織田信長と徳川家康が、強敵の武田勝頼を徹底的に叩きのめし、戦国史のターニングポイントとなった長篠の戦い。信長の生涯を記録した「信長公記」の記述からも、信長が並々ならぬ決意で決戦に臨んだことがわかります。
信長は「敵は一掃し、味方は死なせない」作戦を練ります。設楽が原に張った陣には馬防柵を張り巡らし、そこに鉄砲隊を配置しました。つまり、白兵戦のような野戦ではなく、籠城戦さながらの「守りを固める」戦術を取ったのです。
そのうえで、家康家臣の酒井忠次に長篠城救援を指示します。別動隊は、城の南側にあった敵の鳶ケ巣山砦を攻略して長篠城の味方と合流。この時点で武田勝頼軍は、設楽が原の織田・徳川連合軍と長篠城の城兵との挟み撃ちとなってしまいました。
勝頼は撤退でなく、設楽が原への進軍を決意し、猛然と軍勢をぶつけていきます。しかし、馬防柵で守りを固めている連合軍は鉄砲隊を中心に応戦し、戦国最強の武田軍団は鉄砲の前に次々と倒されていったのです。
信長がこの作戦を立てた背景には、勝頼が岩村城や高天神城の攻略に成功し、領地拡大の勢いに乗っていたことにあります。兵力が劣勢であるこの戦いでも、勝頼は引かずに向かってくるだろうと読み、鉄壁な防御戦術を練り上げたのだと私は考えます。