら返事をうやむやにし、徳川軍を迎え撃つための時間を稼いだのです。

秀忠は「大軍で攻め寄せれば、小大名の真田など問題ではない」と、力攻めを命じます。ところが、百戦錬磨の昌幸の軍略にはまって上田城を攻め落とすことができず、味方の損害も大きくなってしまいました。

そこに、家康から「西上を急げ」との命令が届き、秀忠は上田城攻めを断念して西へ向かうことになります。徳川軍を撃退した昌幸、ひいては真田の名が全国にとどろいたのです。

一方で、時間をロスした形になった秀忠は、関ケ原の合戦に間に合いませんでした。このことが、後に「秀忠は武将としては凡人だった」などと言われる原因になってしまいます。

秀忠の軍勢は温存させた?

上田城攻めについて、歴史小説やドラマでは秀忠の判断ミスとして描かれがちですが、私は違った見方をしています。

家康が、徳川軍を自分と秀忠の二つに分けた最大の理由は、織田信長の二の舞を避けたかったのだと思います。本能寺の変で信長が討たれ、その直後に嫡男の信忠も攻め滅ぼされてしまったからです。

関ケ原の合戦は、結果として東軍の圧勝に終わりましたが、戦前には誰も予想ができませんでした。家康が、劣勢や長期戦も視野に入れた戦略を立てていたとしても不思議ではありません。

関ケ原の合戦で仮に東軍が敗れても、秀忠の軍勢が温存されているため、立て直しを図ることが可能でした。万が一、家康が討ち死にしても、嫡男の秀忠が徳川家臣団を率いればよいだけのことです。

それでも家康は、「関ケ原の合戦で雌雄を決する」との意思を強く持っていたでしょう。合戦のその時が徐々に近づいてきます。

関ケ原の合戦 前段の項おわり)

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歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭はこちら

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歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳はこちら

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