歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」酒井忠次の子孫は領民に慕われる殿様だった

大河ドラマ「どうする家康」は、豊臣秀吉の死去によって再び大きな節目を迎えようとしています。そのなかで、徳川四天王の筆頭であった酒井忠次大森南朋さん)も静かに退場していきましたね。

今回のコラムでは、酒井忠次の子孫はどうなったのかについて触れてみましょう。

 

徳川家康の関東移封に伴って家臣たちにも領地が与えられ、独立した大名となったわけですが、酒井忠次はすでに隠居しており、子の酒井家次下総国臼井3万7千石が与えられました(10月2日のコラムで紹介済みです)

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関ケ原の合戦後の領地替えで、彦根藩に加増転封した井伊直政に代わり、家次が高崎藩主となります。ただし石高はそっくり受け継げず、5万石の大名として徳川幕府政権下でのスタートを切るのです。

大坂夏の陣のあと、越後高田藩主だった松平忠輝が改易され、その後釜として家次が越後高田藩に入ります。10万石への加増転封となったところで家次が死去し、その子・忠勝が後を継ぎましたが、わずか1年で松代藩へ移封となります。

元和8年(1622)に山形の最上氏が改易となり、最上領のうちの荘内地方13万8千石が忠勝に与えられ、忠勝は庄内藩を立藩して初代藩主となりました。以後、酒井家が代々、庄内藩を統治することになるのです。

 

さて、ここでタイトルの「領民に慕われる殿様」について解説しましょう。

時代は下り、江戸時代後期の天保11年(1840)のことです。当時の荘内藩主・酒井忠器(ただかた)の元に、幕府から仰天するような命令が下ったのです。長岡、庄内、川越の3藩が「三方領知替え」をしろ、というものでした。

酒井家は長岡藩への移封を命じられたのですが、石高は減ってしまいます。酒井家に落ち度があったわけではなく、時の大御所・徳川家斉から養子を迎え入れていた川越藩松平家が、肥沃な地を望んで企てた領地替えだとされています。

この命令に対し、反旗をひるがえしたのが酒井家ではなく、庄内藩の領民たちでした。「おらが殿様は酒井様の他にはいない」「領民とて二君にまみえず」などと行動を起こし、幕府に直談判をするという前代未聞の事件が起きたのです。

結局、三方領地替えは撤回に追い込まれ、酒井家はその後も荘内藩主として幕末・維新を迎えました。200年もの間、善政を行い、領民に慕われてきた庄内藩酒井家の系譜・・・その始まりとなったのは酒井忠次だったのです。

 

丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジン「戦国ヒストリー」で、ユーザー投稿として「領地替え撤回を領民が直談判!天保義民事件は前代未聞のできごとだった」というタイトルでコラムを投稿しています。よかったら一読ください

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天保義民事件をテーマにした藤沢周平の小説です