歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

戦国武将・福島正則の生涯に思うこと

noteより、歴史・人物伝~雑感編「戦国武将・福島正則の生涯に思うこと」を掲載します。

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私事ですが、新卒から同じ会社でずっと働き続け、そのゴールが近づきつつあります。ある時、ふと一人の戦国武将を思い浮かべました。豊臣秀吉重臣にして、徳川家の世を生きた福島正則です。

一介の農民から大大名にまで出世しながら、晩年は小大名に格下げされてしまった正則。サラリーマンの世界でもありがちな話ですが、晩年の正則はどんな思いで日々過ごしていたのでしょうか?

福島正則とは

正則は、天下人になった秀吉の数少ない近親者として常に支え続け、自身も大出世を果たします。秀吉の死後も豊臣家を守る気持ちが人一倍強かったのですが、それを徳川家康に利用されてしまうのです。

関ケ原の合戦では、徳川軍の一員として大活躍し、石田三成らの軍勢を倒します。豊臣家に害ある三成らを排除したい一心でしたが、結果として家康を天下人に押し上げてしまいました。

正則は、広島の大大名へとさらに大出世します。ですが、徳川家が着々と政権基盤を固め、豊臣家は自分たちと同じ一大名に転落する姿を、おそらく忸怩(じくじ)たる思いで見ていたに違いありません。

ついに大坂夏の陣で豊臣家は滅ぼされます。その4年後、正則自身も「城を無断で修築した」として改易され、信州の小大名に転落してしまいます。その領地でひっそりと晩年をおくったのです。

サラリーマンに例えるなら

正則の生涯をサラリーマンの世界に例えてみます。秀吉に仕えていた頃は「上昇機運の上司を信じて必死になって付いていった部下」、関ケ原の頃は「辣腕の外部役員にうまく利用された中間管理職」でしょうか。

関ケ原後には「栄転」を果たしますが、新社長となった外部役員にとっては疎ましい存在でもあります。やがて、前社長の影響力がなくなったところで「役職を外され、左遷のうえ降格」させられたのです。

こう見てみると、同じような境遇の人はどこにでも居そうです。戦場での正則は勇猛果敢だったそうで、いわば「現場の最前線に強いタイプ」。戦国という乱世だからこそ、存分に力を発揮できたのでしょう。

その一方で、知略や智謀という点では同じ立場だった黒田長政藤堂高虎には劣っていました。彼らは「役職」を外されることなく、子孫へと上手に引き継ぎ、その結果幕末までお家を存続させたのです。

正則の余生に思う

私は、大坂夏の陣以降の正則に思いを巡らせました。徳川家の世になっても、豊臣家の恩顧を忘れず、何とか豊臣家を存続させたいと思っていたのに、結局は滅ぼされてしまいました。

この時、正則は「自分の役目は終わった」と思ったに違いありません。改易は誤算だったかもしれませんが、第一線から身を引こうと考えていたならば「渡りに船」となったのでしょう。

関ケ原の合戦をはじめとした武勇で名を上げ、大大名にまで出世したことを踏まえると、正則の晩年は不遇だと考えがちです。しかし、本当に不遇で寂しいばかりの晩年だったのでしょうか?

私は、「豊臣家存続という重圧から解放され、大大名という地位からも外れ、静かで平穏な余生を過ごした」と考えたいです。跡取りに先立たれる不幸もありましたが、概して平穏だっただろうと思ってやみません。