歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」本多正信の子孫はどうなった?

大河ドラマ「どうする家康」は、最後のクライマックスである大坂冬・夏の陣に向かって物語が進んでいます。徳川家と豊臣家の最終決着はどうなっていくのか? 史実を知っていても楽しみですよね。

さて、徳川家康を支えてきた家臣団ですが、四天王の酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政がこの世を去り、世代交代や人材登用によって幕藩体制にふさわしい徳川家臣団が形成されていきます。

そのなかで唯一、戦国から生き残っている家臣が本多正信です。紆余曲折あるなかで家康の家臣に加わり、軍功よりも知略の面で家康を支えた参謀とも言える人物。徳川幕府が始まると、正信の存在感はさらに大きくなっていきます。

家康はわずか2年で将軍の座を秀忠に譲りますが、実際には大御所として実権を握り続けます。腹心である正信は、秀忠付きの重臣として将軍を補佐する立場になりますが、これは同時に秀忠への「お目付け役」を担っていたと思われます。

正信は、井伊直政本多忠勝ら他の家臣と比べ、家康から与えられた領地はわずかでした。戦国の世という武勇が評価される時代のなかで、正信自身は分相応だと思っていたに違いありません。

正信の嫡男・本多正純は、家康が幕府を開いた時期に台頭してきます。

正純は、大御所となった家康の側近として、家康のいる駿府城に出仕し、黎明期の幕政や大坂の豊臣家対策などで力を発揮します。親の七光りがあったとはいえ、家康が目をかけていたほどの力量の持ち主だったとも思われます。

元和2年(1616)に家康、正信が相次いで死去すると、正純は江戸に移って秀忠の側近となります。正信以来の重臣ということもあってか、小山藩5万3千石から宇都宮藩15万5千石という破格の加増を受けたのです。

ところが、正純の出世をねたむ勢力による陰謀に遭い、秀忠への謀反を企てたとして出羽への移封を言い渡されます。正純は謀反の覚えはないとして移封を断り、結局は改易処分となってしまい、大名家たる本多氏は消滅しました。

正信の次男は本多政重です。

政重は兄の正純とは違う波乱万丈の生涯をおくっています。若いころ、秀忠の乳母の子を切り殺したとして徳川家を出奔し、関ケ原の合戦の時には西軍の宇喜多秀家の軍勢に加わっていたほどです。

合戦後、前田家で召し抱えられますが、上杉景勝重臣直江兼続に目をつけられ、娘婿として直江家の養子となります。しかし政重は養子縁組を解消して上杉家を出奔し、前田家に出戻りとなるのです。

政重は、幕府内の権力者である本多正信の子、正純の弟であることから、前田家でも要職の地位に置かれ、筆頭家老として加賀本多家を創設。政重の系譜は江戸時代を通し、筆頭家老の地位にあり続けることになるのです。

正信にはもう一人、本多忠純がいました。

忠純は幕府開設後、下野国榎本藩1万石の大名として立藩し、大坂夏の陣を経て2万8千石まで加増されました。忠純の死後、甥である政遂(政重の子)が藩主となりますが、後継者に恵まれず断絶してしまうのです。

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」徳川家康の巧妙な論功行賞

大河ドラマ「どうする家康」は、先週12日の放送で関ケ原の戦いが描かれ、勝利した徳川家康による治世がいよいよ始まりました。と同時に、淀殿を中心とした豊臣家にきな臭い動きが見えてきたようですね。

その関ケ原の戦いですが、ドラマでは石田三成方(西軍)の諸侯に対する戦後処理について紹介されました。三成らは処刑、宇喜多秀家島流し真田昌幸は蟄居、毛利輝元上杉景勝は減封という厳しい処分となったわけです。

では、家康を勝利に導いた東軍諸侯の論功行賞はどうなったのでしょうか?

手柄を上げたわけですから、当然恩賞が与えられるわけですが、家康は巧妙な手を使っています。それが「加増しながら転封する」というものです。

 

尾張清洲24万石だった福島正則は、安芸広島50万石に倍増しました。正則は豊臣秀吉子飼いの家臣だったため、徳川幕府から常に警戒されており、元和5年(1619)に改易処分となってしまいました。

豊前中津12万5千石だった黒田長政は、筑前名島52万石という4倍増となりました。長政は毛利一族などの調略に貢献したといい、家康が高く評価したことがうかがえます。東軍で最も得した武将だったと言えるでしょう。

甲斐府中16万石だった浅野幸長は、紀伊38万石に倍増しました。幸長は大坂冬の陣開戦の2年前に亡くなり、後を継いだ長晟は福島正則改易後の安芸広島へ転封し、紀伊徳川御三家徳川頼宣に明け渡したのです。

丹後12万石と豊後杵築6万石を領していた細川忠興は、丹後に代わり豊前中津34万石が与えられ、間もなく本拠地を小倉に移しました。後を継いだ忠利は肥後熊本54万石に加増転封され、明治まで命脈を保ちました。

三河吉田15万石だった池田輝政は、播磨姫路52万石という3倍以上の加増となりました。輝政も大坂冬の陣開戦の2年前に亡くなり、孫の光政は鳥取藩を経て、岡山31万5千石の大名となりました。

伊予宇和島8万石だった藤堂高虎は、新たに伊予今治12万石を加増されました。高虎は徳川家に重臣として仕えたこともあって、今治から津20万石へと加増転封され、最終的には32万石の大名へと出世を果たしたのです。

 

家康の巧妙なのは、関ケ原の論功行賞を機にもともと徳川家が治めていた東海道を取り戻したところにありました。三河吉田の池田輝政の加増転封も、それにあたるわけですが、ほかにも移封された武将たちがいます。

例えば、駿府府中14万石の中村一氏伯耆米子17万5千石に、遠江浜松12万石の堀尾吉晴は出雲富田24万石に、三河岡崎10万石の田中吉政筑後柳川32万石に、それぞれ加増しながら転封されています。

最も有名なのは、遠江掛川5万石の山内一豊が土佐20万石に加増転封された例でしょう。一豊は関ケ原合戦前の小山評定で真っ先に掛川城明け渡しを進言したとされ、戦場での働き以上に功績を評価されたと言われています。

 

最後に関ケ原で戦った徳川譜代についても触れておきましょう。

井伊直政は、上野高崎12万石から近江佐和山18万石に転封となります。直政は関ケ原の合戦から2年後に亡くなりますが、その後井伊家は彦根藩30万石という譜代大名最大の領地を持ち、複数の大老を輩出していきます。

本多忠勝は。上総大多喜10万石から桑名10万石に転封となりますが、大多喜は次男の忠朝が5万石で新たな大名家を立て、本多家としては実質的な加増となります。忠勝の後を継いだ忠政は桑名から姫路15万石に加増転封されています。

そして、家康の四男・松平忠吉ですが、武蔵忍10万石から尾張・美濃52万石を与えられ、福島正則に代わって清洲城に入ります。しかし忠吉は7年後に亡くなり、領地は家康の九男・義直が継いで、尾張徳川家の祖となるのです。

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」関ケ原の戦いを総力特集!

大河ドラマ「どうする家康」は12日の放送で、関ケ原の合戦が描かれました。戦いに勝った徳川家康は、いよいよ天下統一の集大成として江戸幕府を開くことになります。このあとの淀殿の動きも注目されますよね。

 

ところで、当ブログ「歴史・人物伝」では、3年前に「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」と銘打った連載シリーズをやりました。

天下分け目の戦いと言われ、日本史上でも類を見ないスケールの合戦は、その前哨戦から激しい戦略や謀略が飛び交い、全国のすべての大名たちを巻き込んでいました。その中核にいたのが徳川家康石田三成だったのです。

歴史・人物伝の連載シリーズでは、人物にスポットを当てながら、関ケ原の合戦に至るまで、そして合戦での出来事を時系列でたどり、私の個人的な見解を交えながら紹介いたしました。よかったら、ぜひ読んでみてください。

 

総力特集「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」のリンクは下記の通りです。

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歴史・人物伝~「戦国ヒストリー」掲載コラムをご紹介:シニアが手本にしたい伊能忠敬の第二の人生

戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史愛好家ら多士済々の執筆者にまじって、歴史ファンの一人として、ユーザー投稿の形で執筆しているところです。

「戦国ヒストリー」は、丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジンといううたい文句で、戦国時代を中心に源平時代から近現代史まで、時代もジャンルもバラエティに富んだサイトです。

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今回の掲載コラムご紹介は「シニアが手本にしたい伊能忠敬の第二の人生」です。

還暦を過ぎた人ならば、第二の人生をどう生きるべきかを真剣に考えたことが一度や二度ばかりではないでしょう。

江戸時代後期に日本全国を測量して歩き、日本地図を作り上げた人物として知られている伊能忠敬ですが、彼が本格的に測量術を学び始めたのは、なんと50歳を過ぎてからだったのです。

驚くべきことに伊能は、単に机上での学問にとどまらず、自分の足で測量の旅をし続けています。しかも伊能は、それまでの半生においても家業繁栄や地域貢献のために尽力し続けてきていたわけです。

これほどまでに見事で、しかも魅力的な生きざまはありません。私を含むシニア世代が手本にしたい伊能忠敬の人生についてまとめてみました。

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★恥ずかしながら私も「第二の人生」について半生を振り返って書き綴ってみました(著書の宣伝ですが・・・)

 

 

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」鳥居元忠の忠義は鳥居家も救った

大河ドラマ「どうする家康」は、ついに石田三成が挙兵し、関ケ原の合戦へのカウントダウンが始まりました。そして、伏見城を託された鳥居元忠徳川家康が盃を交わすシーン。このために音尾琢真さんが配役されたといっても過言ではありません。

実は、このドラマが始まった当初、つまり今川家の人質だった家康に従っていた鳥居元忠を見た時、「ドラマでは伏見城の戦いが描かれるのだろうか?」と思っていました。これまでの元忠は、伏見城の老境の武将で描かれることが多かったからです。

鳥居元忠伏見城に立てこもり、石田三成らの先制攻撃を受けたことが、家康にとっては西へ向かう大義名分になりましたし、少数の戦力で半月近く足止めを食わせたことも後々の戦況に影響を与えたわけです。

鳥居元忠の死を賭しての忠義は三河武士の鑑」とまで言われ、家康は終生恩義を感じていたでしょう。そればかりか、元忠のおかげで江戸時代を通し、鳥居家は何度か訪れた大名としての存続の危機を逃れていたのです。

伏見城で討ち死にした時の元忠は、下総国矢作城4万石の領主でした。家督は元忠の子・鳥居忠政が継ぎ、関ケ原の合戦後に磐城平藩10万石の藩主となります。この加増も元忠の働きに対する論功行賞でした。

さらに忠政は、元和8年(1622)の最上氏改易により、出羽山形藩22万石に加増転封されます。最上領のうち、出羽庄内藩には酒井忠次の孫の忠勝が入っており、鳥居、酒井の両家が東北の諸大名を監視する役割を担うのです。

忠政の子の鳥居忠恒は、嫡子がいないまま亡くなり、末期養子も認められなかったために鳥居家は改易となってしまいます。ここで元忠の功績がモノを言い、弟の忠春が信濃高遠藩3万2千石の大名に取り立てられました。

ところが鳥居忠春は暴君と言われ、挙句の果てには侍医に切り付けられるという失態を演じてしまいます。忠春の死去後は子の忠則が継ぎますが、忠則も家中の不始末によって閉門となり、急死してしまったのです。

他藩であれば、ここでお家取り潰しになるところでしょうが、やはり元忠の功績がモノを言います。忠則の子・鳥居忠英能登下村1万石を与えられ、大名家としての家名を辛うじて守ることができたわけです。

その後、忠英は水口藩を経て、下野壬生藩3万石へと移封されます。壬生に入った忠英は、殖産興業として干瓢(かんぴょう)を普及させ、藩校「学習館」を開校するなど、藩政に尽力し、名君とうたわれたそうです。

忠英以降、壬生藩は鳥居家が代々継ぎ、明治維新まで続いていきます。再三のお家取り潰しの危機を救った鳥居元忠の偉大なる功績=伏見城の戦いが今の世に語り継がれてきたのも分かるような気がしますね。

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」前田利家の正室まつと前田家のその後

大河ドラマ「どうする家康」は、秀吉という重しが消え、いよいよ天下取りを目指そうという徳川家康と、それを阻止しようという石田三成の対立が描かれ、運命の「関ケ原の合戦」へのカウントダウンが始まりました。

秀吉没後の豊臣家を支えていたのは前田利家です。利家の死去は家康にとって追い風になったといっても過言ではありません。そんな利家には、まつ(芳春院)という正室がいました。今回は「まつと前田家のその後」と題したコラムを書きます。

かつて大河ドラマ利家とまつ」で、松嶋菜々子さんが主演したことで一躍有名になったまつ。彼女は当時でもたいへんな子だくさんに恵まれた女性で、利家との間には2男9女の11人の子供がいました。

長男は利家の跡継ぎとなった前田利長で、もう一人の男児(二男)が前田利政でした。この二人は年が16歳も離れており、利家死去後の家康への対応をめぐって対立していたとされています。

利長は家康に対して恭順の姿勢を示し、母のまつを人質として江戸に送るということまでしています。一方の利政は、家康への反発心があったとされ、関ケ原の合戦後には利長から「西軍に加担した」と訴えられてしまったのです。

関ケ原後の論功行賞で利長は加賀100万石の大名となりますが、嫡男に恵まれませんでした。結局、利長の後を継いだのは異母弟の利常で、まつの血筋は加賀藩主前田家からは途絶えてしまったのです。

一方の利政ですが、関ケ原後は所領を没収され、隠棲を余儀なくされました。大坂冬、夏の陣では豊臣方からの誘いを断り、徳川方にも加担せず中立の立場を守り、家康からの大名取り立ても断ったとされています。

利政には直之という嫡男がいました。直之は父が改易処分になってしまったため、まつ(芳春院)に引き取られて育てられ、その縁もあって加賀藩主となった利常の元に召し出されて家臣になります。

直之の系譜は前田土佐守家として、代々筆頭重臣となって加賀藩を支えていき、明治維新まで命脈を保って、現在も子孫がいらっしゃいます。つまり、まつの血筋が今も受け継がれているわけです。

まつの娘たちについてもちょっとだけ触れておきましょう。

娘のなかで最も有名なのが四女の豪姫です。子宝に恵まれなかった羽柴秀吉とおね夫婦のもとに養女として出され、宇喜多秀家に嫁ぎます。関ケ原後、秀家と息子たちは八丈島流罪となり、豪姫は金沢に戻ったそうです。

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」酒井忠次の子孫は領民に慕われる殿様だった

大河ドラマ「どうする家康」は、豊臣秀吉の死去によって再び大きな節目を迎えようとしています。そのなかで、徳川四天王の筆頭であった酒井忠次大森南朋さん)も静かに退場していきましたね。

今回のコラムでは、酒井忠次の子孫はどうなったのかについて触れてみましょう。

 

徳川家康の関東移封に伴って家臣たちにも領地が与えられ、独立した大名となったわけですが、酒井忠次はすでに隠居しており、子の酒井家次下総国臼井3万7千石が与えられました(10月2日のコラムで紹介済みです)

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関ケ原の合戦後の領地替えで、彦根藩に加増転封した井伊直政に代わり、家次が高崎藩主となります。ただし石高はそっくり受け継げず、5万石の大名として徳川幕府政権下でのスタートを切るのです。

大坂夏の陣のあと、越後高田藩主だった松平忠輝が改易され、その後釜として家次が越後高田藩に入ります。10万石への加増転封となったところで家次が死去し、その子・忠勝が後を継ぎましたが、わずか1年で松代藩へ移封となります。

元和8年(1622)に山形の最上氏が改易となり、最上領のうちの荘内地方13万8千石が忠勝に与えられ、忠勝は庄内藩を立藩して初代藩主となりました。以後、酒井家が代々、庄内藩を統治することになるのです。

 

さて、ここでタイトルの「領民に慕われる殿様」について解説しましょう。

時代は下り、江戸時代後期の天保11年(1840)のことです。当時の荘内藩主・酒井忠器(ただかた)の元に、幕府から仰天するような命令が下ったのです。長岡、庄内、川越の3藩が「三方領知替え」をしろ、というものでした。

酒井家は長岡藩への移封を命じられたのですが、石高は減ってしまいます。酒井家に落ち度があったわけではなく、時の大御所・徳川家斉から養子を迎え入れていた川越藩松平家が、肥沃な地を望んで企てた領地替えだとされています。

この命令に対し、反旗をひるがえしたのが酒井家ではなく、庄内藩の領民たちでした。「おらが殿様は酒井様の他にはいない」「領民とて二君にまみえず」などと行動を起こし、幕府に直談判をするという前代未聞の事件が起きたのです。

結局、三方領地替えは撤回に追い込まれ、酒井家はその後も荘内藩主として幕末・維新を迎えました。200年もの間、善政を行い、領民に慕われてきた庄内藩酒井家の系譜・・・その始まりとなったのは酒井忠次だったのです。

 

丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジン「戦国ヒストリー」で、ユーザー投稿として「領地替え撤回を領民が直談判!天保義民事件は前代未聞のできごとだった」というタイトルでコラムを投稿しています。よかったら一読ください

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天保義民事件をテーマにした藤沢周平の小説です