歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~太平記編⑦~⑫「鎌倉幕府倒幕への道」

鎌倉末期から南北朝時代を描いた日本最長の歴史文学「太平記」より、後醍醐天皇が倒幕を決意し、鎌倉幕府が滅亡するまでの出来事に深くかかわった人物を紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~太平記の⑦~⑫をブログで一括掲載します。

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ばさら大名といえば佐々木道誉

番外コラムの中で、大河ドラマ太平記」で印象に残った出演者に佐々木道誉役の陣内孝則さんを挙げました。権謀術数に長けた武将であると共に、道誉は「ばさら大名」としても知られています。

「ばさら」という言葉を調べると、華美な服装を好んだり、勝手気ままな振る舞いをしたりという南北朝独特の美意識だということが分かりました。天皇や公家といった古くからの権威も軽んじていたとされます。

道誉は北条家に仕える武将で、後醍醐天皇の挙兵時には討伐軍として派遣されますが、足利尊氏らと天皇側に寝返って、倒幕に一役買いました。同じ源氏の系統だったので、行動を共にしやすかったのでしょう。

その後、足利尊氏後醍醐天皇から追討を受けると、足利方だった道誉は天皇方の新田義貞軍に加わります。ところが、新田軍の形勢が不利とみるや、再び足利軍に「寝返り」をして新田軍を敗北に追い込むのです。

「寝返り」というと、卑怯者の代名詞のように言われますが、それは江戸時代以降の価値観であり、当時は「勝ち馬に乗る」ことが当たり前でした。その意味でも、道誉は時代の流れをよく見ていたと言えるでしょう。

次回は話を鎌倉幕府倒幕時に戻し、後醍醐天皇の挙兵に呼応した人物を順次紹介していきます。

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武勇に優れたがゆえに悲劇を生んだ護良親王

後醍醐天皇隠岐へ配流となり、倒幕勢力が衰えるかに思われましたが、天皇に代わって「幕府を倒せ」という令旨(命令)を全国の諸侯に出していたのが、天皇の子・護良親王でした。

親王は幼くして僧籍となり、比叡山天台座主の地位にいました。もともと学問よりも武芸に長けていたとされ、元弘の変をきっかけに起きた動乱で、僧籍から還俗して倒幕の旗手となったのです。

幕府からは、倒幕を企んだ天皇の子の中で「最も危険な存在」だとして、たびたび命を狙われます。親王紀伊半島山中を転々としながらも令旨を出し続け、自らも軍を率いて幕府に抵抗しました。

倒幕が達成され、後醍醐天皇の親政になると、功績を認められた護良親王征夷大将軍に任じられます。しかし、足利尊氏らと対立し、天皇への謀反も噂され、ついには捕らわれの身となってしまいました。

あまりにも武勇に優れていたがゆえに、倒幕後も影響力を保持したかったのでしょう。後継者争いの火種を消したい天皇は、天台座主に戻ることを望んでいたと思われ、父子の思いの違いが悲劇を生んだのだと思います。

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計略を駆使して幕府軍を悩ませた楠木正成

今回紹介する河内の武将・楠木正成は、日本史上屈指の軍事の天才と言われ、その計略を多くの戦国武将が参考にしたほどです。また、天皇に忠義を尽し抜いたことから「忠臣の代表的な人物」と言われてきました。

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕の挙兵に呼応した正成は、小さな勢力ながらも英知を結集した奇想天外な戦略で幕府の追討軍を悩ませ、戦いを引き延ばすことで倒幕勢力を勢いづかせました。

天皇笠置山で捕らえられた後も、正成は自身の居城である赤坂城に立てこもります。幕府軍は「たやすく陥落できる」と高を括っていましたが、巧みな籠城戦を行う正成軍に手を焼き、城攻めが長引きました。

正成は一族全滅を装って赤坂城を撤退しますが、その後も神出鬼没なゲリラ戦を展開。単に敵を蹴散らすだけでなく、相手が武勇の誉れ高い武将ならば「戦わずして退却させる」という戦術も使っていました。

千早城を築いて再び籠城戦に挑んだ正成は、様々な計略を用いて、取り囲む幕府の大軍にも一歩も引かずに交戦します。時期を同じくして、後醍醐天皇隠岐からの脱出に成功し、倒幕の機運が一気に高まるのです。

そして、幕府軍を率いる武将の中にも倒幕に加担する者が現れます。その代表的な人物が、足利尊氏新田義重でした。

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天皇方についた足利尊氏

第9回でご紹介した楠木正成は「忠臣」の代表的人物でしたが、「逆臣」の代表的人物とされたのが足利尊氏後醍醐天皇の親政を打ち破り、征夷大将軍として幕府を開いたため、「逆臣」とされたのです。

しかし、後醍醐天皇の倒幕が成功したのは、足利尊氏天皇の味方に付いたからです。尊氏は幕府(北条氏)から大軍を任されて、倒幕勢力の討伐に出陣しましたが、密かに天皇方と連絡を取っていました。

当時、京都には幕府の組織である六波羅探題がありました。尊氏は西国の武将らを引き連れ、六波羅探題を攻め滅ぼします。北条方が一掃されたことを受け、後醍醐天皇はようやく京都に戻れました。

幕府にとって「反逆」といえる行動を、尊氏はどの時点で決断したのでしょうか。鎌倉を出陣する際には「思い」を持っていたと思われますが、実弟の直義など少数の者しか知らなかったと考えられます。

尊氏は、北条高時から「高」の字を授かって「高氏」と名乗り、北条一族の女性を妻に迎えています。北条氏は「尊氏は身内同然」と思っていたに違いありません。だからこそ、尊氏の「反逆」は致命傷になったのです。

そして、幕府の本拠地である鎌倉にも倒幕軍が襲い掛かります。その主役が新田義貞です。

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海に太刀を投げ入れた新田義貞

後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕の挙兵に端を発し、護良親王楠木正成らの抵抗、足利尊氏の寝返りにより、京都をはじめ西国は天皇方が制圧しました。そして、東でも挙兵した武将がいます。新田義貞です。

新田家は、源頼朝や足利家と先祖を同じくしながら、鎌倉幕府での地位は高くありませんでした。その分、北条一族とは一線を画しており、天皇の倒幕の意志が伝えられると、本国(群馬県)で挙兵の準備をします。

最初は新田勢のみの小さな勢力でしたが、足利尊氏の幼少の子・千寿王(義詮)を立てながら鎌倉に向かって快進撃を続けます。尊氏が六波羅探題を滅亡させたと聞き、自分は幕府本体を滅ぼすと意気込んでいたのです。

各地で勝利を収めながら進軍する新田軍ですが、鎌倉は三方を険しい切通しに囲まれ、もう一方が相模湾という天然の要害です。鎌倉西側の稲村ケ崎にたどり着いた義貞は、何とか活路を見出そうとします。

太平記によると、稲村ケ崎で義貞は「我らを通したまえ」と天地神明に願い、海に太刀を投げ入れました。すると、見る間に潮が引いて砂浜が現れ、北条の軍船も沖に流されてしまいます。

義貞の大軍勢は一気に鎌倉へなだれ込むことができ、幕府軍と最後の決戦に挑みます。太平記に書かれた義貞の行動が、故事として唱歌「鎌倉」の1番で歌われるようになったのです。

次回は、追いつめられた北条一族と最高権力者・北条高時について書きたいと思います。

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一族もろとも滅亡した北条高時

後醍醐天皇鎌倉幕府打倒の願いは、六波羅探題滅亡によって京都奪還に成功し、幕府本拠地の鎌倉にも新田義貞の大軍勢がなだれ込み、いよいよ最終決着へと突き進んでいました。

北条軍は各所で果敢に戦いを挑みましたが、勢いに勝る新田軍に次々と打ち破られていきます。足利尊氏の妻の兄で、執権だった北条守時も戦死しました。義弟の裏切りをどう思っていたのでしょうか?

大軍勢に追いつめられた北条一族の最高権力者・北条高時は、一族や御内人とともに東勝寺へと追い込まれます。「もはやこれまで」と感じた高時は、自刃することを決断するのです。

高時の自刃に続き、幕府政治の実権を握っていた御内人や一族の女性に至るまで、次々と相果てていきます。まさに「滅亡」という言葉通り、凄惨な光景だったそうです。

太平記では、高時を愚昧な人物と断じています。ですが、一族や家臣がそろって高時に殉じたことを考えると、決して愚昧なだけでなく、カリスマ的あるいはシンボル的な存在だったのではないでしょうか。

この後太平記は、後醍醐天皇による新たな政治を綴っていきます。この項の続きも、いずれ書きたいと考えています。

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