歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~信長編⑥~⑩「信長公記に見る若き織田信長」

織田信長家督を相続し、尾張一国を統一するまでの青年期について、エピソードや取り巻く人々を交えながら紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~信長編の⑥~⑩をブログで一括掲載します。

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 「大うつけ」の器量を見抜いた道三

帰蝶濃姫)の父・斎藤道三が、婿の信長に「対面したい」と求めてきたのに応じ、両者は1553年に美濃と尾張の境にある正徳寺で初めて顔を合わせることになりました。

「大うつけ」の姿のままで・・・

父の信秀が亡くなり、若き後継者となった信長でしたが、信秀の葬儀での行状が道三の耳にも入っていたのでしょう。道三は、信長が本当の「大うつけ」かどうか、自分の目で見極めるつもりだったのです。

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信長の姿を見ておきたいと思った道三は、先回りして町はずれの小屋に隠れて、やって来る信長の行列を確かめました。「信長公記」にも書かれているエピソードですが、道三が本当に覗き見したのかは不明です。

その時の信長は「大うつけ」と呼ばれるままのいでたちでしたが、信長にすれば「これが俺の普段着だ」と言わんばかりでしょう。その姿を初めて見て唖然とする道三が目に浮かんできます。

しかし、道三をもっと驚かせたのが、「三間半(約6・4メートル)の槍を持った槍衆500、鉄砲隊500」というお供たちでした。信長がただ者ではないと、この時点で道三は見抜いたのかもしれません。

対面の座に現れた信長

正徳寺の対面の座には、道三の家臣たちが正装をしてずらりと居並んでいました。道三は「大うつけ」の姿でやって来る信長に恥をかかせ、笑ってやろうと目論んでいたのです。

ところが信長は、先ほどの姿とは打って変わり、居住まいを正して現れました。さらに家臣たちには一瞥(いちべつ)もくれず、後から現れた道三に対しても自分から挨拶をしなかったほどです。

道三と信長がどんな会話を交わしたかは分かりませんが、対面は無事に終了し、道三は居城へと引き上げていきました。その途中、家臣が「信長は大うつけ(阿呆)でしたね」と言ったのに対し、道三はこう答えました。

「だから無念だ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになるだろう」※地図と読む現代語訳信長公記

信長の器量が、嫡男である斎藤義龍ら自分の子供とは比較にならないと、道三は認めざるを得なかったのです。同時に、同盟関係が解消された時、美濃が信長の属国になると予言したのかもしれません。

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強大な今川軍の砦を打ち破る

織田家のある尾張は、常に東から今川義元の侵略にさらされていました。義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていた戦国屈指の大大名で、尾張に隣接する三河を属国化して勢力を伸ばしてきています。

武勇を誇った織田信秀が死んだこともあり、1554年に義元は三河尾張の国境の攻略にかかり、前線基地の砦(村木城)を築きます。当時信長は、織田一族内の抗争もあって、簡単に兵を出せない状況にありました。

そこで信長は「自分が出陣している間、本拠地(那古野)を守る援軍を派遣してほしい」と斎藤道三に依頼します。一つ間違えば、那古野を乗っ取られる危険もありましたが、信長は道三を信頼していたのでしょう。

信長軍は村木城を猛攻で落とし、今川軍の勢力を押し戻しました。信長が、信秀に匹敵する猛将だと分かり、義元は6年後に大規模な軍事作戦を決行するのです。これが有名な桶狭間の合戦となります。

援軍の役目を終えた斎藤軍も美濃に引き上げ、道三に信長の戦いぶりが報告されます。道三は「隣国には居てほしくない人物だ」と、改めて信長の力量に脅威を感じたようでした。※信長公記より

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息子に打ち倒された斎藤道三

美濃の事実上の支配者だった斎藤道三は、織田信長を評価していた半面、嫡男の義龍(高政)への評価は低かったようです。むしろ、義龍の弟たちをかわいがっていたとされます。

弟たちに後継者の座を脅かされると思った義龍は、病気を理由に呼び寄せて暗殺したのです。この事件をきっかけに、道三と義龍が美濃の国を二分する争い(長良川の戦い)が起きてしまいます。

戦いは、現当主である義龍の方に分があり、激戦の末に道三は敗れてしまい、討ち死にするのです。信長は、道三の援軍に出向きましたが、敗死の報を聞いて尾張に引き返しました。

信長公記」は、道三が主君である土岐頼芸を追放した仕打ちを引き合いに、当時の落首(世相を風刺した狂歌)を用いて「自身の自滅をもたらす」と、敗死が自業自得だったかのように書き記しています。

さらに、義龍が父親の道三を倒したことについても、次のように断罪しています。

「今の義龍は親不孝の重罪で、それを恥辱と思わねばならないのである」※地図と読む現代語訳信長公記

これらは、作者の太田牛一自身が「主君と家臣のあるべき姿」「親と子は長幼の序でなくてはならない」との考え方を表したのだと思います。

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兄に反旗を翻した弟・信勝

美濃の斎藤家で起きた斎藤義龍による弟たちの暗殺や父・道三との合戦を昨日ご紹介しましたが、こうした肉親同士の抗争は織田家も例外ではありません。織田信長にとっても、避けて通れない道だったのです。

信長には、同母弟の信勝(信行)がいました。父・信秀の葬儀でご紹介したように、「大うつけ」の振る舞いそのままの信長に対し、居住まいを正して葬儀に臨んだ信勝に、織田家の後継者を期待する家臣も多くいました。

信勝自身も、自分が織田家を継ぐべきだと思うようになり、やがて信長に反旗を翻します。信勝方には、柴田勝家林秀貞といった後に信長の重臣となる人物も含まれており、織田家を二分する争いになってしまいました。

二人の母である土田御前のとりなしもあり、一度は信勝も許されたのですが、他の織田一族に担がれ、再度信勝は決起します。しかし、信勝を見切っていた勝家によって、企てが信長に知らされたのです。

信長は一計を案じ、病気と偽って信勝をおびき寄せて謀殺し、お家騒動の芽を自ら摘み取りました。この時、見舞いを勧めたのは土田御前と勝家だったとされ、後に勝家が重く用いられるきっかけになったのです。

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暗殺団を直接詰問した信長

織田信長の上洛(京都入り)と言うと、足利義昭を奉じた大軍勢での上洛を思い浮かべるでしょうが、実は1559年に上洛していました。ほぼ尾張一国を統一した頃にあたります。

時の将軍・足利義輝への謁見を果たすとともに、京都、奈良、堺を見物したそうです。おそらく、信長自身が見聞を広げようとの目的で、各地を巡ったのだと思われます。

信長公記」によると、信長を狙って美濃から暗殺団が送り込まれたといいます。しかし、暗殺計画は未然に漏れてしまい、信長は直接暗殺団と対面したのです。信長は彼らに向かって、こう言い放ちました。

「未熟者の分際で信長を付け狙うとは、かまきりが鎌を振り上げて馬車に立ち向かうようなものだ。できるものか。それとも、ここでやってみるか」
※地図と読む現代語訳信長公記

度量が大きいと言えば、そうかもしれませんが、暗殺団に会うこと自体は不用心です。そこが、行動派の信長らしさとも言えます。結局、事なきを得て無事に尾張に帰国できたのです。

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歴史・人物伝~信長編では、若き日の織田信長について「信長公記」に沿って書いてきました。今回でひとまず終了しますが、いずれはこの続き、すなわち信長が世に出るきっかけとなった「桶狭間の合戦」について書いてみたいと思っています。