歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

「中岡慎太郎①」幕末・維新~龍馬と比類すべき維新の立役者

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中岡慎太郎館前にある肖像写真(北川村)

中岡慎太郎は、坂本龍馬と同じ土佐勤王党出身の志士で、薩長同盟を締結すべく奔走しました。近江屋で龍馬と一緒にいたところを狙われ、そろって命を落としたことから、龍馬とは同志のように思われがちですが、考え方は全く逆でした。

倒幕が現実味を帯びた時、龍馬が土佐藩参政の後藤象二郎と組んで大政奉還という「緩やかな政権交代」を目指したのに対し、慎太郎は武闘派だった板垣退助と組み、薩摩や長州藩と共に「武力倒幕」の道に進んでいくのです。

慎太郎の根底にあったのは、師である土佐勤王党のリーダーだった武市瑞山の思想でした。瑞山の指示のもとで、長州藩士らとも交流を深め、禁門の変では長州藩の一員として会津藩薩摩藩との戦いにも加わったほどです。

板垣など明治の世まで生き残った人たちの多くが、慎太郎を高く評価しています。勤王倒幕の志士として雄々しいイメージのある慎太郎ですが、人懐こい笑顔を見せた写真も残しています。きっと、ピュアな人柄だったのに違いありません。

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「関ケ原の合戦①」戦国時代~石田三成の西軍に勝ち目があったとしたら

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関ケ原布陣図

日本史上屈指の内戦でもある関ケ原の合戦は、徳川家康が天下取りをするための最後の大戦(おおいくさ)でした。数に勝る西軍を撃破できたのは、家康方の巧みな調略が物を言ったわけですが、もちろん西軍にも十分勝ち目があったと私は思います。

そのカギを握っていたのは、最大の西国大名だった毛利輝元です。輝元は、西軍の総大将として豊臣秀頼のいる大坂城に詰めていました。結果として、大阪城から一歩も動けぬまま、関ケ原で大勝利した家康に屈服してしまうのです。

西軍への調略でターゲットになったのは、毛利一族の吉川広家小早川秀秋でした。もし、輝元が関ケ原に進軍していたらどうなっていたでしょう。輝元の号令があれば、吉川も小早川も東軍を攻撃していたと考えられます。

そのまま毛利家が天下を取れたかどうかは別として、少なくとも関ケ原の合戦は西軍が勝利し、おそらく家康は東国への撤退を余儀なくされたと思われます。あるいは、関ケ原で戦死していたのは家康だったかもしれません。

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「徳川家康④」戦国時代~天下分け目の決戦は大博打だった

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関ケ原の家康本陣跡

豊臣秀吉の死後、天下取りのチャンスが巡って来た徳川家康は、豊臣家臣団の分断につけ込んで自派(東軍)を形成します。石田三成らの挙兵を受け、上杉討伐から反転して
西へ向かい、三成、宇喜多秀家大谷吉継ら西軍との決戦に挑みます。

明治時代、関ケ原の合戦の布陣図を見たドイツの軍事顧問は、即座に「西軍の勝ちだ」と断言しました。家康の東軍を包み込むような西軍の布陣は、兵力的には完璧だったといえます。しかし、戦略的には家康がはるかに上回っていました。

家康は、西軍最大の軍事力を持つ毛利家を調略し、毛利軍総司令官の吉川広家に軍勢を動かさないように工作します。さらに、一族の小早川秀秋には東軍への寝返りをそそのかせます。これにより、西軍の事実上の兵力は半減したのです。

ただ、調略に乗るかどうかは、時々刻々変化する政治情勢、さらに合戦後の状況にも大きく左右します。兵力通りの戦いとなってしまえば、東軍惨敗の可能性や家康の戦死もあり得たかもしれません。その意味では、関ケ原は「大博打」だったとも言えます。

次のブログでは、関ケ原で西軍が勝てた可能性について考察したいと思います。

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「徳川家康③」戦国時代~辛くも危機を脱出した神君伊賀越え

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家康が訪れていた堺

織田信長の招きで京都や堺の見物に訪れた徳川家康と主な家臣たちは、堺で予想外の事態に直面します。信長・信忠親子が明智光秀に討たれた本能寺の変の勃発です。一度は自刃を口にしますが、本田忠勝らの説得で虎口を脱する決断をしました。

家康は京都周辺や東海道を避け、今の京都府南部から三重県方面へと進みます。このルートが後に「神君伊賀越え」と呼ばれるのです。ただ、混乱に乗じて武功を上げようとする者、さらに信長に恨みのある一揆たちら、予期せぬ危険に満ちていました。

途中まで同行していた穴山梅雪(元武田家家臣)は一揆に殺されましたので、家康にも命の危機が及んでいました。おそらく、有能な家臣たちが最大限リスクを回避するよう知恵を絞りまくり、家康の命を守ったのではないでしょうか。

また、伊賀が先祖の地だった服部半蔵(正成)や信長側近の長谷川秀一といった地の利に詳しい人物の存在、さらに豪商の茶屋四郎次郎が逃避行の資金援助をしたことなど、運だけでなく、人脈にも恵まれたのも九死に一生を得た要因だと思います。

時代は下り、豊臣秀吉の死で天下取りのチャンスが巡って来た家康でしたが、人生最大の戦いに挑まねばなりませんでした(つづく)

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「徳川家康②」戦国時代~命からがら城に逃げ帰る・三方ケ原の合戦

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三方ケ原合戦の直後に武田軍に奇襲をかけたとされる犀ヶ崖の戦いの碑(浜松市

戦国大名徳川家康として初めて、命の危機にさらされた戦いが「三方ケ原の合戦」でした。戦国最強と言われた武田信玄が、家康の居城がある浜松城近くまで大軍を率いて向かってきたのです。劣勢の家康は籠城策を取るつもりでした。

信玄は浜松城を囲もうとはせずに、織田信長の本拠地に近い西へと向かいます。相手に背を向けた形での進軍に、家康は「劣勢でも勝機がある」として、信玄軍の背後を突く野戦を決断し、信長の援軍と共に出陣するのでした。

しかし、老獪な信玄は三方ケ原で家康軍を待ち構え、殲滅作戦に乗り出しました。野戦となれば多勢に無勢ですし、合戦では場数を踏んでいる信玄が一枚上です。援軍を含めた多くの家臣が討ち死にする中で、家康は辛うじて浜松城に逃げ帰りました。

信玄は兵力温存のため、無理して浜松城を攻め落とそうとしなかったため、家康は九死に一生を得た形になりました。この戦いでの反省を後世に残すために描かせたのが、有名な「家康のしかみ像」だったとの逸話が残っています。

次の「命の危機」は、思いもよらない大事件がきっかけとなりました(つづく)

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「徳川家康①」戦国時代~命の危機を何度も乗り越えた天下人

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徳川家康像(静岡市

当ブログでの人物紹介50件目は、歴史上で最も有名な人物の一人、徳川家康の登場です。事績について紹介するまでもありませんので、ここでは家康が迎えた「命の危機」にスポットを当て、何回かに分けて書いてみたいと思います。

家康は、戦国時代の当時としては長命である75歳まで生き、しかも死の直前まで第一線で活躍してきました。家康が天下統一を完成させ、幕府を築けたのは「健康長寿を保ったことが最大の要因」と言われるほどです。

しかし、戦国時代は「生きるか死ぬか」という時代でもあります。家康の場合は、幼少時に織田、今川の人質生活をおくっており、人生のスタートから「命の危機」にさらされていたのです。父親が裏切れば、即座に殺されても仕方ない境遇でした。

今川義元織田信長に敗れて戦死した桶狭間の合戦が、家康にとっても転機になりました。今川から離れ、三河の領主として戦国大名の道を歩み始めたのです。紆余曲折ありながらも何とか三河統一を果たした家康の前に立ちはだかった武将がいました。

「命の危機」は、その武将・武田信玄との戦いで訪れるのです(つづく)

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家康(松平元康)も出陣した桶狭間の合戦についてのブログです

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「橋本佐内①」幕末・維新~俊英と言われた男の残念な刑死

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橋本佐内の像(福井市

幕末・維新には数多くの志士たちが活躍しましたが、その先駆けとなった人物の一人が福井藩の俊英・橋本佐内です。医者の息子として生まれた佐内は、早くからその才能を開花させ、時の藩主・松平春嶽の絶大な信頼を得ていました。

将軍・家定の後継者問題で、春嶽は徳川斉昭島津斉彬らとともに、斉昭の実子で英邁とされた一橋慶喜を推します。一方、井伊直弼ら幕閣の中枢は、幼少でも血統の近い紀州藩徳川慶福がふさわしいとし、両者は激しく対立します。

佐内は、慶喜を将軍後継者にすべく奔走し、水戸藩はじめ諸藩の指導者らとも交流を深めています。その時、一緒に活動したのが西郷隆盛で、後に「同輩なら橋本佐内」と語っており、第一級の評価をしていました。

井伊直弼安政の大獄により、佐内は26歳の若さで刑場の露と消えてしまいます。先見の明があり、知見も豊富に蓄えていた佐内が生きながらえていたならば、維新や明治の世でどんな活躍ができたでしょう。残念でなりませんですね。

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