歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~「戦国ヒストリー」掲載コラムをご紹介:千葉佐那は坂本龍馬の許嫁だったのか?

戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史愛好家ら多士済々の執筆者にまじって、歴史ファンの一人として、ユーザー投稿の形で執筆しているところです。

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今回の掲載コラムご紹介は千葉佐那坂本龍馬の許嫁だったのか?」です。

坂本龍馬の妻というと、京都で知り合ったお龍さんが頭に浮かびます。婚姻届などなかった時代ですが、龍馬とお龍さんが夫婦であったことは確かなようです。

ところが、若いころの龍馬には許嫁がいたという話が残っているのです。もちろん、お龍さんと出会うよりも前のことでした。

その人の名は千葉佐那。龍馬が剣術修行をしていた桶町千葉道場の娘で、文武両道にすぐれた女性だったと言われています。

千葉佐那とはどんな女性だったのか。そして、龍馬の許嫁だったというのは本当なのか。そのあたりを紐解きながらコラムにまとめました。

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」関東移封と家臣の所領について

大河ドラマ「どうする家康」は、北条氏討伐の小田原合戦から徳川家康の関東移封という展開にさしかかってきました。父祖の地から離されることになりつつも、家康が力を蓄えるためのきっかけとなった出来事と言えるでしょう。

家康の移封を受け、当然ですが家臣たちも関東に移ることになったわけですが、主だった家臣には、どのような待遇が与えられたのでしょうか。今回のコラムでは、家臣たちの所領についてまとめてみました。

江戸城

まずは徳川四天王からです。

筆頭である酒井忠次ですが、この頃にはすでに隠居して息子の家次に家督を譲っていました。当時の家次はまだまだ若輩で、四天王の他の3人とは実績も段違いだったこともあり、下総国臼井3万7千石にとどまっています。

一説には、築山殿事件の際に忠次が織田信長にちゃんとした申し開きをせず、結果として築山殿と信康を失ってしまったことに対し、家康が意趣返しをしたと言われています。まあ、これはあまりにも信憑性の薄い話でしょうね。

次は三河譜代の家柄でもある本多忠勝です。忠勝は武勇に優れた三河武士の代表格であり、家康の元で三河一向一揆鎮圧、姉川の戦い、三方ヶ原合戦、小牧長久手の戦いなど、さまざまな戦いに出陣して武功を上げてきました。

忠勝は、上総国夷隅郡大多喜10万石を与えられました。これは後で紹介する井伊直政に次ぎ、榊原康政と並ぶ高禄です。関ケ原の合戦後は桑名藩10万石に移され、大多喜は息子の本多忠朝が5万石で引き継ぐことになります。

本多忠勝と同じ年にあたる榊原康政は、もともとが陪臣の出身という身分であり、家康には小姓として仕えながら才能を発揮し、小牧長久手の戦いでは秀吉の悪口を吹聴するという計略家の一面も見せていました。

康政は、上野国館林10万石を与えられます。これはライバルでもある忠勝と同じ待遇でした。関ケ原の合戦の時には、秀忠に従軍していたため合戦には加われませんでしたが、戦後も館林を引き続き統治しています。

最後に井伊直政です。直政は他の3人とは違って、もともとは遠江の小領主の家の出身で、少なくとも鎌倉時代には御家人だったという由緒正しい家柄です。すなわち血統的には別格とも言える存在だったのです。

直政は家康に寵愛されていたこともあり、家臣の中では最大の上野国箕輪12万石を与えられます。関ケ原の合戦では、娘婿の松平忠吉とともに先陣を切る活躍をし、戦後は西国への抑えとして彦根18万石の藩主となりました。

 

四天王以外も何人か見ていきましょう。

本多正信は、相模国玉縄1万石を与えられました。後の江戸幕府での絶大な権勢を考えると、あまりにも低い処遇と思われがちですが、そもそも三河一向一揆で家康に反旗をひるがえし、帰り新参として家臣に加わったのですから仕方ないでしょう。

大久保忠世は、北条家が明け渡した小田原城に入り、小田原4万5千石の領主となりました。小田原合戦の4年後に忠世は死去しますが、領地は子の忠隣が引き継ぎました。ただ、忠隣は大久保長安事件に連座して改易となってしまうのです。

鳥居元忠は、家康が今川家の人質時代から付き従ってきた家臣で、与えられた所領は下総国矢作4万石でした。元忠は、家康が上杉討伐に出向く際の伏見城代を務め、西軍の猛攻撃を寡兵で耐えながら、壮絶な討ち死にを果たすのです。

平岩親吉も、人質時代からの小姓という古い家臣で、小田原合戦後は厩橋3万3千石が与えられました。江戸幕府が誕生すると、家康の子である徳川義直尾張藩主)の家臣となり、犬山12万3千石を任されましたが、嫡子がなく断絶してしまいます。

 

豊臣秀吉の天下統一により、戦いのない世の中が訪れたのもつかの間、朝鮮出兵という無謀な戦いが始まってしまいます。どうする家康!

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」後北条氏は滅亡しなかった

大河ドラマ「どうする家康」は、2週間ぶりに放送されました。ラグビーW杯中継のためでしたが、昔ならドル箱番組大河ドラマを休止するなど考えられません。時代の流れと言いますか・・・まあ、余談はこれくらいにしておきます(苦笑)

さて17日放送では、徳川家康がついに豊臣秀吉に臣従するという歴史の転換点が描かれました。一方、家康とは異なり、最後まで秀吉に抵抗し続けたのが後北条氏。とくに事実上のトップだった北条氏政でした。

歴史の教科書では、秀吉による小田原征伐が天下統一の仕上げの戦いとなり、後北条氏は降伏して滅亡したことになっています。ただ、いろいろ調べてみると、後北条氏は完全に消滅したわけではありません。

そもそも、小田原籠城戦(小田原征伐)までの北条氏は決して一枚岩というわけではなかったのです。それは籠城か打って出るかでもめた「小田原評定」以前に、そもそも徹底抗戦か和睦(臣従)の道かで意見が分かれていたのです。

この時当主だったのは北条氏直で、彼は徳川家康の娘を正室に迎えていたため、家康を通じて秀吉との仲介を模索していました。氏直と同じ考えだったのが、おじの氏規で、上洛して豊臣方との交渉にもあたっています。

ただ、後北条氏の最高権力者だった氏政が徹底抗戦を主張し、おじの氏照(氏規にとっては兄)など主戦派も多く、氏直や氏規も従うしかありません。秀吉も最終的には「北条氏は討伐するしかない」と腹をくくったと思われます。

小田原城開城後、氏政と氏照は切腹を命じられましたが、氏直や氏規は高野山への追放処分とされたのです。氏直は家康の娘婿だからでしょうが、氏規は主戦派でなかったことが罪一等を減ぜられた理由だったと思われます。

やがて秀吉は、氏直と氏規を許し、それぞれ小領地の領主として復帰することを認めます。氏直は間もなく死去しましたが、氏直の領地は氏規の子である氏盛が継ぎ、慶長5年(1600)の氏規死去後、氏盛には氏規の領地も与えられました。

こうして北条氏盛は、河内狭山藩1万1千石の初代藩主となったわけです。河内狭山藩は江戸時代を通して北条氏が統治し続け、明治維新まで命脈を保っていきます。個人的には、氏政というより、氏康の系譜がつながっていったと見たいですね。

 

さて、今回のドラマ後半では真田昌幸と信幸が登場しました。同じ大河ドラマの「真田丸」と比較してしまいがちですが、信繁(幸村)を含む真田親子が今後、どんな風に描かれるのか? いずれ感想を書きたいと思っています。

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」信州・松本にゆかりの深い石川数正、康長親子

大河ドラマ「どうする家康」で、長い間メインキャストだった松重豊さん演じる石川数正徳川家康の元を去り、家臣団の結束が固い「徳川ファミリー」が新たな段階に入っていくことを印象付けましたね。

さて石川数正ですが、一族郎党率いて徳川家から出奔し、豊臣秀吉の家臣に加えられました。小田原の北条氏を討伐し、家康を関東に移封させたあと、信濃の拠点の一つである松本10万石を任されることになったわけです。

数正は、秀吉が全国統一を果たした数年後に死去したとされ、松本は子の石川康が継ぎました。秀吉の死後は、家康に従って上杉征伐に加わり、秀忠の軍勢の一員として上田の真田攻めにも参加しています。

家康が征夷大将軍となって徳川幕府を開設したことをもって「藩」というのであれば、松本藩の初代は康長ということになりますが、「松本を統治した」との観点から言うと、実質的な初代藩主は数正になるでしょう。

 

現在の松本城は、数正と康長親子の代に作られたものです。

数正が手がけた松本城は、当然ですが戦国時代の「戦いを意識した」天守だったわけです。秀吉が天下統一を果たしたといっても、戦いへの備えは必要だったのです。

臣従していたとはいえ、家康が秀吉にとって最大の脅威であることに変わりありません。そのため、家康の旧領を誰に支配させるかは重要だったわけです。

東海道にはずらりと豊家恩顧の大名を配置していますが、甲州街道も同様でした。甲斐には浅野長政・幸長を置いていますが、その延長線上にあるのが松本です。

秀吉が数正の力量を認めていたことは確かですが、同時に「家康をけん制し、いざという時は戦わせる」という意思表示でもあったのでしょう。

 

家康は、石川康長を松本藩主として本領安堵しましたが、慶長18年(1613)の大久保長安事件に連座して改易処分にしてしまったのです。

その理由には様々な説があるようですが、一つに「裏切った者は許さない」という家康の性格もあったかもしれません。それだけ数正の出奔は痛手だったと言えます。

ちなみに、康長と同時に改易された弟の康勝は、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方として徳川方と戦い、夏の陣の乱戦のさなかに戦死したといいます。

その後、石川家が歴史の表舞台に登場することはありません。ただ、数正・康長が築城した当時のままの松本城が現存していることが、唯一の救いとも言えるでしょうね。

 

いよいよ次回は、家康が上洛して秀吉に臣従を誓うという場面になります・・・が、来週の放送は休止? あれれ・・・

 

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歴史・人物伝~「戦国ヒストリー」掲載コラムをご紹介:足利直義はなぜ、兄の尊氏を超えられなかったのか?

戦国ヒストリーという日本の歴史に関するサイトへの投稿を続けています。専門家、歴史愛好家ら多士済々の執筆者にまじって、歴史ファンの一人として、ユーザー投稿の形で執筆しているところです。

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今回の掲載コラムご紹介は足利直義はなぜ、兄の尊氏を超えられなかったのか?」です。

室町幕府の初代将軍となった足利尊氏には、1歳違いの同母弟の足利直義がいました。尊氏の方は歴史の教科書に必ず出てくる有名人ですが、直義の存在はあまり知られていません。

ある時期まで、この兄弟は見事なコンビだったと言えます。源氏の血脈を継ぐ名門の総領としてカリスマ的な存在だった尊氏ですが、実務の部分は直義に任せていました、それほど信頼できる弟だったのです。

そのままサポート役に徹していれば、名バイプレーヤーとなったでしょう。しかし、歴史は直義に「兄との対立」という道を進ませてしまいます。足利兄弟の敵対は、南北朝争乱に拍車をかけてしまったわけです。

1991年の大河ドラマ太平記」では、尊氏を真田広之さん、直義は高嶋政伸さんが演じました。準主役クラスとして直義が描かれたことで、ドラマを見た私は直義という人物に興味を持つきっかけになりました。

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」しぶとく戦国の世で生き残った織田信雄

13日と20日の大河ドラマ「どうする家康」は、徳川家康羽柴秀吉と生涯唯一、直接対決した「小牧・長久手の戦い」が放送されました。この戦いのキーマンとなった人物は、織田信長の子・織田信雄でしたね。

ドラマでは頼りなさげで、思慮に欠く人物像に描かれていますが、さまざまな歴史書を見ても、織田信雄の評価は高くありません。信長という偉大な父親と比較されるせいもあって、信雄は「凡将」の代表格のように書かれています。

 

今回は織田信雄という武将について考察してみましょう。

ブログ「歴史・人物伝」では以前にも織田信雄についてコラムを書いています。

rekishi-jinbutu.hatenablog.com

そのコラムでも略歴に触れていますが、本能寺の変で討たれた信長の後継者・信忠とは同母兄弟となり、信忠の子で新たな後継者となった三法師とはおじ、おいの関係になるわけです。当然、後見役にはうってつけの血筋となります。

そこに横ヤリを入れてきたのが羽柴秀吉でした。柴田勝家を倒して織田家家臣のトップに躍り出た秀吉は歴戦の雄であり、信雄が太刀打ちできる相手ではありません。家康と組まなければ、とても対抗できなかったわけです。

家康に無断で秀吉と講和した信雄は、尾張などを領有する大名となります。天正18年(1590)の北条氏討伐後の領地替えで、家康が旧北条領の関東に転封され、家康の領国だった駿河など5か国に移るよう命じられました。

ところが信雄は、父祖代々の地である尾張の領有を主張したため、秀吉の激怒に遭い、改易処分が下されてしまいます。ここが家康との大きな違いで、自らの失策によって大名としての織田家を潰してしまったのです。

ただ、ここから信雄の「しぶとさ」が発揮されていきます。

信雄は、織田家すなわち信長の血脈が生き残っていくために、秀吉や家康に臣従していく道を選びます。改易後に流罪となり、出家した信雄でしたが、家康に取り入り、そのつてで秀吉の許しを請い、小さいながらも大名に復帰できたのです。

ところが慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で、信雄は西軍についたため、戦後処理で再度改易となってしまいます。そのまま没落するかと思いきや、信雄は豊臣秀頼のもとに出仕し、大坂方を支えていくことになります。

徳川家と豊臣家の関係が悪化し、大坂冬の陣・夏の陣が勃発します。ここで信雄は豊臣家に殉じる道ではなく、城を出て家康に寝返るという行動に出たのです。このあたりにも信雄の「しぶとさ」がうかがえます。

戦後の論功行賞により、信雄は三度小大名として復活しました。その領地は四男の信良、五男の高長によって引き継がれていきます。信良の系譜は天童藩山形県)、高長の系譜は丹波柏原藩兵庫県)として明治維新を迎えられたのです。

信雄は、天下人ばかりか、大大名となることすらできませんでした。それが「凡将」と言われてしまう由縁かもしれません。ですが、信長の血脈をしっかりと残したというのは、信雄の唯一無二の功績だったのではないでしょうか。

 

次回の「どうする家康」では、織田信雄が見事に「やらかし」てくれます(苦笑)

浜野謙太さんの凡将演技が楽しみですね。

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」羽柴秀長のような歴史に名を残す弟たち

6日放送の大河ドラマ「どうする家康」は、羽柴秀吉が天下取りを狙って動き出すドラマが描かれました。その秀吉には、羽柴秀長という3歳年下の弟がおり、秀長なくして秀吉の天下取りはあり得なかったとまで言われた人物でした。

ところで、歴史を振り返ってみると、羽柴秀長のような優秀な弟に助けられたという歴史上の偉人が意外と多いことがわかります。今回のコラムでは、そんな「弟」たちの何人かをクローズアップしてみたいと思います。

羽柴秀長(秀吉の弟)

学生時代に歴史を学んでいても、羽柴秀長が教科書に登場することはほぼありませんでした。秀吉のきょうだいといえば、人質同然に徳川家康正室として送り込まれた妹の旭姫の方が有名なくらいです。

秀長は実直な人柄だったといい、実務能力にもたけており、戦いの場だけでなく、秀吉の領国経営でも力を発揮しています。また、秀吉に直言できる立場にありながら、自ら権力を誇示することなく、徹底して補佐役に終始した生涯でした。

武田信繁(信玄の弟)

戦国時代は親でも兄弟でも、血肉を分けるような争いが頻発していました。そのなかにあって、武田信玄の弟の信繁は、羽柴秀長同様に兄の補佐役として、戦国武田家を支え続けてきた武将として知られています。

信玄と反目していた父の信虎によって、信繁は後継者に据えられようとしました。ふつうならお家騒動のタネになるところですが、信繁は己の分をしっかりわきまえて信玄に仕え、信玄も弟に絶対的な信頼を持っていたようです。

島津義弘(義久の弟)

戦国島津氏の場合、義弘だけでなく、その弟の歳久、家久を含む3人が、当主の義久を支えていました。その絆の深さは他の戦国武将には見られず、ゆえに島津氏が九州の覇者として台頭することができたのです。

義弘は猛将の名で知られ、数々の戦いの場で武功を挙げてきました。義弘らの武勇があるからこそ、義久は領国経営や家臣団の統制などに集中できたといえます。島津家は義弘の子(忠恒)が薩摩藩初代藩主となっています。

足利直義(尊氏の弟)

室町幕府初代将軍の足利尊氏には、直義という弟がいました。カリスマ的な存在で、戦いの先頭に立つような武者だった尊氏とは対照的に、実務能力にたけ、幕府を実質的に経営していたのは直義だったと言われています。

鎌倉幕府の倒幕や後醍醐天皇への対抗といった、共通の目的があった頃は強力なコンビになったのですが、足利氏が権力の頂点に立つと、権力争いが勃発してしまい、尊氏と直義は敵同士として戦うことになるのです。

源義経(頼朝の弟)

兄弟そろって超有名人といえば、源頼朝源義経に代表されるでしょう。頼朝は鎌倉幕府の初代将軍として武家政権を樹立した人物ですし、義経は頼朝の命に従って数々の合戦で伝説的な武功を挙げた武将です。

頼朝にとっては、これほど頼もしい弟はいない半面、討つべき敵(平家)がいなくなった時、自分にとって最も脅威になる存在だと分かったのでしょう。それが、義経討伐という悲劇につながっていってしまったのです。

 

ドラマはいよいよ、秀吉と家康が激突する小牧・長久手の戦いへと入っていきます。圧倒的多数の敵に対し、家康がどんな計略を見せるのか。それを上回る秀吉の軍略はあるのか。楽しみですね。

 

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