歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~太平記編①~⑥「鎌倉幕府倒幕への道」

鎌倉末期から南北朝時代を描いた日本最長の歴史文学「太平記」より、後醍醐天皇が倒幕を決意し、鎌倉幕府が滅亡するまでの出来事に深くかかわった人物を紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~太平記の①~⑥をブログで一括掲載します。

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鎌倉末期の時代背景とは

「思い入れ歴史・人物伝」で、日本最長の歴史文学と言われる「太平記」を取り上げます。太平記の舞台となる時代は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての約50年間で、日本史上指折りの動乱期です。

歴史・人物伝~太平記編では、動乱の発端となる鎌倉時代末期にスポットを当て、太平記での描写を原本にしながら、登場人物を紹介していきます。
その前に、時代背景に触れておきたいと思います。

天皇家両統迭立

太平記の中心人物となるのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇が即位した当時の天皇家は、持明院統大覚寺統という二つの皇統が交互に天皇を即位させていた「両統迭立(りょうとうていりつ)」でした。

両統迭立の背景には、承久の変の戦後処理以降、鎌倉幕府皇位継承に深くかかわるようになったことが挙げられます。そして、二つの系統のきっかけとなったのは、後深草天皇亀山天皇の兄弟でした。

それぞれ、自分の子孫に皇統を継がせたいと思い、対立が深まっていったのです。そこで幕府が「交互に皇位を継承しなさい」と裁定を下しました。大覚寺統後醍醐天皇も、その流れの中で即位しています。

後醍醐天皇は、兄の子である邦良親王が皇太子でした。しかも、その次は持明院統量仁親王(のちの光厳天皇)とされ、このままでは一代限りの天皇となる運命が待ち受けていたのです。

鎌倉幕府の北条得宗専制

一方の鎌倉幕府ですが、源頼朝が幕府を開いたものの、源氏将軍は3代で潰えてしまいます。その後、将軍は京都から摂関家や皇族を迎え入れ、幕府の実権は、執権を担う北条一族が握っていたのです。

その中でも、北条氏の惣領家系は「得宗家」と呼ばれ、権力の中心にいました。頼朝以来の家臣だった御家人は、得宗家を中心とした一族によって粛清されたり、抑えられたりしていたのです。

太平記が描かれた当時の得宗家惣領は北条高時でした。幕府は高時を頂点として、北条一族と御内人(側近たち)が牛耳っており、御家人が幕府の政治に参画することが出来にくい状況になっていました。

やがて、後醍醐天皇が倒幕を企図し、動乱が起きるようになると、御家人にも同調しようという動きが出てきます。その中に、太平記のもう一人の主役である足利尊氏がいたのです。

 

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 倒幕意識を強めていった後醍醐天皇

太平記の書き出しは、後醍醐天皇の即位から始まります。太平記編①で述べたように、本来は兄の後二条天皇の子・邦良親王皇位を継承するところでしたが、幼少のために後醍醐天皇皇位についたのです。

後醍醐天皇は、当時としては高齢の31歳で即位しています。太平記では「和漢に通じ、詩歌にたけている」と評されたばかりか、政治にも強い関心を持っていたとしています。

父の後宇多上皇院政をやめ、自らが先頭に立つ天皇親政の政治を開始します。それでも、持明院統大覚寺統の「両統迭立」の流れの中では、「自身一代限りの皇統」で終わることは避けられません。

後醍醐天皇は「両統迭立を作り、皇位継承を意のままにしている幕府を倒してしまおう」との思いを持ちます。さらに、邦良親王が亡くなり、自身の子に皇位継承の芽が出てきたことも倒幕意識に拍車をかけたようです。

ただ、幕府は「次の天皇持明院統量仁親王(のちの光厳天皇)」との裁定を下します。後醍醐天皇の倒幕意識は頂点に達し、ついに1331年、倒幕に直結していく「元弘の変」が勃発するのです。

 

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北条高時御内人の政治

持明院統大覚寺統という二つの皇統が交互に天皇を即位させていた「両統迭立」の時代に、鎌倉幕府はどんな政治を行っていたのでしょうか? そのキーワードになるのが「得宗家」です。

鎌倉幕府は、将軍を補佐する執権という職を置いていましたが、政務は執権が中心となって動かしており、代々北条一族がその職に就いています。北条一族の惣領家が「得宗家」と呼ばれていたのです。

鎌倉時代全般を通して、得宗家はライバルだった他の北条一族や御家人たちを滅ぼしたり、屈服したりして、専制の度合いを強めていきます。その過程で、得宗家の家臣である御内人が台頭するようになりました。

得宗家を北条高時が継いでからも、御内人が政治の実権を握り続けました。太平記では「政務への意欲を無くした高時が、闘犬や田楽にうつつを抜かす日々をおくっていた」と、愚昧ぶりを書き記しています。

本当に暗君だったかどうかは分かりませんが、高時がトップに立つ北条一族の強固な絆は揺るぎないものがありました。倒幕軍に対抗する戦いや後醍醐天皇親政時の反乱などでは、その結束の強さが見られます。

ただ、北条一族に対する御家人たちの不満は、決して小さなものではありませんでした。そんな御家人の一つが足利家でした。

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北条氏と深くかかわっていた足利尊氏

太平記を舞台にした1991年の大河ドラマ太平記」は、足利尊氏が主人公でした。言うまでもなく、室町幕府足利将軍家の初代征夷大将軍で、鎌倉幕府を倒した功労者の一人です。

足利家が征夷大将軍になれたのは、源氏の系統だったのが要因でしたが、当時は他にも源氏の名門家は数多くあり、決して足利家が突出した存在だったわけではありません。

尊氏は元々、高氏と名乗っていました。得宗家の北条高時から「高」の文字をいただいたからで、高氏(以下こう記します)ら足利家は、北条一族と深いかかわりがあったことをうかがわせます。

高氏の正室は、執権を務めた北条守時の妹でしたし、後に後醍醐天皇ら討幕を企図した勢力に対し、幕府の命令で大軍を任されて出兵しています。北条一族にとって足利家、とくに高氏は「身内同然」だったのです。

太平記では、「父親の貞時の喪中を理由に出兵を辞退したが認められず、不満を持った」としています。「身内同然」ゆえに、足利家にとって理不尽と思えるような命令を日常的に受けていたのでしょう。

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倒幕への種をまいた日野俊基

倒幕の思いを持っていたのは後醍醐天皇だけでなく、取り巻きの側近たちも同じでした。その急先鋒だったのが、日野資朝日野俊基でした。1324年には倒幕計画を疑われ、幕府に捕らわれるまでに至ったのです。

この時は、資朝が佐渡流罪となりましたが、俊基は証拠不十分で無罪放免となりました。ただ、太平記は俊基が諸国を歩いて、倒幕の必要性を説きながら勢力拡大を図ったとしています。

太平記の記述通りだとすれば、俊基が楠木正成新田義貞ら討幕の中心人物と接触したかもしれません。また、当時天台座主だった護良親王後醍醐天皇の子)とは連絡を取っていた可能性があります。

後醍醐天皇自らが倒幕を決意した1331年の元弘の変では、再び俊基が捕らえられて鎌倉に送られます。企てを自白した者がいたため死罪は免れず、葛原ヶ岡で斬首されたのです。

さらに、佐渡に流されていた資朝も処刑され、後醍醐天皇護良親王にも幕府の追及の手が伸びていきます。倒幕計画が知られたことで、後醍醐天皇は具体的な行動を起こさざるを得なくなり、笠置山に陣を構えるのです。

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島流しにも怯まなかった後醍醐天皇

1331年の元弘の変で、後醍醐天皇の倒幕計画が幕府の知れるところとなり、身の危険を感じた天皇は京都から脱出して笠置山にこもります。この間に反幕府勢力の結集を試みたのです。

太平記によると、天皇は「大きな常盤木の日陰に上座が設けられている夢」をごらんになり、その大木がクスノキだったとして、河内の豪族だった楠木正成を召還したといいます。

しかし、幕府が派兵した大軍によって笠置山は陥落し、天皇は捕らわれの身となります。そして、約100年前の承久の変の後鳥羽上皇と同様、隠岐島流罪としました。同時に天皇の位もはく奪されます。

過去の天皇上皇は「流罪」にされると、権威や政治生命が断たれるため、諦めて隠遁生活に入っていました。しかし、後醍醐天皇隠岐を脱出して再度蜂起することを考え、それを実行したのです。

護良親王だけでなく、味方につく楠木正成ら西国の武将が多くいたことに加え、自分への監視の目も緩いと思ったのではないでしょうか。幕府の権力の衰えを肌で感じた天皇の果敢な行動が、倒幕へとつながっていくのです。

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★歴史・人物伝~太平記編⑦~⑫はこちら

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