群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた上杉謙信。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われました。義の武将・謙信の生涯について「合戦」を通して紹介します。
note版「思い入れ歴史・人物伝」~謙信の戦い編の⑫~⑯を一括掲載します。
北関東を巡る激しい勢力争い
上杉謙信と武田信玄が死闘を繰り広げた川中島の戦いですが、北信濃での両者の対陣は1564年で区切りとなります。ですが、上杉と武田が和睦したのではなく、北関東を巡る情勢が厳しくなったからです。
第4次川中島の戦いのまとめ記事
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61年に箕輪城主(高崎市)の長野業正が死去します。長野は武田氏の上野(群馬県)攻略の壁になっていた武将ですが、その死により、信玄は上野への侵攻の手を強めていくのです。
信玄は北条氏康と同盟関係にあり、武田氏と北条氏の共通の敵である上杉氏の勢力を関東から追い出すため、たびたび出兵しました。また、佐野昌綱ら地元の武将の抵抗も強く、謙信は劣勢になることも多かったようです。
ところが信玄は、弱体化した今川氏の駿河へ侵攻したため、武田氏と北条氏との同盟関係は破棄されます。氏康は、信玄との対決に備えて、長年敵対していた謙信に同盟を持ちかけるのです。
謙信も越中(富山県)への出兵に向け、後顧の憂いをなくすために同盟を承知します。そして、氏康の子・三郎を養子に迎え入れました。人質ではありますが、謙信は三郎に「景虎」の名を与えたのです。
一向一揆との戦い、そして越中進出
北関東を巡る武田氏、北条氏との三つ巴の争いが続いてきた上杉謙信ですが、宿敵だった北条氏康、武田信玄が死去し、北条氏は氏政、武田氏は勝頼の代になると情勢が徐々に変わってきました。
北条氏とは同盟関係を結んでおり、氏康の子・三郎(のちの上杉景虎)を養子に迎えました。また武田勝頼は、徳川家康や織田信長との勢力争いに力を注いでいたため、信玄の時代ほど敵対関係にはありません。
そこで謙信は、越後の西にある越中(富山県)への勢力拡大を図ります。越中は一向一揆が力を持っており、隣接する越後にも脅威を与えていました。そのため、謙信はたびたび越中に出陣していたのです。
同じ頃、越前(福井県)から加賀(石川県)に侵攻していた織田信長も、一向一揆には手こずっていました。上杉氏と織田氏は一向一揆という「共通の敵」がいたため、友好関係にあったとされています。
ところが、一向一揆の総本山である本願寺の顕如が、謙信との和睦を持ちかけてきました。本願寺は、足利義昭や毛利氏、上杉氏らと組んで、織田信長包囲網を築こうとしたのです。
謙信が本願寺との和睦に応じた結果、織田氏との対決姿勢が深まっていくのです。
手取川の戦いで織田軍を撃破
上杉謙信は、一向一揆の本拠である本願寺の顕如と講和し、越中(富山県)を領地としました。さらにその先の能登(石川県)へ侵攻を開始し、拠点である七尾城を包囲します。
七尾城内では、天下統一を果たそうとする織田信長に付く長続連らの一派と、戦国最強クラスの上杉軍は敵に回せないとする遊佐続光らの一派があり、家臣同士が対立していました。
信長にとっても、七尾城は死守しなければなりません。1577年、柴田勝家を総大将とした大軍を救援に派遣します。ところが織田軍が到着する前に、謙信は調略によって七尾城を陥落させていました。
上杉軍はそのまま南下し、織田軍との決戦を目指します。一方の織田軍は、上杉軍が近づいてきたとの知らせを受けて、ようやく七尾城陥落を知りました。勝家は「形勢は不利だ」と考えて撤退を決断します。
上杉軍は織田軍に手取川周辺で攻めかかります。突撃する側(上杉)と撤退側(織田)との士気の違いもあり、大軍だったはずの織田軍は惨敗を喫してしまうのです。「手取川の戦い」と呼ばれる謙信会心の戦いでした。
志半ばで突然の死
1577年の手取川の戦いで織田軍を一蹴した上杉謙信は、季節が冬になるのを前にいったん越後に引き上げます。そして、翌年の雪解けを待って出陣するため、大軍勢を整えるよう指示を出すのです。
翌78年、出陣目前のその時、謙信は突如倒れて意識不明となり、間もなく急死してしまうのです。まだまだ活躍できるはずの49歳という生涯を閉じたのでした。
この時の大軍勢が、どこに向かっていたのかは定かではありませんが、最終的には上洛を目指していたのではないでしょうか。ただし、天下を取るというよりも、足利将軍家を再興したいとの思いだったと私は考えます。
謙信には実子がなく、有力な後継候補者となる養子が二人いました。一人は長尾一族で謙信の姉が嫁いだ長尾政景の子・景勝、もう一人は北条氏との同盟で送られてきた北条氏康の子・景虎です。
相続について謙信にも深い思惑があったとみられますが、急死してしまったため、家督を継ぐべき後継者を指名できませんでした。その結果、上杉家と家臣団は、景勝派と景虎派に二分されてしまうのです。
後継者争いを制した上杉景勝
1578年の春、上杉謙信が急死し、後継者候補の上杉景勝と上杉景虎の対立が深まっていきます。謙信が、明確に後継者を指名していなかったのが、対立の原因になったのです。
景勝は先手を打って春日山城本丸に移り、景虎を圧迫します。やむなく景虎は春日山城を出て、前関東管領の上杉憲政が住んでいた御館に拠点を移します。この内乱が「御館の乱」を呼ばれる所以となる場所です。
北条氏の出身である景虎は、兄の北条氏政に助力を求めます。北条氏は、同盟関係にあった武田勝頼にも助勢を依頼し、状況によっては越後への侵攻も視野に入れていたと思われます。
有力家臣を味方にしているとはいえ、外圧を懸念した景勝は、腹心の直江兼続を通して武田勝頼との和睦を画策します。そして、勝頼が景勝側に付いたことで情勢が徐々に変わっていきました。
優位に立った景勝軍は、翌79年春に景虎軍を攻め滅ぼし、内乱の鎮圧に成功します。上杉景勝は実力で謙信の後継者になったのですが、内乱によって上杉家の勢力は弱体化してしまいました。
その後、景勝は豊臣秀吉への臣従、徳川家康の上杉討伐などの難局を何とか乗り越え、家名を存続させました。謙信が掲げた「義」を重んじる家風は、江戸時代の上杉家に引き継がれていったのです。
歴史・人物伝~謙信の戦い編①~⑥まとめ記事