歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」4代将軍・藤原頼経(三寅)がもたらせたもの

4日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、新しい将軍に藤原摂関家から三寅を迎え入れ、三寅が成長するまでの間、北条政子が「尼将軍」として後見していくという流れが出来上がりました。

三寅の父親は摂政、関白となった九条道家で、天皇家に次ぐ名門貴族です。道家の母親は源頼朝の姪にあたるため、三寅は頼朝の血をわずかながら受け継いでおり、名目上かもしれませんが源氏の系統となります。

北条義時や政子が存命中は傀儡将軍そのものでしたが、二人の死去後に三寅は元服し、藤原頼経として正式に4代将軍となります。それでも、政治の実権は北条泰時北条時房が握っており、傀儡将軍の立場は変わっていません。

成人になるにつれ、傀儡の座に不満を持ち始めた頼経は、北条家の主流(得宗家)に反発する北条朝時(名越流)の嫡男・光時と結託しようとします。そこで得宗家は、頼経を将軍から引きずり下ろし、頼経の子を5代に据えるのです。

前将軍となった頼経は「大殿」と呼ばれ、光時らの旗頭として得宗家に対抗しようとします。しかし、当時執権となっていた泰時の孫の北条時頼によって名越家は処罰され、頼経も京都へ強制送還させられてしまいます。

頼経に接近したのは名越家だけでなく、三浦一族も同じでした。義村の嫡男・泰村と弟の光村は、頼経を鎌倉に戻して実権を握ろうと画策します。これが後の宝治合戦という鎌倉時代中期最大の内乱の端緒となっていくのです。

尼将軍となった政子の真意

ところでドラマでは、政子が尼将軍となる決意をしたきっかけを「妹の実衣(阿波局)を赦免するためだった」というストーリーにしました。もちろん、それだけではなかったわけですが、ここをクローズアップするところが三谷脚本のスゴさです。

実衣は、実子の阿野時元が将軍の座を狙って挙兵した事件にかかわっていたとして、義時は断罪を申し付けます。政子や泰時が必死にとりなすのに激高し、「首をはねてしまえ」とまで言い捨てたのです。

以前義時は、明らかに謀反をたくらんだ北条時政に対し、死罪だけは避けました。その時と比べると、はるかに厳しい処断です。幕府の最高権力者となったがゆえ、その地位を守るために恐怖政治をしようとしたと思われるシーンでもあります。

それに対し、政子は「執権は政治機構のトップにすぎず、最高権力者はあくまでも将軍」と思っています。自らが将軍を名乗ることで、義時の暴走に歯止めをかけたいという目論見もあったのではないでしょうか。

 

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