歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」信州・松本にゆかりの深い石川数正、康長親子

大河ドラマ「どうする家康」で、長い間メインキャストだった松重豊さん演じる石川数正徳川家康の元を去り、家臣団の結束が固い「徳川ファミリー」が新たな段階に入っていくことを印象付けましたね。

さて石川数正ですが、一族郎党率いて徳川家から出奔し、豊臣秀吉の家臣に加えられました。小田原の北条氏を討伐し、家康を関東に移封させたあと、信濃の拠点の一つである松本10万石を任されることになったわけです。

数正は、秀吉が全国統一を果たした数年後に死去したとされ、松本は子の石川康が継ぎました。秀吉の死後は、家康に従って上杉征伐に加わり、秀忠の軍勢の一員として上田の真田攻めにも参加しています。

家康が征夷大将軍となって徳川幕府を開設したことをもって「藩」というのであれば、松本藩の初代は康長ということになりますが、「松本を統治した」との観点から言うと、実質的な初代藩主は数正になるでしょう。

 

現在の松本城は、数正と康長親子の代に作られたものです。

数正が手がけた松本城は、当然ですが戦国時代の「戦いを意識した」天守だったわけです。秀吉が天下統一を果たしたといっても、戦いへの備えは必要だったのです。

臣従していたとはいえ、家康が秀吉にとって最大の脅威であることに変わりありません。そのため、家康の旧領を誰に支配させるかは重要だったわけです。

東海道にはずらりと豊家恩顧の大名を配置していますが、甲州街道も同様でした。甲斐には浅野長政・幸長を置いていますが、その延長線上にあるのが松本です。

秀吉が数正の力量を認めていたことは確かですが、同時に「家康をけん制し、いざという時は戦わせる」という意思表示でもあったのでしょう。

 

家康は、石川康長を松本藩主として本領安堵しましたが、慶長18年(1613)の大久保長安事件に連座して改易処分にしてしまったのです。

その理由には様々な説があるようですが、一つに「裏切った者は許さない」という家康の性格もあったかもしれません。それだけ数正の出奔は痛手だったと言えます。

ちなみに、康長と同時に改易された弟の康勝は、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣方として徳川方と戦い、夏の陣の乱戦のさなかに戦死したといいます。

その後、石川家が歴史の表舞台に登場することはありません。ただ、数正・康長が築城した当時のままの松本城が現存していることが、唯一の救いとも言えるでしょうね。

 

いよいよ次回は、家康が上洛して秀吉に臣従を誓うという場面になります・・・が、来週の放送は休止? あれれ・・・

 

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