歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~謙信の戦い編⑦~⑪「合戦を通して上杉謙信を語る」

群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた上杉謙信。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われました。義の武将・謙信の生涯について「合戦」を通して紹介します。

note版「思い入れ歴史・人物伝」~謙信の戦い編の⑦~⑪を一括掲載します。1561年の第4次川中島の戦いを書いていきます。

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並々ならぬ覚悟で川中島へ出陣

第4次の戦いは、上杉謙信武田信玄が激しくぶつかり合った戦いとして知られており、一般的に「川中島の戦い」と言えば、この第4次を指します。まずは、合戦に至る背景について触れます。

小田原城を包囲する北条氏討伐戦で関東に出兵し、関東管領と上杉家を継承した上杉謙信(当時は政虎、記事では以後謙信に統一する)は、幕府の組織上、関東の支配を任される立場になりました。

一方、武田信玄は幕府から信濃守護に任じられ、川中島のある善光寺平の支配権を得たものの、謙信がそれより上級職の関東管領となったため、文字通り「目の上のたんこぶ」の存在だったのです。

善光寺平の支配を確実にしたい信玄は、同盟関係にあった北条氏康を援護するため、北信濃に出兵します。再び動いた信玄を警戒し、謙信も関東遠征から帰国後、ただちに北信濃へ出陣しました。

善光寺平へ先に到着したのは謙信で、武田氏が領有する海津城の南にある妻女山に布陣します。善光寺に兵を残してはいるものの、主力部隊を敵陣深くまで投入するという並々ならぬ決意がうかがえます。

これに対し信玄は、西側の茶臼山にいったん陣を張り、上杉軍の様子を見ます。しばらく膠着状態となっていましたが、上杉軍の攻撃を警戒しながら善光寺平を横断し、海津城に入城しました。

そして、運命の決戦前夜を迎えるのです。

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信玄の作戦を謙信が見破った!

信玄の作戦「啄木鳥の戦法」

川中島の東にある海津城に入城した武田信玄と、南にある妻女山に布陣した上杉謙信。武田軍は2万、上杉軍は1万3千と言われており、軍勢の数は武田軍が勝っていました。

数的優位の武田軍は、妻女山を総攻めすることもできたでしょうが、信玄は「上杉軍の強さを考えると味方の損害も大きくなる」と慎重に構えます。そして、上杉軍撃滅のために策を弄するのです。

それが、信玄の軍師である山本勘助らが進言した「啄木鳥(きつつき)の戦法」です。キツツキが木の幹をくちばしで叩くことで、驚いて飛び出した虫を捕らえるという習性を軍略に応用したのです。

武田軍を二手に分け、別動隊1万2千を密かに妻女山の裏手に回らせ、上杉軍を奇襲します。上杉軍を八幡原(川中島)に追い立て、待ち構えていた本隊8千と挟み撃ちにするという作戦です。

信玄は、高坂昌信馬場信房らに別動隊を命じ、深夜に海津城から出立させます。さらに翌早朝には自らが率いる本隊が出陣し、八幡原に陣を構えるのです。その時、一帯は深い霧に包まれていました。

夜陰と霧にまぎれて全軍を移動させた謙信

女山上杉謙信は、武田軍が山に向かって総攻めはして来ないだろうと考え、自ら動くことはせず、武田軍の動きを注視していました。兵の数で劣るため、勝機を探っていたのかもしれません。

ある日の夕刻、海津城から炊き出しの煙がいつもより多く立ち込めているのに気が付きます。武田軍に何か動きがあると察知した謙信は、全軍に臨戦態勢を取らせるとともに、武田軍の動向を徹底的に偵察させます。

別動隊の進軍をキャッチした謙信は、裏をかいて密かに全軍を妻女山から下山させ、西側をう回しながら千曲川を渡ります。夜の闇と朝方の濃霧に隠れるような形で、八幡原に布陣し臨戦態勢を整えたのです。

江戸時代に頼山陽が「川中島」という漢詩を書いています。冒頭部分が、この有名なフレーズです。

「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)

信玄に気づかれないよう全軍を大移動させる謙信の統率力は、素晴らしいものがあります。この結果、八幡原で両軍が対峙した時、謙信は数的優位に立てたのです。

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武田軍の総崩れを狙った上杉軍の総攻撃

海津城武田信玄は、妻女山に陣を張る上杉軍に向けて別動隊を出発させ、自らは本体を率いて八幡原に出陣します。しかし、作戦を見破った上杉謙信は全軍で妻女山を下り、八幡原に布陣したのです。

やがて深い霧が晴れてくると、信玄の目の前に上杉軍全軍が姿を現します。信玄の本隊は8千、対する上杉軍は1万3千。数的優位に立った謙信は、全軍での総攻撃を仕掛けてきました。

信玄は鶴翼の陣形をとり、別動隊1万2千が到着するまでは守りに徹する戦いを強いられます。逆に、絶好のチャンスを逃してはなるまいと、謙信は車懸かりの陣形で攻撃し、武田軍の総崩れを狙ったのです。

劣勢だった武田軍は、「啄木鳥(きつつき)の戦法」の提案者だった山本勘助が討ち死にし、さらに信玄の弟で武田軍の守りの要だった武田信繁も討ち取られてしまうなど、武将クラスの戦死が相次ぎました。

ただ、さすがは信玄率いる本隊だけあって、大きく陣形が崩れることはありません。妻女山から引き返してくる別動隊も間もなく到着します。優位だった謙信にも徐々に焦りの色がにじみ出てくるのです。

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謙信VS信玄の一騎打ち

武田信玄の挟撃策「啄木鳥(きつつき)の戦法」を見破り、八幡原で猛然と武田軍本隊に襲い掛かる上杉謙信率いる上杉全軍。武田軍は、信玄の弟・武田信繁や軍師・山本勘助らが討ち死にするダメージを受けています。

しかし、武田軍本隊に壊滅的な打撃を与えるまでには至っていません。信玄には、妻女山から引き返してくる別動隊1万2千の軍勢があり、彼らは無傷のまま上杉軍を攻めてくるでしょう。

そんな激戦のクライマックスに描かれるのが、世に名高い「謙信と信玄の一騎打ち」です。謙信が単騎で相手本陣に乗り込み、信玄目がけて太刀を振るい、それを信玄が軍配で受け止めた、という逸話です。

後の軍記物や歴史小説で、必ずといっていいほど紹介される名場面です。史実かどうかは定かではありませんが、当時の書状で謙信自らが太刀を振るったことが分かっており、激しい戦いだったことを物語っています。

やがて、武田軍別動隊が八幡原に到着し、数的優位が逆転します。「もはやここまで」と思った謙信は、全軍に善光寺方面への撤退を命じます。武田軍にも追撃する力は残されていませんでした。

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川中島の戦いの本当の勝者は?

上杉謙信武田信玄が一騎打ちをしたとまで伝わる第4次川中島の戦いは、双方が勝利を主張して引き上げました。どちらが本当の勝者だったのでしょうか? 私は「痛み分け」だったと考えています。

謙信は、北信濃から武田氏の勢力を払拭させたいと思っていましたが、できませんでした。一方の信玄は、北信濃領有の野望こそかなえられましたが、自身の右腕とも言える弟・信繁をはじめ、多くの重臣を失いました。

川中島では、1564年に第5次合戦がありましたが、この時は両者がにらみ合うだけで、本格的な戦いには至っていません。信玄は、上杉軍の強さを思い知らされたので、直接対決は避けたいと考えていたのでしょう。

川中島の戦いがなければ、信玄あるいは謙信は天下を取っていた」と、よく言われます。戦国屈指の名将である二人が、真正面から激突したことで「戦力も時間も消耗してしまった」というのが根拠のようです。

ただ、実際に信玄が上洛軍を進めたのは第4次から12年後、謙信に至っては天下取りを考えていたかどうかすら分かりません。第4次川中島の戦いが名勝負だったがために生まれた仮説だと私は思います。

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