歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~関ケ原編①~④「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 
note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の①~④をブログで一括掲載します。

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関ケ原の合戦とは、どんな戦いだったのか?

日本史上最大級の内戦であり、戦国時代を代表する「関ケ原の合戦」は、単に勝ち負けだけではなく、その後の日本の歴史を作り上げていく大きな節目となった戦いです。

「歴史・人物伝~関ケ原編」では、徳川家康をはじめ、関ケ原の合戦にかかわった大名・武将たちを取り上げ、合戦に加わった背景や思いなどを私なりに書いてみたいと考えます。まずは、関ケ原の合戦を改めて解説いたします。

豊臣政権の要となった徳川家康

1598年に天下人・豊臣秀吉が死去します。後継者の秀頼は幼少だったため、5人の有力大名が「五大老」として政治を行い、秀吉側近の5人が「五奉行」として支えるという仕組みになっていました。

しかし、豊臣家ゆかりの加藤清正ら武闘派が、五奉行石田三成らと深く対立し、武力衝突が起きかねない状況にありました。「五大老」で最大の実力者だった徳川家康は、その対立を自身の勢力拡大に利用したのです。

また家康は、「五大老」として同格だった前田家を「謀反の動きあり」として屈服させる一方、伊達政宗福島正則らの有力大名とは婚姻関係を通して絆を作り、「敵味方の色分け」を進めていきました。

その一つが、「五大老」の上杉景勝会津藩)の討伐でした。家康は、景勝にも「謀反の動きあり」と決めつけ、豊臣家の名のもとに自身の家臣団や有力大名ら大軍を率いて東へと向かったのです。

関ケ原の合戦」はどんな戦いだったのか?

関ケ原の合戦が起きた慶長5年9月15日を時系列で追ってみましょう。なお「関ケ原編」では、徳川家康率いる軍勢を東軍、石田三成宇喜多秀家らの連合軍を西軍と称します。

前夜に行動を起こし、未明から関ケ原に布陣を開始した西軍に対し、明け方には東軍が関ケ原に出陣します。両軍にらみ合いの中で、東軍の松平忠吉井伊直政が先陣を切って戦いが始まったのです。

両軍合わせて20万近くの大軍勢で、東西ほぼ互角だったとされます。東軍は、徳川家康とその家臣団に加え、福島正則黒田長政藤堂高虎細川忠興ら豊臣家にゆかりの深い大名が付き従い、一枚岩で戦います。

一方の西軍は連合軍だけに、結束には不安がありました。毛利軍を束ねる吉川広家は合戦が始まっても動かず、終始傍観者に徹したままでした。また、島津義弘も積極的に合戦に加わろうとしなかったのです。

勝敗のキーマンになったのが、西軍の小早川秀秋でした。合戦が始まって数時間後、小早川軍は東軍に寝返って西軍の大谷吉継軍を攻撃しました。これにより、西軍は壊滅状態に陥るのです。

次回は、徳川家康による上杉討伐軍出陣の頃に話を戻し、関ケ原の合戦に至るまでの人物群像を描いていきます。

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上杉討伐に出陣した徳川家康の真意

関ケ原の合戦で一番の主役といえば徳川家康でしょう。合戦時の家康の年齢は58歳。経歴を振り返ってみるとともに、合戦に至るきっかけとなった上杉討伐について考えてみます。

徳川家康が歩んできた道のり

家康は、三河(愛知県)の大名家に生まれましたが、幼い時に織田家、さらに今川家に人質に出され、今川義元のもとで元服(成人)を迎えました。1560年の桶狭間の合戦で義元が討ち死にしたことで、今川家の傘下を脱し、独立した大名となれました。

織田信長と同盟を結び、信長の天下統一の戦いに従軍する一方で、東の武田信玄や勝頼と長年敵対関係にありました。1582年は家康にとって激動の年となります。宿敵の武田家が滅び、信長も本能寺の変で倒れ、信長の後継者として豊臣秀吉が一気に台頭してきたのです。

最初は秀吉と敵対していましたが、秀吉が関白に就任したこともあり、臣従を余儀なくされます。小田原の合戦での北条氏の滅亡後、家康は関東に領地を移されました。江戸(東京)を中心とした領土経営をしながら、豊臣政権の「五大老」筆頭として実力を蓄えていったのです。

なぜ、上杉討伐軍を起こしたのか?

豊臣秀吉が死に、勢力拡大の意図を露わにした徳川家康は、当時ナンバー2だった前田家(前田利長)を屈服させ、さらに会津の大大名・上杉景勝に「謀反の動きあり」として討伐軍を起こすのです。

当時の家康は大坂城西の丸におり、幼い豊臣秀頼に代わって政治を担っていました。家康自らが上杉討伐に出陣すれば、豊臣政権の中核が抜けてしまいます。それでも、家康は出陣に踏み切ったのです。

家康が、あえて大坂を留守にしたのは「石田三成や西国大名が決起する機会を与えるため」と言われています。確かに、増田長盛ら三奉行が毛利輝元を動かす結果となりましたが、家康の真意はどうだったのでしょう?

私が思うには、家康は一気に天下取りへの勝負をかけるのではなく、「まず東国を自分の勢力で固めたい」と考え、最も脅威となる上杉景勝を屈服させるため、討伐軍を起こしたのではないでしょうか。

もしかすると、輝元の大坂城入りは家康の想定外だったかもしれません。
毛利を動かした三奉行(増田、長束正家前田玄以)と石田三成について、次回書きます。

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家康を弾劾した3人の奉行と石田三成

豊臣秀吉の死後、有力大名の「五大老」を支え、実務を担う「五奉行」が置かれました。その代表的な人物が石田三成です。三成失脚後は、増田長盛長束正家前田玄以が奉行の職を担っていました。

徳川家康が、上杉討伐のために大軍を率いて出陣後、3人の奉行は留守を狙って家康の勢力を削ぐための策略を講じます。石田三成を密かに復権させた上で、家康に次ぐ実力者・毛利輝元を担ぎ出すのです。

「内府ちかひの条々」とは

増田ら奉行は、家康の度重なる専横に我慢がならなかったのでしょう。連名で「内府ちかい(違い)の条々」という弾劾状を書き、江戸に戻っていた家康らに送り付けたのです。むろん、三成も一枚かんでいたと思います。

ここには、上杉討伐への非難をはじめ、大坂城西の丸を占拠したこと、他の大名と勝手に縁組みしたことなど、13条にわたる弾劾文が書かれています。そのうえで「秀頼への絶対的な忠誠」を求めたのです。

家康に対し、奉行が宣戦布告をしたかのような文面に見えますが、増田らは家康と本気で戦うつもりはなかったと思います。「家康の台頭が豊臣家を脅かすのでは」との危機感が背景にあったのでしょう。

一方で、家康が反旗を翻すことも予想し、毛利輝元大坂城入りを促します。家康と奉行たちでは実力差が歴然としており、秀頼を守るためには毛利家の力を頼る以外にはなかったからです。

ところが、輝元の大坂城入りを絶好にチャンスととらえたのが三成でした。輝元を秀頼の名代かつ総大将に据え、反徳川勢力を結集して家康を追討するという「武力による決着」を目指していくのです。

石田三成の人物像について

石田三成とは、どんな人物だったのでしょうか。少年時代から秀吉の家臣となり、側近中の側近として絶大な信頼を得ます。とくに、戦闘時の後方支援や政務で力を発揮し、今で言う「超エリート官僚」でした。

しかし、秀吉の家臣たちの間では人望が薄かったとされます。とくに、加藤清正福島正則ら戦いの第一線で活躍した武将からは、秀吉の威光を振りかざした佞臣(ねいしん)だと毛嫌いされていたようです。

そうした確執が、秀吉の死後に暴発します。清正らが三成を襲撃するという事件が起こるのです。三成は命の危機こそ脱したものの、事件の原因を作ったとして奉行職を解かれ、蟄居謹慎の処分となります。

しかし、このまま隠居するつもりは全くなく、家康が上杉討伐で東へ向かった隙をついて復権を果たすのです。三成は「豊臣家を守るためには家康を倒すしかない」と考えていました。

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天下を狙ってしまった毛利輝元

 

関ケ原の合戦の東軍の総大将は徳川家康です。一方、西軍の総大将というと、石田三成が真っ先に思い浮かびますが、実は毛利輝元だったのです。もっとも、本人にどの程度その意志があったのかは分かりません。

毛利輝元とは、どんな人物だったのでしょうか?

輝元の祖父は毛利元就です。元就は小さな地方領主から、一代で中国地方や九州の一部を領有する大大名に躍進しました。父の隆元が先に亡くなっていたため、元就の後を継いだのが輝元だったのです。

元就の代から「天下を望まない」のが毛利家の家訓でした。織田信長とは敵対していましたが、豊臣秀吉には臣従して領地の安堵を勝ち取り、徳川家康らと並ぶ「五大老」の一員になったのです。

家康が上杉討伐で東へ出陣した留守をつき、増田長盛ら三奉行と復権した石田三成は「家康に対抗できる大名は毛利家しかない」と見込んで、領地の広島にいた輝元に大坂城入りを要請します。

家臣の安国寺恵瓊らが「天下取りの好機」だと進言し、輝元もその気になったのでしょう。「天下を望まない」との家訓を破り、吉川広家ら一族の反対を押し切って大坂城へと向かってしまうのです。

輝元自身は関ケ原の合戦に出陣せず、大坂城に居続けます。豊臣秀頼の後見をしていれば、毛利家は安泰だと思っていたのでしょう。しかし、西軍が大惨敗したことで、輝元も失脚への道をたどってしまうのです。

 

 話を戻します。輝元の大坂城入りにより、家康に対する「武力による決着」の目途が立った石田三成は、ついに軍事行動を起こすのです。最初のターゲットになったのは、家康の京都での居城・伏見城でした。(⑤へ続きます)

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思い入れ歴史・人物伝~関ケ原編⑤~⑧まとめです

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歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭はこちら

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歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳はこちら

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