歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」後北条氏は滅亡しなかった

大河ドラマ「どうする家康」は、2週間ぶりに放送されました。ラグビーW杯中継のためでしたが、昔ならドル箱番組大河ドラマを休止するなど考えられません。時代の流れと言いますか・・・まあ、余談はこれくらいにしておきます(苦笑)

さて17日放送では、徳川家康がついに豊臣秀吉に臣従するという歴史の転換点が描かれました。一方、家康とは異なり、最後まで秀吉に抵抗し続けたのが後北条氏。とくに事実上のトップだった北条氏政でした。

歴史の教科書では、秀吉による小田原征伐が天下統一の仕上げの戦いとなり、後北条氏は降伏して滅亡したことになっています。ただ、いろいろ調べてみると、後北条氏は完全に消滅したわけではありません。

そもそも、小田原籠城戦(小田原征伐)までの北条氏は決して一枚岩というわけではなかったのです。それは籠城か打って出るかでもめた「小田原評定」以前に、そもそも徹底抗戦か和睦(臣従)の道かで意見が分かれていたのです。

この時当主だったのは北条氏直で、彼は徳川家康の娘を正室に迎えていたため、家康を通じて秀吉との仲介を模索していました。氏直と同じ考えだったのが、おじの氏規で、上洛して豊臣方との交渉にもあたっています。

ただ、後北条氏の最高権力者だった氏政が徹底抗戦を主張し、おじの氏照(氏規にとっては兄)など主戦派も多く、氏直や氏規も従うしかありません。秀吉も最終的には「北条氏は討伐するしかない」と腹をくくったと思われます。

小田原城開城後、氏政と氏照は切腹を命じられましたが、氏直や氏規は高野山への追放処分とされたのです。氏直は家康の娘婿だからでしょうが、氏規は主戦派でなかったことが罪一等を減ぜられた理由だったと思われます。

やがて秀吉は、氏直と氏規を許し、それぞれ小領地の領主として復帰することを認めます。氏直は間もなく死去しましたが、氏直の領地は氏規の子である氏盛が継ぎ、慶長5年(1600)の氏規死去後、氏盛には氏規の領地も与えられました。

こうして北条氏盛は、河内狭山藩1万1千石の初代藩主となったわけです。河内狭山藩は江戸時代を通して北条氏が統治し続け、明治維新まで命脈を保っていきます。個人的には、氏政というより、氏康の系譜がつながっていったと見たいですね。

 

さて、今回のドラマ後半では真田昌幸と信幸が登場しました。同じ大河ドラマの「真田丸」と比較してしまいがちですが、信繁(幸村)を含む真田親子が今後、どんな風に描かれるのか? いずれ感想を書きたいと思っています。

 

★丁寧に歴史を追求した本格派の戦国WEBマガジン「戦国ヒストリー」にて、ユーザー投稿で執筆中。よかったらご覧ください。

sengoku-his.com