織田信長が天下にその名を知らしめた戦いとされるのが、駿河の太守・今川義元を破った「桶狭間の合戦」です。ドラマでは、義元の本陣に僅かな手勢で攻めかかる勇猛果敢な信長主従の姿が描かれ、奇襲戦として有名になりました。
最近では、多くの研究者によって桶狭間の合戦は奇襲戦ではなかったとされています。その裏付けとなる史料が、太田牛一の「信長公記」です。桶狭間の合戦について詳細に記しており、そこには信長のしたたかな戦略も垣間見れます。
「信長公記」の記述を地図と照らし合わせてみると、義元の軍勢は東から西へと移動していることが分かり、その横腹を北から南に進んできた信長の軍勢が突いたのです。大軍とはいえ、本陣を集中攻撃されたのではたまったものではありません。
「信長公記」によると、義元の進軍に備えて幾つもの砦を築き、戦力を配置していることが分かります。また、敵方の武将を義元の手で殺させる謀略も行っています。こう考えると、桶狭間の合戦は、信長の「逆転劇」ではなかったと思えます。