松下村塾で若き志士たちを育てた吉田松陰は、行動派としての一面を持っていました。若い頃に藩の許可を得て全国を遊学し、自分の目を通して貪欲に知識を身につけていったのです。その最たる行動が「海外密航」でした。
松陰は弟子の金子重之輔とともに、下田に再来航した米国軍艦に小舟で乗り付け、連れて行ってもらうよう求めたのです。密航は重罪であり、米国も後々の幕府との関係を懸念し、館長のペリーは乗船を拒否し、二人を幕府に引き渡しました。
この時、松陰らとペリーとの間にどんな会話が交わされたのでしょう? 後年ペリーは、松陰らの志を評価する一文を残していますので、おそらく、直接二人と面会し、密航の目的や考え方を聞いていたに違いありません。
松陰は結局、藩に護送され、野山獄に収監されます。野山獄には、政治犯や思想犯など様々な罪人がおり、それらの人々と接しながら、松陰は「在野にこそ人材がいる」と確信し、やがて「草莽崛起」の思想につながっていくのです。