大河ドラマ「どうする家康」は、ついに石田三成が挙兵し、関ケ原の合戦へのカウントダウンが始まりました。そして、伏見城を託された鳥居元忠と徳川家康が盃を交わすシーン。このために音尾琢真さんが配役されたといっても過言ではありません。
実は、このドラマが始まった当初、つまり今川家の人質だった家康に従っていた鳥居元忠を見た時、「ドラマでは伏見城の戦いが描かれるのだろうか?」と思っていました。これまでの元忠は、伏見城の老境の武将で描かれることが多かったからです。
鳥居元忠が伏見城に立てこもり、石田三成らの先制攻撃を受けたことが、家康にとっては西へ向かう大義名分になりましたし、少数の戦力で半月近く足止めを食わせたことも後々の戦況に影響を与えたわけです。
鳥居元忠の死を賭しての忠義は「三河武士の鑑」とまで言われ、家康は終生恩義を感じていたでしょう。そればかりか、元忠のおかげで江戸時代を通し、鳥居家は何度か訪れた大名としての存続の危機を逃れていたのです。
伏見城で討ち死にした時の元忠は、下総国矢作城4万石の領主でした。家督は元忠の子・鳥居忠政が継ぎ、関ケ原の合戦後に磐城平藩10万石の藩主となります。この加増も元忠の働きに対する論功行賞でした。
さらに忠政は、元和8年(1622)の最上氏改易により、出羽山形藩22万石に加増転封されます。最上領のうち、出羽庄内藩には酒井忠次の孫の忠勝が入っており、鳥居、酒井の両家が東北の諸大名を監視する役割を担うのです。
忠政の子の鳥居忠恒は、嫡子がいないまま亡くなり、末期養子も認められなかったために鳥居家は改易となってしまいます。ここで元忠の功績がモノを言い、弟の忠春が信濃高遠藩3万2千石の大名に取り立てられました。
ところが鳥居忠春は暴君と言われ、挙句の果てには侍医に切り付けられるという失態を演じてしまいます。忠春の死去後は子の忠則が継ぎますが、忠則も家中の不始末によって閉門となり、急死してしまったのです。
他藩であれば、ここでお家取り潰しになるところでしょうが、やはり元忠の功績がモノを言います。忠則の子・鳥居忠英は能登下村1万石を与えられ、大名家としての家名を辛うじて守ることができたわけです。
その後、忠英は水口藩を経て、下野壬生藩3万石へと移封されます。壬生に入った忠英は、殖産興業として干瓢(かんぴょう)を普及させ、藩校「学習館」を開校するなど、藩政に尽力し、名君とうたわれたそうです。
忠英以降、壬生藩は鳥居家が代々継ぎ、明治維新まで続いていきます。再三のお家取り潰しの危機を救った鳥居元忠の偉大なる功績=伏見城の戦いが今の世に語り継がれてきたのも分かるような気がしますね。
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