歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~信長編①~⑤「信長公記に見る若き織田信長」

織田信長家督を相続し、尾張一国を統一するまでの青年期について、エピソードや取り巻く人々を交えながら紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~信長編の①~⑤をブログで一括掲載します。

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信長の一代記を書いた男

「思い入れ歴史・人物伝」の本編スタートは、戦国時代を代表する英傑・織田信長から取り上げます。が、信長自身をストレートに紹介するのではなく、信長を取り巻く人たちの視点で書いてみます。

信長公記」を書いた太田牛一とは

織田信長の一代記である「信長公記」は、織田信長の側近だった太田牛一という人が、江戸時代に入ってからまとめた書物です。事象や合戦ごと丹念にまとめてあり、信長を知る上では欠かせない史料となっています。

信長の側近なので、信長を賛辞する記述が多くなっていますが、豊臣秀吉の「太閤記」とは違い、創作はほとんどないと思われます。また、合戦の描写が正確で、史料的価値も極めて高いといいます。

太田牛一は、信長より5歳ほど年上で、信長が家督を相続した頃から仕えていました。戦場での活躍よりも、官吏としての能力に優れていたようです。信長横死後も、秀吉、家康の天下取りを見続けてきました。

現代に例えると、太田は「大会社の秘書兼ジャーナリスト」という感じでしょうか。丹念に記録を残し、分からないところは人に聞く、すなわち取材をして書き上げています。

あの名場面も「信長公記」に書かれていた!

若き日の織田信長が登場するドラマや映画で、必ず描かれる名場面があります。信長の名を世に知らしめた「桶狭間の合戦」に向かう前、能の「敦盛」を舞って自らを鼓舞するシーンです。

あのシーンはドラマの創作、もしくは軍記物からの引用だと思っていました。ところが、太田が著した「信長公記」の桶狭間の合戦の中に、こんな描写があるのです。

この時、信長は「敦盛」を舞った。「人間五十年、(中略)滅せぬもののあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い(後略)
※地図と読む現代語訳「信長公記」より

太田の創作かもしれませんが、私は事実だと思っています。出陣前に信長が本当に舞ったからこそ、太田はあえて記録に残したのです。信長の死生観を今に伝える見事な描写ですよね。

「思い入れ歴史・人物伝~信長編」の執筆にあたり、以後も「信長公記」を参考にしたいと考えています。

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青年期の「大うつけ」信長

若い頃の織田信長は、人々から「大うつけ」と言われていました。うつけ者というと、暗愚というイメージを持ってしまいがちですが、信長の場合は「変わり者」という意味合いにとらえた方がいいでしょう。

信長公記」でも、青年期の信長をこう書いています。

「町中を歩きながら、人目もはばからず、栗や柿はいうまでもなく瓜までかじり食い、町中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶら下がって歩いていた」※地図で読む現代語訳信長公記より

ドラマや映画での青年・信長の姿は、誇張表現されたものかと思っていましたが、衣装などは別にして、立ち振る舞いは「信長公記」を忠実に再現しています。作者の太田牛一も「見苦しい」としているほどです。

ただ、「信長公記」によると、弓、鉄砲、槍の稽古や鷹狩りという武士のたしなみは、しっかりと修練していました。とくに「鉄砲の稽古」を行っていたという記述は注目されます。

当時は鉄砲が日本に入ってきて、数年しか経っていません。信長がいち早く鉄砲に興味を示し、自ら扱い方を学んでいるというのは、彼の先見の明を知るエピソードとも言えますね。

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野心家の父・信秀の打った手とは

織田信長の父の織田信秀は、勇猛果敢で野心的な武将として知られていました。信秀は、織田本家の出身ではありませんでしたが、その実力をもって次第に勢力を拡大していきました。

ただ、信秀の周りは敵だらけでした。東には「海道一の弓取り」と言われた大大名・今川義元がおり、北の美濃は斎藤道三が事実上の権力者です。足元の尾張国内では他の織田一族との対立抗争があったのです。

そこで信秀は、斎藤道三と同盟関係になることを画策します。都合が良いことに、信秀には嫡男の信長がおり、道三には帰蝶濃姫)という娘がいました。そこで信長と帰蝶の政略結婚が成立したのです。

道三も、信秀の武略に手を焼いていたので、信秀との同盟関係はまさに「渡りに船」でした。おそらく帰蝶には、尾張の情勢を逐一報告するよう指示していたと思われます。

ですが、信長は「大うつけ」と噂されていた男です。嫁入りする帰蝶の気持ちは、複雑だったに違いありません。

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妻・帰蝶の謎に包まれた生涯

織田信長の父・織田信秀は、敵だらけの四面楚歌を打開するため、美濃の斎藤道三と同盟を結ぶため、信長の嫁に道三の娘・帰蝶濃姫)を迎えることになりました。

信長の正室(妻)となった帰蝶ですが、その生涯だけでなく、正確な名前すら伝わっていません。「信長公記」にも「道三の娘」としか記されず、美濃の姫だから「濃姫」と呼ばれていたようです。

信長には、嫡男の信忠や後に後継者争いをする信雄、信孝がいますが、いずれも帰蝶が生んだ子ではありません。おそらく、二人の間には子がいなかったか、いたとしても女子だったのではないかと思われます。

帰蝶の生涯は謎に包まれているため、ドラマなどでは脚色しやすく、中には「本能寺の変で信長と最後まで戦った」という演出もありました。道三の娘という血筋からも「戦える女性」を描きやすかったのでしょう。

私は、信長が美濃の攻略を始めた頃(1560~66年)に離縁したか、死別したと考えます。帰蝶が「濃姫」と呼ばれたのも、あくまで美濃との縁結び(同盟)のためで、敵対すれば解消されても仕方ないと思うからです。

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信秀の死と葬儀での出来事

道三の娘・帰蝶濃姫)を嫁に迎えた織田信長でしたが、間もなく悲しい出来事が起こります。父の信秀が病死したのです。40代前半での死は、若すぎるだけでなく、織田家の行く末にも影響を及ぼしました。

信長には同母の弟・信勝がいました。信長が「大うつけ」と陰口を叩かれていたのですから、家臣の中には「後継者には信勝がふさわしい」と思う者も少なからず存在していたと思われます。

それが顕在化するのが、万松寺で執り行われた信秀の葬儀での出来事でした。「信長公記」には、次のように記されています。

「その時の信長の出で立ちは、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅まげに巻き立て、袴もはかない。仏前に出て、抹香をかっとつかんで仏前に投げかけて帰った」※地図と読む現代語訳信長公記

今で言うならば、「ど派手な普段着のまま葬儀に現れ、焼香用の抹香を位牌に投げつけたて立ち去った」ことになります。信長は嫡男なので、当然喪主を務めているはずなので、驚くべき行動です(苦笑)

一方の信勝は、居住まいを正し、礼にかなった作法だったそうです。誰の目にも、「乱暴で礼儀知らずの兄」と「律儀で礼儀正しい弟」と写ったでしょうし、信勝に後継者を期待する声が出てもおかしくありません。

ただ、「信長公記」には、こんな記載もあります。

「筑紫から来た旅僧一人だけが、『あの方こそ国持ち大名になるお人だ』と言ったとか」※地図と読む現代語訳信長公記

これは私の推測ですが、作者の太田牛一が旅僧の言葉を借りて、信長を尊敬する自らの思いを込めたのではないでしょうか。その時の信長の振る舞いを見て、ここまで見通せた人がいたとは、とても思えないのです(笑)

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★歴史・人物伝~信長編⑥~⑩はこちら

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