歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~関ケ原編⑤~⑧「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 

note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の⑤~⑧をブログで一括掲載します。

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大軍勢を相手に壮絶に戦った鳥居元忠

「内府ちがひの条々」により、徳川家康に宣戦布告をした石田三成は、西軍の総大将となる毛利輝元大坂城入りしたことを受け、ただちに軍事行動を起こします。東へ向かって軍勢を進めるのです。

行く手に待ち受けるのは、家康の居城となっていた伏見城です。家康が大軍を率いて出陣したのち、この城は鳥居元忠ら少数の徳川家臣団が守っていました。ここに西軍は攻撃を仕掛けたのです。

鳥居元忠は、家康が今川家の人質だった頃から付き従っていた家臣で、上杉討伐の際には「一人でも多く従軍していただきたい」と進言したそうです。伏見城はわずかな兵力で守る覚悟があったと思われます。

元忠ら徳川家臣団は決死の攻城戦を繰り広げましたが、多勢に無勢だったため、10日余で攻め落とされました。落城の知らせは家康の元にも届き、家康は上杉討伐から「新たな戦略」を迫られることになるのです。

関ケ原の合戦のキーマンも

一方、西軍の攻め手の中に、関ケ原の合戦でキーマンになる2人の大名がいました。一人は小早川秀秋、もう一人は島津義弘です。二次史料では、2人とも当初は東軍に味方するつもりだったとされています。

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家康を後押しした小山評定での発言

上杉討伐のため、大軍勢を率いて東に向かった徳川家康でしたが、その留守を狙って石田三成ら(西軍)が軍事行動を起こしました。家康の家臣・鳥居元忠らが守る伏見城を陥落させたのです。

江戸から北へ向かおうとした徳川家康は、従軍する豊臣家恩顧の大名を集め、今後の方針を決める軍議を開きました。これが「小山評定」です。どんな話し合いが持たれたのでしょうか?

家康の決意に福島正則が・・・

この時、従軍していた主な武将は、福島正則黒田長政細川忠興藤堂高虎池田輝政浅野長政山内一豊らでした。加藤清正は領地の九州に戻っており、従軍していません。

家康は、石田三成宇喜多秀家らが決起し、伏見城を攻略したのち、東へ向かっていると説明。「家族を人質にされている武将もいるだろうから、西軍に味方しても遺恨は残さない」と言い、決断を迫ります。

これに対し、豊臣家を最も大事にしていると自負する福島正則は「この軍事行動は秀頼公のご意向とは関係なく、三成らが勝手にやったこと。家康殿に味方し、三成らを討つ」と宣言したのです。

黒田長政藤堂高虎のように、はじめから家康方に付いていた武将もいましたが、多くの武将は秀頼がいる大坂に向かって出兵することにためらいがあったので、正則の言葉は「強力な大義名分」となりました。

家康を喜ばせた山内一豊

小山評定では、もう一人重要な役割を果たした人物がいます。当時、東海道掛川に領地があった山内一豊です。一豊は「掛川城を家康殿にお預けいたします」と宣言したのでした。

東海道沿いは、家康など関東以北の諸大名対策のため、秀吉が豊臣家恩顧の大名を配置していました。一豊もその一人でしたが、この一言により徳川家に仕える意志を明確にしたのです。

東海道沿いの大名たちも次々と「城明け渡し」を宣言し、家康は西への安全なルートを確保できました。一豊は、この時の功績も加味され、関ケ原の合戦後には土佐一国の大大名に栄転しました。

ちなみに、一豊の妻・千代は聡明かつ先見の明がある女性として知られており、石田三成から味方になるよう求められた密書を「封を切らずに家康様にお渡ししてほしい」と、一豊の陣に届けさせたと言われています。

 

上杉討伐を中断し、石田三成ら西軍との戦いを決断した家康ですが、後顧の憂いは断たねばなりません。次回は、上杉包囲網について書きます

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結城秀康らによる上杉包囲網

石田三成ら西軍が伏見城を攻略し、東へ向かっていると聞いた徳川家康は、小山評定で西軍と対決する決断を下します。しかし、進軍の目的だった上杉景勝への対処も忘れてはいませんでした。

上杉討伐は、会津上杉家と隣接する越後(新潟)の堀秀治や山形の最上義光が、家康に訴え出たことに端を発します。とくに越後は上杉家の元領地であり、会津転封の際に堀家とトラブルがあったようです。

家康は、堀や最上は当然ですが、仙台の伊達政宗常陸(茨城)の佐竹義信にも国境への出陣を命じていました。会津を四方から包囲し、上杉景勝に圧力をかけた上で、本隊が進軍する予定でした。

家康は、軍勢の西への反転を知り、上杉軍が背後を突く可能性があるとみて、上杉討伐の前線基地となる宇都宮に次男の結城秀康を残しました。上杉はもちろん、伊達、最上、佐竹へのけん制の意味合いもあったでしょう。

秀康は、豊臣秀吉と家康が和議を結んだ際に秀吉の養子という形で人質に出され、その後関東の名門・結城家の婿養子になりました。家康は、後継者に秀忠を考えていましたが、秀康の武勇も評価していたと思われます。

上杉包囲網で封じ込めに成功した家康は、自身が東海道を進軍し、秀忠には主力部隊を率いて中山道を進軍するよう命じます。しかし、秀忠の進軍はスムーズにはいかなかったのです。

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合戦に間に合わなかった徳川秀忠

石田三成ら西軍と対決するため、西へと反転した徳川家康ら東軍。豊臣恩顧の大名を先行させ、家康自身は東海道を進み、後継者の徳川秀忠中山道を進むよう命じます。

秀忠には、徳川家のブレーンである本多正信重臣の大久保忠隣、榊原康政をはじめ、そうそうたる徳川家臣団が付けられました。しかし、進軍先で待ち構えていたのは、あの真田昌幸だったのです。

東軍と西軍に分かれた真田家

真田昌幸は、上田(長野県)を拠点とする小さな大名でしたが、策略と戦上手で戦国時代を生き抜いてきました。昌幸には嫡男の信之(当時は信幸)と次男の信繁(のちの幸村)がいました。

真田親子も家康に従軍していましたが、石田三成から密書が届き、東西どちらに付くべきかを相談しました。信之は東軍、信繁は西軍と意見が分かれましたが、これには理由があります。

信之の妻は家康の重臣本多忠勝の娘で、彼女は「家康の養女」として嫁いできました。一方、信繁の妻は三成と同盟を組んだ大谷吉継の娘で、信繁自身も大坂に出仕しており、三成と懇意だった可能性があります。

昌幸の選択は、信繁と同じく西軍に付くことでした。ただし、信之はそのまま徳川軍に従軍させ、東西どちらが勝っても、真田家の家名を残そうと考えたのです。後に「犬伏の別れ」と言われた決断です。

上田城攻めのロスで関ケ原に間に合わず!

徳川軍の一員となっていた信之は、上田城にこもる昌幸と信繁に対し、降伏を促す使者に立ちました。昌幸は降伏に従うようなそぶりを見せながら返事をうやむやにし、徳川軍を迎え撃つための時間を稼いだのです。

秀忠は「大軍で攻め寄せれば、小大名の真田など問題ではない」と、力攻めを命じます。ところが、百戦錬磨の昌幸の軍略にはまって上田城を攻め落とすことができず、味方の損害も大きくなってしまいました。

そこに、家康から「西上を急げ」との命令が届き、秀忠は上田城攻めを断念して西へ向かうことになります。徳川軍を撃退した昌幸、ひいては真田の名が全国にとどろいたのです。

一方で、時間をロスした形になった秀忠は、関ケ原の合戦に間に合いませんでした。このことが、後に「秀忠は武将としては凡人だった」などと言われる原因になってしまいます。

秀忠の軍勢は温存させた?

上田城攻めについて、歴史小説やドラマでは秀忠の判断ミスとして描かれがちですが、私は違った見方をしています。

家康が、徳川軍を自分と秀忠の二つに分けた最大の理由は、織田信長の二の舞を避けたかったのだと思います。本能寺の変で信長が討たれ、その直後に嫡男の信忠も攻め滅ぼされてしまったからです。

関ケ原の合戦は、結果として東軍の圧勝に終わりましたが、戦前には誰も予想ができませんでした。家康が、劣勢や長期戦も視野に入れた戦略を立てていたとしても不思議ではありません。

関ケ原の合戦で仮に東軍が敗れても、秀忠の軍勢が温存されているため、立て直しを図ることが可能でした。万が一、家康が討ち死にしても、嫡男の秀忠が徳川家臣団を率いればよいだけのことです。

それでも家康は、「関ケ原の合戦で雌雄を決する」との意思を強く持っていたでしょう。合戦のその時が徐々に近づいてきます。

関ケ原の合戦 前段の項おわり)

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歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭はこちら

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歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳はこちら

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歴史・人物伝~関ケ原編①~④「関ケ原の戦い、勝者と敗者の人物群像」

全国の諸大名・武将を巻き込んだ戦国最大の騒乱「関ケ原の合戦」。徳川家康が勝利し、石田三成や毛利一族らの西軍が惨敗したのは、なぜだったのでしょうか? 
note版「思い入れ歴史・人物伝」~関ケ原の①~④をブログで一括掲載します。

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関ケ原の合戦とは、どんな戦いだったのか?

日本史上最大級の内戦であり、戦国時代を代表する「関ケ原の合戦」は、単に勝ち負けだけではなく、その後の日本の歴史を作り上げていく大きな節目となった戦いです。

「歴史・人物伝~関ケ原編」では、徳川家康をはじめ、関ケ原の合戦にかかわった大名・武将たちを取り上げ、合戦に加わった背景や思いなどを私なりに書いてみたいと考えます。まずは、関ケ原の合戦を改めて解説いたします。

豊臣政権の要となった徳川家康

1598年に天下人・豊臣秀吉が死去します。後継者の秀頼は幼少だったため、5人の有力大名が「五大老」として政治を行い、秀吉側近の5人が「五奉行」として支えるという仕組みになっていました。

しかし、豊臣家ゆかりの加藤清正ら武闘派が、五奉行石田三成らと深く対立し、武力衝突が起きかねない状況にありました。「五大老」で最大の実力者だった徳川家康は、その対立を自身の勢力拡大に利用したのです。

また家康は、「五大老」として同格だった前田家を「謀反の動きあり」として屈服させる一方、伊達政宗福島正則らの有力大名とは婚姻関係を通して絆を作り、「敵味方の色分け」を進めていきました。

その一つが、「五大老」の上杉景勝会津藩)の討伐でした。家康は、景勝にも「謀反の動きあり」と決めつけ、豊臣家の名のもとに自身の家臣団や有力大名ら大軍を率いて東へと向かったのです。

関ケ原の合戦」はどんな戦いだったのか?

関ケ原の合戦が起きた慶長5年9月15日を時系列で追ってみましょう。なお「関ケ原編」では、徳川家康率いる軍勢を東軍、石田三成宇喜多秀家らの連合軍を西軍と称します。

前夜に行動を起こし、未明から関ケ原に布陣を開始した西軍に対し、明け方には東軍が関ケ原に出陣します。両軍にらみ合いの中で、東軍の松平忠吉井伊直政が先陣を切って戦いが始まったのです。

両軍合わせて20万近くの大軍勢で、東西ほぼ互角だったとされます。東軍は、徳川家康とその家臣団に加え、福島正則黒田長政藤堂高虎細川忠興ら豊臣家にゆかりの深い大名が付き従い、一枚岩で戦います。

一方の西軍は連合軍だけに、結束には不安がありました。毛利軍を束ねる吉川広家は合戦が始まっても動かず、終始傍観者に徹したままでした。また、島津義弘も積極的に合戦に加わろうとしなかったのです。

勝敗のキーマンになったのが、西軍の小早川秀秋でした。合戦が始まって数時間後、小早川軍は東軍に寝返って西軍の大谷吉継軍を攻撃しました。これにより、西軍は壊滅状態に陥るのです。

次回は、徳川家康による上杉討伐軍出陣の頃に話を戻し、関ケ原の合戦に至るまでの人物群像を描いていきます。

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上杉討伐に出陣した徳川家康の真意

関ケ原の合戦で一番の主役といえば徳川家康でしょう。合戦時の家康の年齢は58歳。経歴を振り返ってみるとともに、合戦に至るきっかけとなった上杉討伐について考えてみます。

徳川家康が歩んできた道のり

家康は、三河(愛知県)の大名家に生まれましたが、幼い時に織田家、さらに今川家に人質に出され、今川義元のもとで元服(成人)を迎えました。1560年の桶狭間の合戦で義元が討ち死にしたことで、今川家の傘下を脱し、独立した大名となれました。

織田信長と同盟を結び、信長の天下統一の戦いに従軍する一方で、東の武田信玄や勝頼と長年敵対関係にありました。1582年は家康にとって激動の年となります。宿敵の武田家が滅び、信長も本能寺の変で倒れ、信長の後継者として豊臣秀吉が一気に台頭してきたのです。

最初は秀吉と敵対していましたが、秀吉が関白に就任したこともあり、臣従を余儀なくされます。小田原の合戦での北条氏の滅亡後、家康は関東に領地を移されました。江戸(東京)を中心とした領土経営をしながら、豊臣政権の「五大老」筆頭として実力を蓄えていったのです。

なぜ、上杉討伐軍を起こしたのか?

豊臣秀吉が死に、勢力拡大の意図を露わにした徳川家康は、当時ナンバー2だった前田家(前田利長)を屈服させ、さらに会津の大大名・上杉景勝に「謀反の動きあり」として討伐軍を起こすのです。

当時の家康は大坂城西の丸におり、幼い豊臣秀頼に代わって政治を担っていました。家康自らが上杉討伐に出陣すれば、豊臣政権の中核が抜けてしまいます。それでも、家康は出陣に踏み切ったのです。

家康が、あえて大坂を留守にしたのは「石田三成や西国大名が決起する機会を与えるため」と言われています。確かに、増田長盛ら三奉行が毛利輝元を動かす結果となりましたが、家康の真意はどうだったのでしょう?

私が思うには、家康は一気に天下取りへの勝負をかけるのではなく、「まず東国を自分の勢力で固めたい」と考え、最も脅威となる上杉景勝を屈服させるため、討伐軍を起こしたのではないでしょうか。

もしかすると、輝元の大坂城入りは家康の想定外だったかもしれません。
毛利を動かした三奉行(増田、長束正家前田玄以)と石田三成について、次回書きます。

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家康を弾劾した3人の奉行と石田三成

豊臣秀吉の死後、有力大名の「五大老」を支え、実務を担う「五奉行」が置かれました。その代表的な人物が石田三成です。三成失脚後は、増田長盛長束正家前田玄以が奉行の職を担っていました。

徳川家康が、上杉討伐のために大軍を率いて出陣後、3人の奉行は留守を狙って家康の勢力を削ぐための策略を講じます。石田三成を密かに復権させた上で、家康に次ぐ実力者・毛利輝元を担ぎ出すのです。

「内府ちかひの条々」とは

増田ら奉行は、家康の度重なる専横に我慢がならなかったのでしょう。連名で「内府ちかい(違い)の条々」という弾劾状を書き、江戸に戻っていた家康らに送り付けたのです。むろん、三成も一枚かんでいたと思います。

ここには、上杉討伐への非難をはじめ、大坂城西の丸を占拠したこと、他の大名と勝手に縁組みしたことなど、13条にわたる弾劾文が書かれています。そのうえで「秀頼への絶対的な忠誠」を求めたのです。

家康に対し、奉行が宣戦布告をしたかのような文面に見えますが、増田らは家康と本気で戦うつもりはなかったと思います。「家康の台頭が豊臣家を脅かすのでは」との危機感が背景にあったのでしょう。

一方で、家康が反旗を翻すことも予想し、毛利輝元大坂城入りを促します。家康と奉行たちでは実力差が歴然としており、秀頼を守るためには毛利家の力を頼る以外にはなかったからです。

ところが、輝元の大坂城入りを絶好にチャンスととらえたのが三成でした。輝元を秀頼の名代かつ総大将に据え、反徳川勢力を結集して家康を追討するという「武力による決着」を目指していくのです。

石田三成の人物像について

石田三成とは、どんな人物だったのでしょうか。少年時代から秀吉の家臣となり、側近中の側近として絶大な信頼を得ます。とくに、戦闘時の後方支援や政務で力を発揮し、今で言う「超エリート官僚」でした。

しかし、秀吉の家臣たちの間では人望が薄かったとされます。とくに、加藤清正福島正則ら戦いの第一線で活躍した武将からは、秀吉の威光を振りかざした佞臣(ねいしん)だと毛嫌いされていたようです。

そうした確執が、秀吉の死後に暴発します。清正らが三成を襲撃するという事件が起こるのです。三成は命の危機こそ脱したものの、事件の原因を作ったとして奉行職を解かれ、蟄居謹慎の処分となります。

しかし、このまま隠居するつもりは全くなく、家康が上杉討伐で東へ向かった隙をついて復権を果たすのです。三成は「豊臣家を守るためには家康を倒すしかない」と考えていました。

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天下を狙ってしまった毛利輝元

 

関ケ原の合戦の東軍の総大将は徳川家康です。一方、西軍の総大将というと、石田三成が真っ先に思い浮かびますが、実は毛利輝元だったのです。もっとも、本人にどの程度その意志があったのかは分かりません。

毛利輝元とは、どんな人物だったのでしょうか?

輝元の祖父は毛利元就です。元就は小さな地方領主から、一代で中国地方や九州の一部を領有する大大名に躍進しました。父の隆元が先に亡くなっていたため、元就の後を継いだのが輝元だったのです。

元就の代から「天下を望まない」のが毛利家の家訓でした。織田信長とは敵対していましたが、豊臣秀吉には臣従して領地の安堵を勝ち取り、徳川家康らと並ぶ「五大老」の一員になったのです。

家康が上杉討伐で東へ出陣した留守をつき、増田長盛ら三奉行と復権した石田三成は「家康に対抗できる大名は毛利家しかない」と見込んで、領地の広島にいた輝元に大坂城入りを要請します。

家臣の安国寺恵瓊らが「天下取りの好機」だと進言し、輝元もその気になったのでしょう。「天下を望まない」との家訓を破り、吉川広家ら一族の反対を押し切って大坂城へと向かってしまうのです。

輝元自身は関ケ原の合戦に出陣せず、大坂城に居続けます。豊臣秀頼の後見をしていれば、毛利家は安泰だと思っていたのでしょう。しかし、西軍が大惨敗したことで、輝元も失脚への道をたどってしまうのです。

 

 話を戻します。輝元の大坂城入りにより、家康に対する「武力による決着」の目途が立った石田三成は、ついに軍事行動を起こすのです。最初のターゲットになったのは、家康の京都での居城・伏見城でした。(⑤へ続きます)

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思い入れ歴史・人物伝~関ケ原編⑤~⑧まとめです

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歴史・人物伝~関ケ原編⑨~⑭はこちら

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歴史・人物伝~関ケ原編⑮~⑳はこちら

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戦国武将・福島正則の生涯に思うこと

noteより、歴史・人物伝~雑感編「戦国武将・福島正則の生涯に思うこと」を掲載します。

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私事ですが、新卒から同じ会社でずっと働き続け、そのゴールが近づきつつあります。ある時、ふと一人の戦国武将を思い浮かべました。豊臣秀吉重臣にして、徳川家の世を生きた福島正則です。

一介の農民から大大名にまで出世しながら、晩年は小大名に格下げされてしまった正則。サラリーマンの世界でもありがちな話ですが、晩年の正則はどんな思いで日々過ごしていたのでしょうか?

福島正則とは

正則は、天下人になった秀吉の数少ない近親者として常に支え続け、自身も大出世を果たします。秀吉の死後も豊臣家を守る気持ちが人一倍強かったのですが、それを徳川家康に利用されてしまうのです。

関ケ原の合戦では、徳川軍の一員として大活躍し、石田三成らの軍勢を倒します。豊臣家に害ある三成らを排除したい一心でしたが、結果として家康を天下人に押し上げてしまいました。

正則は、広島の大大名へとさらに大出世します。ですが、徳川家が着々と政権基盤を固め、豊臣家は自分たちと同じ一大名に転落する姿を、おそらく忸怩(じくじ)たる思いで見ていたに違いありません。

ついに大坂夏の陣で豊臣家は滅ぼされます。その4年後、正則自身も「城を無断で修築した」として改易され、信州の小大名に転落してしまいます。その領地でひっそりと晩年をおくったのです。

サラリーマンに例えるなら

正則の生涯をサラリーマンの世界に例えてみます。秀吉に仕えていた頃は「上昇機運の上司を信じて必死になって付いていった部下」、関ケ原の頃は「辣腕の外部役員にうまく利用された中間管理職」でしょうか。

関ケ原後には「栄転」を果たしますが、新社長となった外部役員にとっては疎ましい存在でもあります。やがて、前社長の影響力がなくなったところで「役職を外され、左遷のうえ降格」させられたのです。

こう見てみると、同じような境遇の人はどこにでも居そうです。戦場での正則は勇猛果敢だったそうで、いわば「現場の最前線に強いタイプ」。戦国という乱世だからこそ、存分に力を発揮できたのでしょう。

その一方で、知略や智謀という点では同じ立場だった黒田長政藤堂高虎には劣っていました。彼らは「役職」を外されることなく、子孫へと上手に引き継ぎ、その結果幕末までお家を存続させたのです。

正則の余生に思う

私は、大坂夏の陣以降の正則に思いを巡らせました。徳川家の世になっても、豊臣家の恩顧を忘れず、何とか豊臣家を存続させたいと思っていたのに、結局は滅ぼされてしまいました。

この時、正則は「自分の役目は終わった」と思ったに違いありません。改易は誤算だったかもしれませんが、第一線から身を引こうと考えていたならば「渡りに船」となったのでしょう。

関ケ原の合戦をはじめとした武勇で名を上げ、大大名にまで出世したことを踏まえると、正則の晩年は不遇だと考えがちです。しかし、本当に不遇で寂しいばかりの晩年だったのでしょうか?

私は、「豊臣家存続という重圧から解放され、大大名という地位からも外れ、静かで平穏な余生を過ごした」と考えたいです。跡取りに先立たれる不幸もありましたが、概して平穏だっただろうと思ってやみません。

歴史・人物伝~太平記編番外コラム2本

note版「思い入れ歴史・人物伝~太平記編」の番外コラム2本を掲載いたします。

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参考文献は「マンガ日本の古典 太平記

太平記編を書くにあたっての参考文献「マンガ日本の古典」シリーズの「太平記」についてご紹介します。著者は劇画家のさいとう・たかをさんです。

この本を書店で見つけたのは今年5月下旬ころでした。「大宰相シリーズ」などで馴染み深いさいとうさんの著作だったので、上中下巻をまとめて購入し、一気に読み込みました。

太平記」の舞台である鎌倉末期から南北朝は、敵味方が激しく入り交じる動乱・戦乱の時代でした。室町幕府初代将軍の足利尊氏でさえ、勝ったり負けたりを繰り返しているほどです。

マンガ「太平記」は原作に沿いながらも、さいとうさんが「注釈」を加えながら描いていますので、原作者の思いや時代背景などが分かりやすかったです。もちろん、合戦の描写が素晴らしいのは言うまでもありません。

今回、noteで書いた部分は上巻にあたります。「太平記」はさらに、後醍醐天皇の親政から南北朝の動乱へと話が進んでいくのです。再度、歴史・人物伝で取り上げていければと思っています。

大河ドラマ太平記」のこと

1991年のNHK大河ドラマで、鎌倉末期から南北朝時代を初めて取り上げた「太平記」が放送されました。脚本は、現在放送中の「麒麟がくる」も手掛けている池端俊策さんです。

戦国時代と幕末・維新の時代ばかりを追いかけていた私にとって、太平記の舞台となる時代は未知でした。放送に合わせて様々な本が出版されましたので、それらを読みまくった記憶があります。

この時代は、敵味方や勝敗がはっきりしている戦国や幕末と違い、理解するのに時間がかかりました。それでも、池端さんの分かりやすいシナリオのお陰で、ドラマは毎回楽しく視聴させていただきました。

主役の足利尊氏真田広之さん、後醍醐天皇片岡孝夫さんが演じ、脇を固める俳優もそうそうたるメンバーが揃っていました。その中でも、印象に残った配役の方が何人かいらっしゃいます。

一人は北条高時役の片岡鶴太郎さん。古典文学「太平記」で描かれる暗君そのままに、どこか虚無感が漂い、やがて滅びゆく最高権力者の姿を見事に演じました。鶴太郎さんの新境地を築いた配役かもしれません。

それから、尊氏の弟・足利直義役の高島政伸さん。常に尊氏を支え続け、足利幕府の基礎を作った人物です。最後は兄弟の対立の末、尊氏に殺されますが、「わしを殺してこそ大将軍じゃ」と語る姿には涙しました。

もう一人、尊氏の生涯の盟友だった佐々木道誉役の陣内孝則さんです。源氏の系譜をもつ道誉は、この当時「ばさら大名」と呼ばれており、陣内さんが豪快かつ知略に富んだ人物を演じていました。

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歴史・人物伝~太平記編⑦~⑫「鎌倉幕府倒幕への道」

鎌倉末期から南北朝時代を描いた日本最長の歴史文学「太平記」より、後醍醐天皇が倒幕を決意し、鎌倉幕府が滅亡するまでの出来事に深くかかわった人物を紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~太平記の⑦~⑫をブログで一括掲載します。

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ばさら大名といえば佐々木道誉

番外コラムの中で、大河ドラマ太平記」で印象に残った出演者に佐々木道誉役の陣内孝則さんを挙げました。権謀術数に長けた武将であると共に、道誉は「ばさら大名」としても知られています。

「ばさら」という言葉を調べると、華美な服装を好んだり、勝手気ままな振る舞いをしたりという南北朝独特の美意識だということが分かりました。天皇や公家といった古くからの権威も軽んじていたとされます。

道誉は北条家に仕える武将で、後醍醐天皇の挙兵時には討伐軍として派遣されますが、足利尊氏らと天皇側に寝返って、倒幕に一役買いました。同じ源氏の系統だったので、行動を共にしやすかったのでしょう。

その後、足利尊氏後醍醐天皇から追討を受けると、足利方だった道誉は天皇方の新田義貞軍に加わります。ところが、新田軍の形勢が不利とみるや、再び足利軍に「寝返り」をして新田軍を敗北に追い込むのです。

「寝返り」というと、卑怯者の代名詞のように言われますが、それは江戸時代以降の価値観であり、当時は「勝ち馬に乗る」ことが当たり前でした。その意味でも、道誉は時代の流れをよく見ていたと言えるでしょう。

次回は話を鎌倉幕府倒幕時に戻し、後醍醐天皇の挙兵に呼応した人物を順次紹介していきます。

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武勇に優れたがゆえに悲劇を生んだ護良親王

後醍醐天皇隠岐へ配流となり、倒幕勢力が衰えるかに思われましたが、天皇に代わって「幕府を倒せ」という令旨(命令)を全国の諸侯に出していたのが、天皇の子・護良親王でした。

親王は幼くして僧籍となり、比叡山天台座主の地位にいました。もともと学問よりも武芸に長けていたとされ、元弘の変をきっかけに起きた動乱で、僧籍から還俗して倒幕の旗手となったのです。

幕府からは、倒幕を企んだ天皇の子の中で「最も危険な存在」だとして、たびたび命を狙われます。親王紀伊半島山中を転々としながらも令旨を出し続け、自らも軍を率いて幕府に抵抗しました。

倒幕が達成され、後醍醐天皇の親政になると、功績を認められた護良親王征夷大将軍に任じられます。しかし、足利尊氏らと対立し、天皇への謀反も噂され、ついには捕らわれの身となってしまいました。

あまりにも武勇に優れていたがゆえに、倒幕後も影響力を保持したかったのでしょう。後継者争いの火種を消したい天皇は、天台座主に戻ることを望んでいたと思われ、父子の思いの違いが悲劇を生んだのだと思います。

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計略を駆使して幕府軍を悩ませた楠木正成

今回紹介する河内の武将・楠木正成は、日本史上屈指の軍事の天才と言われ、その計略を多くの戦国武将が参考にしたほどです。また、天皇に忠義を尽し抜いたことから「忠臣の代表的な人物」と言われてきました。

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕の挙兵に呼応した正成は、小さな勢力ながらも英知を結集した奇想天外な戦略で幕府の追討軍を悩ませ、戦いを引き延ばすことで倒幕勢力を勢いづかせました。

天皇笠置山で捕らえられた後も、正成は自身の居城である赤坂城に立てこもります。幕府軍は「たやすく陥落できる」と高を括っていましたが、巧みな籠城戦を行う正成軍に手を焼き、城攻めが長引きました。

正成は一族全滅を装って赤坂城を撤退しますが、その後も神出鬼没なゲリラ戦を展開。単に敵を蹴散らすだけでなく、相手が武勇の誉れ高い武将ならば「戦わずして退却させる」という戦術も使っていました。

千早城を築いて再び籠城戦に挑んだ正成は、様々な計略を用いて、取り囲む幕府の大軍にも一歩も引かずに交戦します。時期を同じくして、後醍醐天皇隠岐からの脱出に成功し、倒幕の機運が一気に高まるのです。

そして、幕府軍を率いる武将の中にも倒幕に加担する者が現れます。その代表的な人物が、足利尊氏新田義重でした。

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天皇方についた足利尊氏

第9回でご紹介した楠木正成は「忠臣」の代表的人物でしたが、「逆臣」の代表的人物とされたのが足利尊氏後醍醐天皇の親政を打ち破り、征夷大将軍として幕府を開いたため、「逆臣」とされたのです。

しかし、後醍醐天皇の倒幕が成功したのは、足利尊氏天皇の味方に付いたからです。尊氏は幕府(北条氏)から大軍を任されて、倒幕勢力の討伐に出陣しましたが、密かに天皇方と連絡を取っていました。

当時、京都には幕府の組織である六波羅探題がありました。尊氏は西国の武将らを引き連れ、六波羅探題を攻め滅ぼします。北条方が一掃されたことを受け、後醍醐天皇はようやく京都に戻れました。

幕府にとって「反逆」といえる行動を、尊氏はどの時点で決断したのでしょうか。鎌倉を出陣する際には「思い」を持っていたと思われますが、実弟の直義など少数の者しか知らなかったと考えられます。

尊氏は、北条高時から「高」の字を授かって「高氏」と名乗り、北条一族の女性を妻に迎えています。北条氏は「尊氏は身内同然」と思っていたに違いありません。だからこそ、尊氏の「反逆」は致命傷になったのです。

そして、幕府の本拠地である鎌倉にも倒幕軍が襲い掛かります。その主役が新田義貞です。

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海に太刀を投げ入れた新田義貞

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕の挙兵に端を発し、護良親王楠木正成らの抵抗、足利尊氏の寝返りにより、京都をはじめ西国は天皇方が制圧しました。そして、東でも挙兵した武将がいます。新田義貞です。

新田家は、源頼朝や足利家と先祖を同じくしながら、鎌倉幕府での地位は高くありませんでした。その分、北条一族とは一線を画しており、天皇の倒幕の意志が伝えられると、本国(群馬県)で挙兵の準備をします。

最初は新田勢のみの小さな勢力でしたが、足利尊氏の幼少の子・千寿王(義詮)を立てながら鎌倉に向かって快進撃を続けます。尊氏が六波羅探題を滅亡させたと聞き、自分は幕府本体を滅ぼすと意気込んでいたのです。

各地で勝利を収めながら進軍する新田軍ですが、鎌倉は三方を険しい切通しに囲まれ、もう一方が相模湾という天然の要害です。鎌倉西側の稲村ケ崎にたどり着いた義貞は、何とか活路を見出そうとします。

太平記によると、稲村ケ崎で義貞は「我らを通したまえ」と天地神明に願い、海に太刀を投げ入れました。すると、見る間に潮が引いて砂浜が現れ、北条の軍船も沖に流されてしまいます。

義貞の大軍勢は一気に鎌倉へなだれ込むことができ、幕府軍と最後の決戦に挑みます。太平記に書かれた義貞の行動が、故事として唱歌「鎌倉」の1番で歌われるようになったのです。

次回は、追いつめられた北条一族と最高権力者・北条高時について書きたいと思います。

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一族もろとも滅亡した北条高時

後醍醐天皇鎌倉幕府打倒の願いは、六波羅探題滅亡によって京都奪還に成功し、幕府本拠地の鎌倉にも新田義貞の大軍勢がなだれ込み、いよいよ最終決着へと突き進んでいました。

北条軍は各所で果敢に戦いを挑みましたが、勢いに勝る新田軍に次々と打ち破られていきます。足利尊氏の妻の兄で、執権だった北条守時も戦死しました。義弟の裏切りをどう思っていたのでしょうか?

大軍勢に追いつめられた北条一族の最高権力者・北条高時は、一族や御内人とともに東勝寺へと追い込まれます。「もはやこれまで」と感じた高時は、自刃することを決断するのです。

高時の自刃に続き、幕府政治の実権を握っていた御内人や一族の女性に至るまで、次々と相果てていきます。まさに「滅亡」という言葉通り、凄惨な光景だったそうです。

太平記では、高時を愚昧な人物と断じています。ですが、一族や家臣がそろって高時に殉じたことを考えると、決して愚昧なだけでなく、カリスマ的あるいはシンボル的な存在だったのではないでしょうか。

この後太平記は、後醍醐天皇による新たな政治を綴っていきます。この項の続きも、いずれ書きたいと考えています。

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歴史・人物伝~太平記編①~⑥「鎌倉幕府倒幕への道」

鎌倉末期から南北朝時代を描いた日本最長の歴史文学「太平記」より、後醍醐天皇が倒幕を決意し、鎌倉幕府が滅亡するまでの出来事に深くかかわった人物を紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~太平記の①~⑥をブログで一括掲載します。

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鎌倉末期の時代背景とは

「思い入れ歴史・人物伝」で、日本最長の歴史文学と言われる「太平記」を取り上げます。太平記の舞台となる時代は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての約50年間で、日本史上指折りの動乱期です。

歴史・人物伝~太平記編では、動乱の発端となる鎌倉時代末期にスポットを当て、太平記での描写を原本にしながら、登場人物を紹介していきます。
その前に、時代背景に触れておきたいと思います。

天皇家両統迭立

太平記の中心人物となるのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇が即位した当時の天皇家は、持明院統大覚寺統という二つの皇統が交互に天皇を即位させていた「両統迭立(りょうとうていりつ)」でした。

両統迭立の背景には、承久の変の戦後処理以降、鎌倉幕府皇位継承に深くかかわるようになったことが挙げられます。そして、二つの系統のきっかけとなったのは、後深草天皇亀山天皇の兄弟でした。

それぞれ、自分の子孫に皇統を継がせたいと思い、対立が深まっていったのです。そこで幕府が「交互に皇位を継承しなさい」と裁定を下しました。大覚寺統後醍醐天皇も、その流れの中で即位しています。

後醍醐天皇は、兄の子である邦良親王が皇太子でした。しかも、その次は持明院統量仁親王(のちの光厳天皇)とされ、このままでは一代限りの天皇となる運命が待ち受けていたのです。

鎌倉幕府の北条得宗専制

一方の鎌倉幕府ですが、源頼朝が幕府を開いたものの、源氏将軍は3代で潰えてしまいます。その後、将軍は京都から摂関家や皇族を迎え入れ、幕府の実権は、執権を担う北条一族が握っていたのです。

その中でも、北条氏の惣領家系は「得宗家」と呼ばれ、権力の中心にいました。頼朝以来の家臣だった御家人は、得宗家を中心とした一族によって粛清されたり、抑えられたりしていたのです。

太平記が描かれた当時の得宗家惣領は北条高時でした。幕府は高時を頂点として、北条一族と御内人(側近たち)が牛耳っており、御家人が幕府の政治に参画することが出来にくい状況になっていました。

やがて、後醍醐天皇が倒幕を企図し、動乱が起きるようになると、御家人にも同調しようという動きが出てきます。その中に、太平記のもう一人の主役である足利尊氏がいたのです。

 

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 倒幕意識を強めていった後醍醐天皇

太平記の書き出しは、後醍醐天皇の即位から始まります。太平記編①で述べたように、本来は兄の後二条天皇の子・邦良親王皇位を継承するところでしたが、幼少のために後醍醐天皇皇位についたのです。

後醍醐天皇は、当時としては高齢の31歳で即位しています。太平記では「和漢に通じ、詩歌にたけている」と評されたばかりか、政治にも強い関心を持っていたとしています。

父の後宇多上皇院政をやめ、自らが先頭に立つ天皇親政の政治を開始します。それでも、持明院統大覚寺統の「両統迭立」の流れの中では、「自身一代限りの皇統」で終わることは避けられません。

後醍醐天皇は「両統迭立を作り、皇位継承を意のままにしている幕府を倒してしまおう」との思いを持ちます。さらに、邦良親王が亡くなり、自身の子に皇位継承の芽が出てきたことも倒幕意識に拍車をかけたようです。

ただ、幕府は「次の天皇持明院統量仁親王(のちの光厳天皇)」との裁定を下します。後醍醐天皇の倒幕意識は頂点に達し、ついに1331年、倒幕に直結していく「元弘の変」が勃発するのです。

 

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北条高時御内人の政治

持明院統大覚寺統という二つの皇統が交互に天皇を即位させていた「両統迭立」の時代に、鎌倉幕府はどんな政治を行っていたのでしょうか? そのキーワードになるのが「得宗家」です。

鎌倉幕府は、将軍を補佐する執権という職を置いていましたが、政務は執権が中心となって動かしており、代々北条一族がその職に就いています。北条一族の惣領家が「得宗家」と呼ばれていたのです。

鎌倉時代全般を通して、得宗家はライバルだった他の北条一族や御家人たちを滅ぼしたり、屈服したりして、専制の度合いを強めていきます。その過程で、得宗家の家臣である御内人が台頭するようになりました。

得宗家を北条高時が継いでからも、御内人が政治の実権を握り続けました。太平記では「政務への意欲を無くした高時が、闘犬や田楽にうつつを抜かす日々をおくっていた」と、愚昧ぶりを書き記しています。

本当に暗君だったかどうかは分かりませんが、高時がトップに立つ北条一族の強固な絆は揺るぎないものがありました。倒幕軍に対抗する戦いや後醍醐天皇親政時の反乱などでは、その結束の強さが見られます。

ただ、北条一族に対する御家人たちの不満は、決して小さなものではありませんでした。そんな御家人の一つが足利家でした。

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北条氏と深くかかわっていた足利尊氏

太平記を舞台にした1991年の大河ドラマ太平記」は、足利尊氏が主人公でした。言うまでもなく、室町幕府足利将軍家の初代征夷大将軍で、鎌倉幕府を倒した功労者の一人です。

足利家が征夷大将軍になれたのは、源氏の系統だったのが要因でしたが、当時は他にも源氏の名門家は数多くあり、決して足利家が突出した存在だったわけではありません。

尊氏は元々、高氏と名乗っていました。得宗家の北条高時から「高」の文字をいただいたからで、高氏(以下こう記します)ら足利家は、北条一族と深いかかわりがあったことをうかがわせます。

高氏の正室は、執権を務めた北条守時の妹でしたし、後に後醍醐天皇ら討幕を企図した勢力に対し、幕府の命令で大軍を任されて出兵しています。北条一族にとって足利家、とくに高氏は「身内同然」だったのです。

太平記では、「父親の貞時の喪中を理由に出兵を辞退したが認められず、不満を持った」としています。「身内同然」ゆえに、足利家にとって理不尽と思えるような命令を日常的に受けていたのでしょう。

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倒幕への種をまいた日野俊基

倒幕の思いを持っていたのは後醍醐天皇だけでなく、取り巻きの側近たちも同じでした。その急先鋒だったのが、日野資朝日野俊基でした。1324年には倒幕計画を疑われ、幕府に捕らわれるまでに至ったのです。

この時は、資朝が佐渡流罪となりましたが、俊基は証拠不十分で無罪放免となりました。ただ、太平記は俊基が諸国を歩いて、倒幕の必要性を説きながら勢力拡大を図ったとしています。

太平記の記述通りだとすれば、俊基が楠木正成新田義貞ら討幕の中心人物と接触したかもしれません。また、当時天台座主だった護良親王後醍醐天皇の子)とは連絡を取っていた可能性があります。

後醍醐天皇自らが倒幕を決意した1331年の元弘の変では、再び俊基が捕らえられて鎌倉に送られます。企てを自白した者がいたため死罪は免れず、葛原ヶ岡で斬首されたのです。

さらに、佐渡に流されていた資朝も処刑され、後醍醐天皇護良親王にも幕府の追及の手が伸びていきます。倒幕計画が知られたことで、後醍醐天皇は具体的な行動を起こさざるを得なくなり、笠置山に陣を構えるのです。

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島流しにも怯まなかった後醍醐天皇

1331年の元弘の変で、後醍醐天皇の倒幕計画が幕府の知れるところとなり、身の危険を感じた天皇は京都から脱出して笠置山にこもります。この間に反幕府勢力の結集を試みたのです。

太平記によると、天皇は「大きな常盤木の日陰に上座が設けられている夢」をごらんになり、その大木がクスノキだったとして、河内の豪族だった楠木正成を召還したといいます。

しかし、幕府が派兵した大軍によって笠置山は陥落し、天皇は捕らわれの身となります。そして、約100年前の承久の変の後鳥羽上皇と同様、隠岐島流罪としました。同時に天皇の位もはく奪されます。

過去の天皇上皇は「流罪」にされると、権威や政治生命が断たれるため、諦めて隠遁生活に入っていました。しかし、後醍醐天皇隠岐を脱出して再度蜂起することを考え、それを実行したのです。

護良親王だけでなく、味方につく楠木正成ら西国の武将が多くいたことに加え、自分への監視の目も緩いと思ったのではないでしょうか。幕府の権力の衰えを肌で感じた天皇の果敢な行動が、倒幕へとつながっていくのです。

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★歴史・人物伝~太平記編⑦~⑫はこちら

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「麒麟がくる」放送再開(8月31日、9月1日の記事)

大河ドラマ麒麟がくる」について書きたいと思います。

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光秀の生涯を池端俊策さんが描く

新型コロナウイルスの影響で撮影ができず、大河ドラマが約2か月間放送中断する事態になりましたが、8月30日の放送から再開されました。再開したドラマもしっかりと視聴させていただきました。

麒麟がくる」の主人公は明智光秀です。戦国時代後半、とくに織田信長豊臣秀吉のドラマでは絶対欠かせない重要人物ですが、光秀にスポットを当てたドラマはほとんどありませんでした。

中断前のドラマでは、謎に包まれている光秀の前半生が描かれました。ある意味、脚本の池端俊策さんのフィクションによる部分が中心だったと思います。ですが、全く違和感なくドラマを楽しめましたね。

池端さんは、大河ドラマ太平記」の脚本を書かれており、鎌倉末期から南北朝という敵味方が交錯する時代のドラマを、分かりやすく、かつドラマチックに描かれたのが印象に残っています。

明智光秀も、信長や秀吉のような分かりやすい人物像とは異なり、主人公としては書きづらい武将でしょう。だからこそ、池端さんの脚本に期待しながら毎回楽しみにドラマを視聴しています。

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今後の光秀がどう描かれるか?

8月30日の再開後の話は、桶狭間の合戦の4年後からスタートしました。光秀は越前に居住したままですが、後にキーマンとなる最後の将軍・足利義昭(覚慶)が初登場するなど、新しい動きも見られました。

義昭は、足利将軍家の正当な後継者として、織田信長の助力を得て京都への上洛を果たします。その義昭と信長を引き合わせる役目を担ったのが、光秀だと言われています。

ドラマでは、信長と光秀は旧知となっていますが、家臣の一員になるのはこの時からでした。会社に例えるなら、「信長が幹部候補生をスカウトした」ことになり、すぐに重臣として取り立てられました。

権威や権力に対する信長と光秀の考え方は、根本的に異なっていたと思っています。光秀は、将軍家を中心とした秩序ある世の中を理想としますが、信長は自らが権力の中心になることを目指すのです。

信長の天下統一の過程にあって、光秀は理想とのギャップをどう埋めていくのか、あるいは埋まらないままなのか。池端俊策さんの脚本で、どんなふうに描かれていくのか楽しみにしています。

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