歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

「榊原政敬①」幕末・維新~譜代名門の榊原家が引いた貧乏くじ

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榊原康政、政敬らを祀る榊神社(上越市

榊原政敬(まさたか)は、高田藩(新潟家上越市)で幕末・維新の時期に藩主だった人です。榊原家は、藩祖が徳川家康家臣の四天王と呼ばれた榊原康政で、紆余曲折がありましたが、譜代大名として幕末まで存続してきました。

幕府による第二次長州征伐で、先鋒隊として幕府から命令を受けたのが、井伊家の彦根藩と榊原家の高田藩でした。両家の祖である井伊直政榊原康政が、家康の時代に常に先陣を切って合戦に臨んだ武勇を誇っていたためです。

しかし、旧式の軍備しか持たなかった両藩などは、最新鋭の武器と近代的なゲリラ戦で挑んだ長州藩の前に、なすすべもなく敗れ、撤退を余儀なくされます。武勇の両藩が敗れたというインパクトは、幕府に少なからず衝撃を与えました。

会津戦争終結後には、見せしめとして降伏した会津藩士の預かりを命じられました。新政府からの費用負担は少なく、藩として多額の出費を余儀なくされましたが、会津藩士には丁重な待遇を施したそうです。徳川譜代最後の意地だったのでしょうか?

「天保義民事件①」政争・政変~二つの前代未聞が起こった江戸後期の事件

江戸時代は幕府の命令が絶対とされ、例え大名であっても命令に背くとはできませんでした。その代表的な出来事が転封すなわち領地替えです。1840年に庄内藩の酒井家も、長岡藩への転封を命じられましたが、その時天保義民事件が起きました。

庄内藩の領民は200年以上続いた酒井家の統治に満足しており、転封によってやって来る川越藩松平家に不安を持っていました。そこで、領民が江戸の幕閣や近隣有力大名の元を訪れ、酒井家を転封しないように直訴したのです。

前代未聞の一つ目は「酒井家の殿様は立派で、領民が慕っている」という内容。この手の直訴では領主を批判することがほとんどですが、「領民といえども二君に仕えたくない」という思いが、後々幕閣や有力大名の心に響いたのです。

そして前代未聞の二つ目は、将軍・家慶が転封命令を撤回させたことです。領民たちの行動だけが要因ではありませんでしたが、幕府命令は絶対とされた当時は極めて異例であり、結果として幕府の権威にキズをつけることになったのです。

なお、庄内藩酒井家はその後も統治を続け、明治維新を迎えました。

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「帰蝶(濃姫)①」戦国時代~信長の妻でありながら実像は不明

 

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濃姫のラッピングバス(岐阜市

織田信長の父・信秀が、美濃と尾張の政略結婚として斎藤道三の娘を信長の妻に迎えたことは、よく知られた歴史の事実です。しかし、その娘については当時の史料にほとんど登場せず、どんな生涯だったのかも分かっていません。

ドラマや映画では、娘の名前を「濃姫」とすることが多いですが、これは「美濃から来た姫」という意味合いのようです。大河ドラマ麒麟がくる」では「帰蝶」の名を用いていますが、これも一部文献に出てくるだけの名前です。

政略結婚だったので、少なくとも道三存命時までは夫婦関係があったと思われます。しかし、桶狭間の合戦を経て美濃攻略に着手し始めると、濃姫は「敵方の娘」となってしまい、肩身の狭い立場に追い込まれたのではないでしょうか。

私は、美濃攻略の頃に離縁もしくは死別したのではないかと考えます。ただ、それでは信長一代記のドラマを演出する上では面白くありません。そこで様々な脚色がされた結果、濃姫を戦国時代で最も有名な女性の一人にさせたのかもしれませんね。

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「織田信雄①」戦国時代~凡庸と言われても信長の血統を残した武将

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本能寺の変の当時、信雄がいたとされる安土城

織田信雄織田信長の子であり、嫡男の織田信忠とは母親が同じきょうだいになります。つまり、本能寺の変で父、兄が討たれたことで、織田家の有力な後継者になり得たのですが、そうならなかったことは後の歴史が証明しています。

信雄が北畠家へ養子に出されていたこと以上に、彼自身の資質にも問題があったとされています。柴田勝家を倒して台頭してきた羽柴秀吉に、徳川家康と組んで対抗したのですが、秀吉に篭絡されて勝手に講和し、反秀吉連合を崩壊させてしまったのです。

小田原の合戦後には、旧北条氏領に移封した家康の領地(駿河など)が与えられたのですが、尾張・美濃を手放したくない信雄は拒否しました。家来筋だった秀吉の言いなりにならないと思ったのでしょうが、結局秀吉の逆鱗に触れ、改易となってしまいます。

大大名としての織田家は、関ケ原の合戦後に消滅してしまいますが、その後も信雄はしぶとく世渡りをし、自身や子供たちが小藩の大名として江戸時代を乗り切り、信長の血統を残すことになったのです。

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「織田信忠①」戦国時代~武田攻めの総大将を担った信長の後継者

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勝頼最後の戦いとなった鳥居畑古戦場(甲州市

織田信忠は、織田信長の嫡男として早くから後継者に据えられてきました。本能寺の変で信長が横死し、ちょうど京都に滞在していた信忠も、明智光秀の軍勢によって自害に追い込まれてしまい、織田家の運命を変えてしまったのです。

信忠は凡庸な後継者だったと言われることが多いですが、最近では、大勢力となった織田家を担うだけの力量を備えていた人物だったと、再評価する論考も出ています。非凡な人物だった父の信長と比べられては、さすがにかないません(笑)

1582年の信濃・甲斐遠征は、武田勝頼を滅ぼしたことから、信長自らが軍勢を率いたと思われがちですが、総大将として高遠城攻めや天目山の戦いを指揮したのは信忠でした。信長が「進軍を急ぐな」と制御するほどの快進撃だったそうです。

後から来た信長は、武田旧領の分配など戦後処理をしたのち、帰国の途に就きます。その道中は、東海道の物見遊山さながらだったそうで、後継者の信忠が立派に成長した姿を頼もしく思い、上機嫌な信長の顔が浮かんでくるようです、

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「沖田総司①」幕末・維新~冗談好きだった新選組の一番組長

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沖田総司終焉の地とされる今戸神社(浅草)

幕末の京都の治安を守ってきた新選組で、一番人気と言えば沖田総司です。局長の近藤勇、副長の土方歳三と同じ道場の試衛館出身で、剣の力量と共に近藤や土方の信頼も厚く、新選組では常に一番組長として先陣を切ってきました。

ドラマに登場する沖田総司は、だいたいスリム系の若手二枚目俳優が演じています。沖田が、肺結核のため若くして亡くなってしまったことから、そのイメージが多くの人に印象付けられているからだと思います。

自分の家が新選組の屯所になっていた八木為三郎は、沖田の思い出を「子供たちと鬼ごっこをしたり、いつも冗談を言っていた」と振り返っています。今で言うならば、「お笑い芸人」さんのような感じだったのかもしれません。

戊辰戦争の時、沖田の病は重篤な状況になっており、戦うことはできませんでした。それでも、江戸へ戻ってから甲陽鎮撫隊には従軍し、試衛館ゆかりの多摩地域の懐かしい人々との再会は果たせました。これが沖田にとって最後の雄姿になったのです。

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「豊臣秀長①」戦国時代~秀吉の天下取りを支えた裏方役

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日吉丸(秀吉)と仲間たちの群像(名古屋市中村公園)

豊臣秀吉は小者として織田信長に仕え、類まれなる英知と働きぶりで大出世を果たし、信長横死後は天下取りへと突き進んで、ついに天下人になります。その秀吉が、自身の右腕として絶大な信頼を寄せていたのが、実弟豊臣秀長です。

秀長は歴史の表舞台にほとんど立つことはありませんでした。しかし、信長の命で東奔西走する秀吉に代わり、領地を守る役目を担い、おそらく家臣団の束ね役を務めていたのでしょう。非常に温厚な人柄だったとも伝わっています。

長曾我部元親と戦った四国平定戦で大軍の総大将を務めるなど、秀吉の軍事作戦で最前線に立つこともありました。大坂城を築いた秀吉は、大阪に隣接する大和・紀伊・和泉の統治を秀長に託しており、信頼の高さがうかがえます。

小田原の北条氏を倒し、奥州仕置きも終えて天下統一を成し遂げた矢先、秀長は病気で亡くなってしまいます。秀吉に直言が出来たとされる「右腕」の秀長を失い、豊臣家は頂点から徐々に転がり落ちていくことになるのです。