大河ドラマ「麒麟がくる」の6月7日放送分で、桶狭間の合戦が描かれました。太守である今川義元が織田信長に討たれたという劇的な要素を持つ戦いで、当ブログでも以前、太田牛一の「信長公記」を元に、合戦について考察してみました。
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敗者の今川義元ですが、ドラマなどでは信長と対比させる必要があるからか、「お公家様」のような人物像で描かれることが多いですが、「海道一の弓取り」とまで言われた大名が、お公家様であるわけがありません。
今川家は、足利将軍家と祖を同じくし、幕府の要職にも就ける名門です。義元はいったん出家していましたが、還俗して家督争いに勝った実力者で、領国の駿河・遠江だけでなく、三河も支配し、その手を尾張へと伸ばそうとしていました。
領国経営だけでなく、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康という戦国屈指の大名たちとも互角に渡り合い、三国同盟を締結した手腕は高く評価できます。同盟によって東の安全を確保でき、西の三河や尾張に兵力を集中できたのです。
輿に乗って戦場に向かったのは、「馬に乗れないほど肥満だった」といった後付けの理由を語られることが多いですが、最近では「将軍家に準じる身分だったため、輿に乗った」とする研究者の見解もあり、私も同感だと思いました。
桶狭間の合戦となった尾張侵攻でも、義元自らが太刀を振りかざす戦いは想定していなかったのでしょう。それが、結果として義元の討ち死にという最悪の結果をもたらせてしまったのです。このあたりの考察は「桶狭間の合戦②」をご覧ください。