歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~信長飛躍編②~⑤「世にその名を知らしめた桶狭間の合戦」

noteで連載中の「思い入れ歴史・人物伝~信長飛躍編」で、桶狭間の合戦について紹介しました。note版の②~⑤を一括掲載いたします。

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桶狭間の合戦は信長の「逆転劇」ではない

永禄3年(1560年)、織田信長が天下にその名を知らしめた「桶狭間の合戦」がありました。駿河など3か国の太守・今川義元の大軍を打ち破り、大将である義元の首級を挙げたのです。

義元が3万とも4万とも言われる大軍を率いていたのに対し、信長の軍勢は2千足らずの寡兵とされていたことから、信長の奇襲による戦国屈指の番狂わせ、あるいは逆転劇と言われ続けてきました。

一昔前のドラマや映画では、輿に乗って悠々と進軍する義元に対し、信長は僅かな近臣だけで出陣します。そして、義元の本陣に奇襲戦を仕掛けて義元を討ち取り、勝ちどきをあげます。まさに名場面ですよね。

ところが近年の研究で、信長が「一か八か」の戦いに挑んだ奇襲戦ではなかったことが分かってきました。

大高城を巡る攻防戦

沓掛城まで進軍してきた義元は、松平元康(徳川家康)に命じて、大高城に兵糧を運び入れるよう指示します。義元の軍略は、尾張との境にある大高城を拠点にして、尾張侵攻作戦を実行するつもりだったと思われます。

一方の信長は、大高城への進軍を想定し、その近くに鷲津、丸根、善照寺、中島の各砦(とりで)を築いたのです。そこに一族や重臣を配置し、今川軍への防戦体勢を整えます。

また、尾張への玄関口となる鳴海城を守っていた敵将・山口教継(元々は織田家の家臣だったが今川方に裏切っていた)を、義元自らの手で誅殺させるという謀略も図っていたのです。

大高城を拠点とするためには、各砦の織田軍は邪魔であり、危険な存在です。また信長は、たびたび今川軍に兵を差し向けてきます。義元は、各個撃破のために軍勢を分散させなければなりませんでした。

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地図と読む 現代語訳 信長公記

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 桶狭間の合戦に向けた信長の軍略とは

桶狭間の合戦の当日、沓掛城を出た今川義元の大軍は、兵糧を運び込んだ大高城を目指して、西へと進軍を開始しました。義元の胸中は「大高城に入ってから尾張侵攻の戦いをする」だったと思われます。

その前夜、清州城の織田信長の元に「今川軍が大高城に兵糧を運び込んだ」との知らせが入ります。ところが、家老たちとは軍略の話をせず、いったん各自を引き上げさせるのです。

合戦当日の夜明け前、鷲津、丸根の両砦に今川軍が攻めかかったとの知らせを受けた信長は、意を決したかのように「敦盛」を舞います。そして戦支度を整え、出陣するのです。信長公記はこう記します。

この時、従ったのはお小姓衆の(6人の名前は省略)。これら主従六騎、熱田まで三里を一気に駆けた。
※地図と読む現代語訳信長公記より

まさに電光石火のごとく、飛び出していったのです。

明暗を分けた「戦いへの意識の差」

出陣の様子だけを読むと、信長がごく少数の軍勢を率いて今川軍に奇襲戦を挑んだと思ってしまいますが、信長は慎重でした。重臣佐久間信盛が守る善照寺砦に入り、自軍を整えながら軍略を練ります。

そして、今川軍が東から西へと進軍し、途中の桶狭間で長時間の休憩を取っていることを知ります。清州城からの信長は、北から南へと進んできました。今川軍の進軍路とクロスする場所こそが桶狭間だったのです。

信長は、義元が大高城に入ってしまったら勝ち目はないと考え、「本陣に居る今こそ、義元を討つ千載一遇のチャンス」だと決断。今川軍が各砦の攻略で、軍勢を分散させているのも好機ととらえたのです。

義元は「戦いはこれからだ」と思っていたのに対し、信長は「今こそ戦うべき時」と考えます。この意識の差こそが、桶狭間の合戦での明暗を分けたのではないでしょうか。

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桶狭間の合戦で信長が大勝利

いよいよ桶狭間の合戦のクライマックスです。今川義元が軍勢を休めている桶狭間に近づくため、織田信長は善照寺砦から中島砦に将兵たちを移動させます。信長公記によると、兵の数は2千に満たなかったそうです。

中島砦から出陣すれば、あとは桶狭間に突撃するしかありません。今川軍に対して、あまりにも寡兵だったので、家老たちは信長を止めようとします。すると信長はこんなことを言いました。

「少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある」ということを知らぬか。(中略)敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代までの高名であるぞ。ひたすら励め。※地図と読む現代語訳信長公記より(以下、引用同じ)

単に将兵たちを鼓舞しただけではありません。敵の首を取って来た近臣たちにも同じことを言い聞かせました。つまり、「敵の大将・義元の首さえ取ればよい」という明確な指示だったのです。

ついに義元を討ち取る

こうして信長は、義元の本陣だけを目指して突き進んでいきます。その時、激しいにわか雨が振りつけ、今川軍に悟られないうちに接近することができました。天運も信長に味方したのです。

空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて「それ、掛かれ、掛かれ」と叫ぶ。黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水をまくように後ろへどっと崩れた。(中略)義元の朱塗りの輿(こし)さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。

防戦一方の今川軍に対し、猛然と攻めかかる織田軍。こうなると、兵の数は関係なくなります。織田軍は、馬回りや小姓たちに死傷者を出しながらも、徐々に義元を追いつめていくのです。そして・・・

服部春安は義元に打ちかかり、膝口を切られて倒れ伏す。毛利良勝は、義元を切り伏せて首を取った。

信長は、義元を討つ千載一遇のチャンスを見事にものにして、大勝利を上げました。信長公記によると、信長は馬の先に義元の首を掲げ、その日のうちに清洲城に帰還したといいます。

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桶狭間の合戦は徳川家康の運命も変えた!

織田信長今川義元を討ち取った桶狭間の合戦は、その後の織田家の飛躍と今川家の凋落をもたらすきっかけになりました。同じように、この合戦で運命を大きく変えた人物がいます。徳川家康です。

家康は当時、松平元康と名乗っており、三河の領主でありながら人質として今川家で育ちました。成長しても三河(岡崎)に戻ることはかなわず、今川家の属国扱いをされていたようです。

尾張攻略の拠点を大高城に定めた義元は、家康に先陣を命じ、大高城への兵糧運び込みを指示しました。さらに、織田軍の前線防衛基地である鷲津、丸根の両砦攻めにも出陣していたのです。

大高城に戻っていた時、「義元討ち死に」の報に接します。家康は今川軍と行動を共にはせず、本来の居城である岡崎城に戻りました。今川家との離反とも、織田軍への備えとも言われる独自の動きです。

信長公記によると、織田軍は何度か三河攻めをしているようですが、信長の次のターゲットは美濃だったため、本格的な攻略には至っていません。家康は、三河一向一揆に苦しめられながらも、やがて三河統一に成功します。

義元が大高城入城を果たしていたら、おそらく尾張攻略の先陣を申し渡されていたでしょう。あるいは戦いの中で命運尽きたかもしれません。その意味では、桶狭間の合戦は家康の大きな転機だったと言えます。

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