大河ドラマ「どうする家康」は、先週7日と今週14日の2回にわたって三方ヶ原合戦をめぐるドラマが放送されました。
前回のブログ「圧倒的に強そうな武田信玄とその軍団」のなかで、討ち死にしたのは家康ではなく、身代わりとなった家臣だと書き、それは夏目広次ではないかと予想しました。見事、的中したことになります(笑)
ただし、夏目広次がなぜ、家康の身代わりを買って出たのかというエピソードについては、私の想像をはるかに超えており、丹念に描かれたドラマを見て、古沢良太さんの脚本はスゴイと感動させられました。
夏目広次は、一般的には「吉信」の名前の方が知られています。浜松市にある犀ヶ崖古戦場近くの碑にも「夏目次郎左衛門吉信」と記されていますが、一次史料の中では「広次」と書かれているのです。
ドラマでは、夏目吉信と名乗っていた頃、幼い竹千代(家康)の守役だったことが明らかにされ、家康の父・広忠から改名するよう命じられ、広次になったとしています。おそらく、広忠から一字を頂戴したということなのでしょう。
桶狭間の合戦後に岡崎城に戻った家康は、家臣たちと再会した際、夏目広次のことを不思議そうに見ていました。彼が「広次」と名乗ったため、自分が幼い時かわいがってくれた「吉信」だとは思い出せなかったのでしょう。
広次には、三河一向一揆の時に自分が一揆側に付いたのにもかかわらず、家康は不問にしてくれたという大恩がありました。それゆえに、家康の身代わりになって死ねることは本望だったのかもしれません。
夏目広次が家康の甲冑を身にまとうシーン・・・私は、もう一つの重要な伏線が張られているのではないかと思っています。
それは、あのシーンに鳥居元忠が居合わせていたということです。
ネタバレっぽくなるかもしれませんが、鳥居元忠は石田三成らによる伏見城攻めで壮絶な討ち死にをしています。この時、元忠は上杉討伐に向かう家康に多くの軍勢を持たせるため、少数の留守居だけで伏見城を守っていたのです。
徳川家のために命を張る究極の自己犠牲の精神・・・これは、まさに三方ヶ原合戦で夏目広次が見せた姿と重なります。そのシーンがドラマで描かれるかどうか分かりませんが、密かに楽しみに待ちたいと思っています(笑)
★丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジン「戦国ヒストリー」にて、ユーザー投稿で執筆中。よかったらご覧ください。