歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~新選組編⑦~⑫「近藤勇と試衛館の同志たち」

幕末の京都にその名をとどろかせた新選組。局長の近藤勇をはじめ、土方歳三沖田総司ら中核を担った面々は、江戸の小さな道場「試衛館」の同志たちです。その銘々伝と近藤を取り巻く人々を紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~新選組の⑦~⑫をブログで一括掲載します。

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 一番隊長で人気ナンバーワンの沖田総司

ここからは、新選組の礎を築いた試衛館時代の仲間たちの銘々伝を語っていきます。

近藤勇土方歳三と並び、新選組の中でも知名度抜群なのが沖田総司です。近藤、土方より10歳ほど年下ですが、剣の腕は抜群だったようで、近藤から塾頭を命じられるほどでした。

沖田は「三段突き」と呼ぶ技が得意だったそうで、新選組時代は多くの浪士たちに恐れられていました。試衛館での指導ぶりは、かなり荒っぽかったと伝わっていますが、若さゆえだったのかもしれません。

ドラマで沖田総司を演じる俳優は、イケメンをキャスティングすることが多いようですが、当の沖田が美男子だったのかは定かではありません。病気により若くして亡くなったことからイメージされたのでしょう。

人柄については、新選組屯所だった八木家の八木為三郎が「子供たちと鬼ごっこをしたり、いつも冗談を言っていた」と振り返っています。人懐こい若者だったのではないでしょうか。

ちなみに、総司の姉は八王子千人同心の井上家から婿をもらい、沖田家を相続しました。これが、総司が天然理心流や試衛館との縁を結ぶきっかけになったのだと思います。

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新選組の変遷を書き残した永倉新八

新選組銘々伝は沖田総司に続き、永倉新八について書きます。永倉は、松前藩士の子として生まれた武士出身で、修行の最中に近藤勇と出会い、試衛館に出入りするようになりました。

永倉は神道無念流の使い手で、その実力は沖田を上回り、新選組では一番の剣の達人とも言われました。近藤勇とともに、浪士たちが集まっていた池田屋へ真っ先に突入した武勇伝が残っています。

一方で、近藤や土方の新選組運営に対し、異を唱えることもしばしばありました。「近藤のわがままが増長している」として、京都守護職松平容保会津藩主)に直接訴え出たことさえあったのです。

幕末・維新の激動を生き抜いた永倉は、明治になって間もなく、近藤や土方らを供養するための碑を東京板橋に建立しました。無念の思いで生涯を閉じた近藤の思いが、永倉にはよく分かっていたのでしょう。

大正時代まで生きた永倉は、自伝「新選組顛末記」を残しました。ここには、試衛館時代からの新選組の様々なエピソードが書き記されており、新選組の実像を知るための貴重な資料になっています。

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短気な槍の使い手の原田左之助

槍の使い手として知られる原田左之助は、幾つかの武勇伝を残している人物でもあります。かなりの短気だったと伝わっており、それを示す次のエピソードが有名です。

左之助は若い頃、「腹を切る作法も知らない」と馬鹿にされたことに腹を立て、本当に切腹をしてしまいます。幸い、命に別状はなかったのですが、その時の傷が腹に一直線に残されていたといいます。

しかも、そのことを反省するのではなく、何かといえば腹を見せ、「俺の腹は金物の味を知っている」と自慢していたそうです。豪放磊落な性格だったことがうかがえます。

坂本龍馬中岡慎太郎が京都で暗殺されたとき、新選組の犯行が疑われ、左之助が容疑者として浮かび上がりました。瀕死の中岡が「こなくそ」という方言を聞いたと証言したことがきっかけになりました。

左之助愛媛県出身で、「こなくそ」は四国地方の方言だったのです。ただ、もし左之助が犯人なら、刀ではなく得意の槍を使っただろうと私は思いますので、新選組の犯行ではないと考えます。

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全盛期に切腹した幹部・山南敬助

山南敬助は、土方歳三とともに新選組の副長を務めた幹部隊員ですが、その活動ぶりや人物像についてはあまり伝わっていません。新選組の全盛期に、切腹により世を去ってしまったからかもしれませんね。

永倉新八の「新選組顛末記」によると、山南は仙台の出身で、剣術の腕もさることながら、尊王攘夷思想の持ち主だったといいます。試衛館時代から上京する頃は、近藤勇も頼りにしていた存在だったのでしょう。

人柄は温厚篤実と伝わっており、新選組で現場の第一線に立った土方歳三に対し、裏方として近藤のサポート役を務めてきたのだろうと思います。それゆえに、徐々に土方と「そりが合わなくなった」のかもしれません。

新選組顛末記」では、切腹の様子に触れています。介錯をしたのは沖田総司で、山南は取り乱すことなく、作法にのっとって堂々と腹を切ったのです。近藤らに武士としての最後の意地を見せつけたかったのでしょう。

その姿に近藤は「浅野内匠頭でも、こうみごとにあいはてまい」と称賛したといいます。ちなみに大河ドラマ新選組!」では、山南を堺雅人さんが演じ、彼の切腹の回が最も反響が大きかったようです。

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切り込み隊長・藤堂平助の非業の死

試衛館時代からの同志の中で、最も年下だったのが藤堂平助でした。沖田総司とほぼ同年代で、若さもあってか、新選組では「切り込み隊長」として様々な修羅場の最前線に立っていたそうです。

平助は、藩祖に藤堂高虎をもつ津藩藤堂家の殿様の落胤だったと伝わっていますが、真偽のほどは定かではありません。仮に落胤なら、藤堂とは名乗らないと思うので、個人的には「偽」かなと思っています(苦笑)

そのエピソードを「真」と思わせたのは、平助が美男子だったからでしょう。新選組隊士の美男子と言えば、沖田が真っ先に浮かびますが、実は平助のことだったのではないかとも言われています。

平助は、試衛館の前に伊東甲子太郎の道場にも出入りしており、その縁で伊東一派を新選組に誘います。ですが、伊東は間もなく「御陵衛士」として分派し、最後は近藤らによって粛清されてしまうのです。

この時、平助は伊東とともに御陵衛士に加わったため、伊東粛清の際の油小路事件では、旧知の仲間たちと斬り合いになって殺害されます。永倉新八は平助を逃がそうとしましたが、かないませんでした。

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浪士組に参加して江戸を立つ

近藤勇をはじめ、試衛館の同志たちにとって大きな転機となる出来事がありました。幕府が上洛する将軍の警護のため、志のある者たちを募って京都に送り込む「浪士組」を組織したのです。

浪士組の発案者は、尊王攘夷思想の持ち主である清川八郎で、腕に自信があるならば身分は問わないという画期的な組織でした。そのため、幕府の予想を大きく上回る浪士たちが集まったといいます。

浪士組の中には、有名道場の出身者や名の知れた博徒、そして水戸藩出身の芹沢鴨といったそうそうたる面々がいました。町道場に過ぎない試衛館は、さほど目立たない存在だったと思われます。

それでも、実戦的な剣術である天然理心流の真価を発揮するには、これ以上ない条件であり、佐幕意識の高い多摩出身の近藤は、幕府に取り立ててもらう絶好のチャンスだと考えたのかもしれません。

浪士組は小石川の伝通院を出発し、中山道を通って京都へと向かいました。近藤勇を筆頭に、土方歳三沖田総司山南敬助永倉新八原田左之助藤堂平助井上源三郎の胸に去来した思いは何だったのでしょうか? 

思い入れ歴史・人物伝~新選組編は、ひとまず今回で終了させていただきます。いずれ、京都での活躍も書きたいと思っています。

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歴史・人物伝~新選組編①~⑥「近藤勇と試衛館の同志たち」

幕末の京都にその名をとどろかせた新選組。局長の近藤勇をはじめ、土方歳三沖田総司ら中核を担った面々は、江戸の小さな道場「試衛館」の同志たちです。その銘々伝と近藤を取り巻く人々を紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~新選組の①~⑥をブログで一括掲載します。

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 幕末だからこそ生きた天然理心流

幕末の京都で、浪士取り締まりなど治安維持にあたっていた「新選組」は、局長の近藤勇をはじめ、腕に自慢の剣士らが揃う異色の集団でした。その中核を担ったのが、江戸からやって来た「個性派」たちでした。

庄内藩浪人の清川八郎による「京都に上洛する将軍の警護を浪士集団に担わせる」との奇想天外な献策により、幕府は「浪士組」を組織します。この呼びかけに応じたグループの一つが、近藤率いる道場の一派だったのです。

近藤の道場「試衛館」は、天然理心流という極めて実践的な剣術の修練を行っていました。平和な時代であれば、無用の長物だったかもしれませんが、動乱の幕末だからこそ天然理心流の剣術が生きたのでしょう。

天然理心流の稽古で使う木刀はバットくらいの太さがあり、私も持ったことがありますが、振り下ろすだけでも大変です。これで打ち合いをするのですから、かなり厳しい稽古だったと想像されます。

近藤勇と共に浪士組に参加したのは、土方歳三沖田総司井上源三郎山南敬助永倉新八原田左之助藤堂平助でした。彼らは、将軍警護を立派に務め、幕臣に取り立てられることを目標に掲げていたと思います。

新選組」として歴史に名を残す集団が、なぜ登場したのでしょうか? 近藤をはじめ、一人ひとりの人物像を紹介しながら、その「前史」を書いていきます。

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リーダーの素養を持っていた近藤勇

新選組局長の近藤勇は、天然理心流・試衛館道場の道場主でもあり、若い頃から弟子たちを指導する立場にありました。つまり、リーダーとしての素養と経験を持ち合わせていたと言えるでしょう。

近藤は武士の出身ではありません。上石原村(調布市)の農民出身で、子供の頃から熱心に剣術を習って腕を磨き、試衛館の先代に実力と人物を見初められて養子に入り、道場を継ぐことになりました。

大正時代まで生きた永倉新八が、後年こんな話をしています。
近藤が、ある道場で手合わせをした時、相手に竹刀を払い落とされてしまいます。普通ならここで「勝負あった」なのですが、近藤は2、3歩下がって柔術の構えをして寸分のすきも与えなかったのです。最後まで勝負を諦めない天然理心流の真骨頂とも言えるエピソードですね。

新選組時代の近藤は、上昇志向の高い人物でした。それは自身の立身出世のためだけではなく、「(将軍家お膝元の)多摩出身の自分たちこそ、本当の直臣なのだ」という強い佐幕意識があったからだと思います。

現存する近藤の写真を見ると、いかにも武骨で怖そうな印象を与えます。そんな近藤の特技が「げんこつを口の中に入れること」だったそうで、あちこちで特技をお披露目し、得意げになる表情が目に浮かびます(笑)

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偉大なるナンバー2だった土方歳三

新選組の「鬼の副長」と恐れられ、近藤勇の盟友として最後まで支え続けてきた男が土方歳三です。土方も多摩の石田村(日野市)で農家の末っ子として生まれており、出自は武士ではありません。

剣一筋の近藤とは異なり、土方は実家が生産した薬を売り歩いたり、奉公に出たりと、世間の荒波にもまれてきました。そうした経験が、新選組での隊士管理や実務に生かされていたのだと思います。

土方は「偉大なるナンバー2」であり続け、決して自分がトップに立とうとは考えませんでした。近藤と別れた後の函館戦争での指揮ぶりを見れば、リーダーになってもおかしくない力は持っていたと考えられます。

しかし土方は「新選組のトップは近藤勇であるべき」との強い信念を持っていました。同時に近藤も、土方に隊を任せておけば安心だという絶対の信頼があったのです。二人の絆は非常に強固だったと言えます。

冷徹な実務者とのイメージがある土方ですが、和歌や俳句を詠むのが好きという風雅な一面も持っています。また、戊辰戦争直後にいち早く断髪し、洋装に変えるという先進性や合理性も兼ね備えていました。

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近藤を支え続けてきた源さん

新選組編で近藤勇土方歳三と紹介してきましたので、次は一番隊長の沖田総司かと思いきや・・・多摩(日野市)出身のこの人の存在を忘れてはなりません。「源さん」こと井上源三郎です。

多摩地方には、「八王子千人同心」と呼ぶ人々が居ました。普段は農業に従事していますが、有事が起きた際には将軍家を自分たちが守るという強い佐幕意識を持ち、剣術の修練に励んでいたといいます。

八王子千人同心の家に生まれた源三郎は、剣術を学ぶため試衛館の先代に弟子入りします。近藤にとっては兄弟子にあたる存在ですが、近藤が道場主を継ぐと、終生支えていく役に徹したのです。

源三郎の兄で、井上家を継いだ松五郎の子・泰助も新選組に入隊しました。泰助は後に、源三郎の人物像をこんな風に語っています。
「ふだんはおとなしく、温和な人だったが、一度こうと思い込んだら梃子でも動かない一徹な人だった」

日野市にある井上源三郎資料館は、松五郎の子孫の方が井上家にまつわる資料を展示・公開されており、泰助の後日談も2004年に資料館を見学した際に、ご当主の井上雅雄さんから伺いました。

次回は、近藤勇新選組の「サポーター」となった多摩の人々について書きたいと思います。

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支え続けた佐藤彦五郎、小島鹿之助

前回、井上源三郎の紹介の中で、多摩地方に根付いていた八王子千人同心について触れましたが、幕府の治安維持のために京都で活動する「新選組」に対しても、多摩地方の人々は支援し続けていました。

日野の寄場名主だった佐藤彦五郎は、土方歳三の姉と結婚していた縁もあって、試衛館時代から近藤勇たちの良き理解者でした。天然理心流との付き合いは先代の頃からで、日野に出げいこ用道場を設けました。

試衛館道場は多摩地方へ積極的に出げいこに赴いていたといい、彦五郎は自らも心酔した天然理心流を広めたいと考えていたのです。出げいこ道場がなければ、土方や源三郎が近藤と出会う機会もなかったと思います。

小野路村(現町田市)の寄場名主だった小島鹿之助も、新選組を支援した人物の一人でした。近藤や彦五郎とは義兄弟の契りを交わすほど付き合いは深く、鹿之助も出げいこの道場を提供していました。

試衛館時代の近藤も出げいこに訪れていましたが、稽古を付ける代わりに鹿之助から漢学などを学んでいたそうです。後に京都で、様々な層の人物と議論を交わせるだけの学問を養えたのではないでしょうか。

佐藤彦五郎も小島鹿之助も、子孫の方がそれぞれ生家で資料館を設け、新選組などに関する資料公開をしています。二人は、新選組や試衛館を正しく後世に伝えるという使命も果たしていたのです。

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天然理心流4代目を継ぎ、妻を迎える

近藤勇の少年時代(当時の名は勝太)に素質を見初めた天然理心流3代目の近藤周助が、勝太を養子に迎えるきっかけとなったエピソードがあります。永倉新八が「新選組顛末記」の中で語っています。

ある晩、勝太と兄が家にいる時に盗賊たちが押し入りました。退治してやろうと気がはやる兄を勝太は押しとどめます。兄に「賊は入って来た時は気が立っている。逃げる時にこそスキが生じる」と言ったそうです。

そして、引き上げようとする盗賊たちに対し、勝太は「待て!」と一喝します。驚いた盗賊たちは、獲ったものを投げ捨てて一目散に逃げ出しました。勝太が武勇だけでなく、知略も兼ね備えていたことが分かります。

こうして勝太は、近藤勇として4代目を継ぎます。

そして、「つね」という女性と結婚します。近藤は「つねは不器量だ」と語っていたそうですが、夫婦仲はよかったようです。つねが、近藤の稽古着に縫ったという「髑髏(どくろ)」の刺しゅうが現存しています。

つねとの間に一人娘「たま」を授かりますが、間もなく近藤は浪士隊として京都に向かい、つねに留守を任せます。たまは、明治になってから近藤の兄の子(勇五郎)を婿に迎え、5代目を継がせたのでした。

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★歴史・人物伝~新選組編⑦~⑫はこちら

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思い入れ歴史・人物伝~信長編番外コラム2本

note版「思い入れ歴史・人物伝~信長編」の番外コラム2本を掲載いたします。

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 若き信長を演じた名俳優

歴史愛好家マイケルオズです。史実を追いながら「歴史・人物伝~信長編」を書いてきましたが、本日はちょっと趣向を変えて、信長を主人公にした映画「風雲児織田信長」をご紹介しましょう。

この映画は1959(昭和34)年に公開されました。萬屋錦之介さんが主役の織田信長を演じ、「大うつけ」と言われた青年時代から桶狭間の合戦で勝利するまでを描いています。

映画の冒頭は、昨日の「歴史・人物伝~信長編」で書かせていただいたとおり、父・信秀の葬儀で信長が抹香を位牌に投げつける場面です。悲しみと怒りが混じった複雑な表情を錦之介さんが見事に演じています。

私は20代の時に初めてこの映画を見ましたが、錦之介さんの迫真の演技に圧倒されっ放しでした。濃姫役の香川京子さんをはじめ、脇を固める人たちも名俳優ばかりで、東映時代劇の全盛期をうかがわせました。

とくに印象に残っている名ゼリフが「尾張の大うつけで終わるか、天下を取るかだ!」です。当時の信長が天下取りまで見据えていたかは別として、強烈なインパクトを与えてくれました。

錦之介「信長」の言う「天下取り」への関門の一つが、舅(しゅうと)の斎藤道三との対面です。次回は信長編に戻って、信長と道三の対面について書きたいと思います。

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渡哲也さんが演じた信長

NHK大河ドラマ麒麟がくる」が、8月30日から放送再開となります。主人公の明智光秀が、織田信長の家臣となって歴史の表舞台に登場してくるので、史実がどう描かれるのか楽しみです。

ところで、戦国時代を舞台にした大河ドラマでは、必ずといっていいほど登場する織田信長。過去、多くの俳優が演じてきましたが、それぞれドラマの特徴を生かしたキャスティングがされていました。

そのなかでも、「秀吉」に登場した渡哲也さんの織田信長は、圧倒的な存在感と威厳がありました。秀吉役の竹中直人さん、明智光秀役の村上弘明さんら家臣たちが、恐れおののきながら仕えていたのを覚えています。

渡さんの信長には、「人としての優しさや弱さも持ち合わせていた」との演出が施されていたと思います。それを家臣の前では決して見せず、「威厳」というベールで覆い隠していたのです。

本能寺の変での最期のセリフ、「神が・・・死ぬか」は、印象に強く残っています。そこには「なぜ自分がこの場で死ななければならないのか」という理不尽さと無念さが、短い言葉に託されていたのだと私は考えます。

最後に、渡哲也さんのご冥福をお祈りし、このコラムを閉じます。

 

歴史・人物伝~信長編⑥~⑩「信長公記に見る若き織田信長」

織田信長家督を相続し、尾張一国を統一するまでの青年期について、エピソードや取り巻く人々を交えながら紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~信長編の⑥~⑩をブログで一括掲載します。

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 「大うつけ」の器量を見抜いた道三

帰蝶濃姫)の父・斎藤道三が、婿の信長に「対面したい」と求めてきたのに応じ、両者は1553年に美濃と尾張の境にある正徳寺で初めて顔を合わせることになりました。

「大うつけ」の姿のままで・・・

父の信秀が亡くなり、若き後継者となった信長でしたが、信秀の葬儀での行状が道三の耳にも入っていたのでしょう。道三は、信長が本当の「大うつけ」かどうか、自分の目で見極めるつもりだったのです。

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信長の姿を見ておきたいと思った道三は、先回りして町はずれの小屋に隠れて、やって来る信長の行列を確かめました。「信長公記」にも書かれているエピソードですが、道三が本当に覗き見したのかは不明です。

その時の信長は「大うつけ」と呼ばれるままのいでたちでしたが、信長にすれば「これが俺の普段着だ」と言わんばかりでしょう。その姿を初めて見て唖然とする道三が目に浮かんできます。

しかし、道三をもっと驚かせたのが、「三間半(約6・4メートル)の槍を持った槍衆500、鉄砲隊500」というお供たちでした。信長がただ者ではないと、この時点で道三は見抜いたのかもしれません。

対面の座に現れた信長

正徳寺の対面の座には、道三の家臣たちが正装をしてずらりと居並んでいました。道三は「大うつけ」の姿でやって来る信長に恥をかかせ、笑ってやろうと目論んでいたのです。

ところが信長は、先ほどの姿とは打って変わり、居住まいを正して現れました。さらに家臣たちには一瞥(いちべつ)もくれず、後から現れた道三に対しても自分から挨拶をしなかったほどです。

道三と信長がどんな会話を交わしたかは分かりませんが、対面は無事に終了し、道三は居城へと引き上げていきました。その途中、家臣が「信長は大うつけ(阿呆)でしたね」と言ったのに対し、道三はこう答えました。

「だから無念だ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになるだろう」※地図と読む現代語訳信長公記

信長の器量が、嫡男である斎藤義龍ら自分の子供とは比較にならないと、道三は認めざるを得なかったのです。同時に、同盟関係が解消された時、美濃が信長の属国になると予言したのかもしれません。

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強大な今川軍の砦を打ち破る

織田家のある尾張は、常に東から今川義元の侵略にさらされていました。義元は「海道一の弓取り」と呼ばれていた戦国屈指の大大名で、尾張に隣接する三河を属国化して勢力を伸ばしてきています。

武勇を誇った織田信秀が死んだこともあり、1554年に義元は三河尾張の国境の攻略にかかり、前線基地の砦(村木城)を築きます。当時信長は、織田一族内の抗争もあって、簡単に兵を出せない状況にありました。

そこで信長は「自分が出陣している間、本拠地(那古野)を守る援軍を派遣してほしい」と斎藤道三に依頼します。一つ間違えば、那古野を乗っ取られる危険もありましたが、信長は道三を信頼していたのでしょう。

信長軍は村木城を猛攻で落とし、今川軍の勢力を押し戻しました。信長が、信秀に匹敵する猛将だと分かり、義元は6年後に大規模な軍事作戦を決行するのです。これが有名な桶狭間の合戦となります。

援軍の役目を終えた斎藤軍も美濃に引き上げ、道三に信長の戦いぶりが報告されます。道三は「隣国には居てほしくない人物だ」と、改めて信長の力量に脅威を感じたようでした。※信長公記より

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息子に打ち倒された斎藤道三

美濃の事実上の支配者だった斎藤道三は、織田信長を評価していた半面、嫡男の義龍(高政)への評価は低かったようです。むしろ、義龍の弟たちをかわいがっていたとされます。

弟たちに後継者の座を脅かされると思った義龍は、病気を理由に呼び寄せて暗殺したのです。この事件をきっかけに、道三と義龍が美濃の国を二分する争い(長良川の戦い)が起きてしまいます。

戦いは、現当主である義龍の方に分があり、激戦の末に道三は敗れてしまい、討ち死にするのです。信長は、道三の援軍に出向きましたが、敗死の報を聞いて尾張に引き返しました。

信長公記」は、道三が主君である土岐頼芸を追放した仕打ちを引き合いに、当時の落首(世相を風刺した狂歌)を用いて「自身の自滅をもたらす」と、敗死が自業自得だったかのように書き記しています。

さらに、義龍が父親の道三を倒したことについても、次のように断罪しています。

「今の義龍は親不孝の重罪で、それを恥辱と思わねばならないのである」※地図と読む現代語訳信長公記

これらは、作者の太田牛一自身が「主君と家臣のあるべき姿」「親と子は長幼の序でなくてはならない」との考え方を表したのだと思います。

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兄に反旗を翻した弟・信勝

美濃の斎藤家で起きた斎藤義龍による弟たちの暗殺や父・道三との合戦を昨日ご紹介しましたが、こうした肉親同士の抗争は織田家も例外ではありません。織田信長にとっても、避けて通れない道だったのです。

信長には、同母弟の信勝(信行)がいました。父・信秀の葬儀でご紹介したように、「大うつけ」の振る舞いそのままの信長に対し、居住まいを正して葬儀に臨んだ信勝に、織田家の後継者を期待する家臣も多くいました。

信勝自身も、自分が織田家を継ぐべきだと思うようになり、やがて信長に反旗を翻します。信勝方には、柴田勝家林秀貞といった後に信長の重臣となる人物も含まれており、織田家を二分する争いになってしまいました。

二人の母である土田御前のとりなしもあり、一度は信勝も許されたのですが、他の織田一族に担がれ、再度信勝は決起します。しかし、信勝を見切っていた勝家によって、企てが信長に知らされたのです。

信長は一計を案じ、病気と偽って信勝をおびき寄せて謀殺し、お家騒動の芽を自ら摘み取りました。この時、見舞いを勧めたのは土田御前と勝家だったとされ、後に勝家が重く用いられるきっかけになったのです。

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暗殺団を直接詰問した信長

織田信長の上洛(京都入り)と言うと、足利義昭を奉じた大軍勢での上洛を思い浮かべるでしょうが、実は1559年に上洛していました。ほぼ尾張一国を統一した頃にあたります。

時の将軍・足利義輝への謁見を果たすとともに、京都、奈良、堺を見物したそうです。おそらく、信長自身が見聞を広げようとの目的で、各地を巡ったのだと思われます。

信長公記」によると、信長を狙って美濃から暗殺団が送り込まれたといいます。しかし、暗殺計画は未然に漏れてしまい、信長は直接暗殺団と対面したのです。信長は彼らに向かって、こう言い放ちました。

「未熟者の分際で信長を付け狙うとは、かまきりが鎌を振り上げて馬車に立ち向かうようなものだ。できるものか。それとも、ここでやってみるか」
※地図と読む現代語訳信長公記

度量が大きいと言えば、そうかもしれませんが、暗殺団に会うこと自体は不用心です。そこが、行動派の信長らしさとも言えます。結局、事なきを得て無事に尾張に帰国できたのです。

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歴史・人物伝~信長編では、若き日の織田信長について「信長公記」に沿って書いてきました。今回でひとまず終了しますが、いずれはこの続き、すなわち信長が世に出るきっかけとなった「桶狭間の合戦」について書いてみたいと思っています。

歴史・人物伝~信長編①~⑤「信長公記に見る若き織田信長」

織田信長家督を相続し、尾張一国を統一するまでの青年期について、エピソードや取り巻く人々を交えながら紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~信長編の①~⑤をブログで一括掲載します。

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信長の一代記を書いた男

「思い入れ歴史・人物伝」の本編スタートは、戦国時代を代表する英傑・織田信長から取り上げます。が、信長自身をストレートに紹介するのではなく、信長を取り巻く人たちの視点で書いてみます。

信長公記」を書いた太田牛一とは

織田信長の一代記である「信長公記」は、織田信長の側近だった太田牛一という人が、江戸時代に入ってからまとめた書物です。事象や合戦ごと丹念にまとめてあり、信長を知る上では欠かせない史料となっています。

信長の側近なので、信長を賛辞する記述が多くなっていますが、豊臣秀吉の「太閤記」とは違い、創作はほとんどないと思われます。また、合戦の描写が正確で、史料的価値も極めて高いといいます。

太田牛一は、信長より5歳ほど年上で、信長が家督を相続した頃から仕えていました。戦場での活躍よりも、官吏としての能力に優れていたようです。信長横死後も、秀吉、家康の天下取りを見続けてきました。

現代に例えると、太田は「大会社の秘書兼ジャーナリスト」という感じでしょうか。丹念に記録を残し、分からないところは人に聞く、すなわち取材をして書き上げています。

あの名場面も「信長公記」に書かれていた!

若き日の織田信長が登場するドラマや映画で、必ず描かれる名場面があります。信長の名を世に知らしめた「桶狭間の合戦」に向かう前、能の「敦盛」を舞って自らを鼓舞するシーンです。

あのシーンはドラマの創作、もしくは軍記物からの引用だと思っていました。ところが、太田が著した「信長公記」の桶狭間の合戦の中に、こんな描写があるのです。

この時、信長は「敦盛」を舞った。「人間五十年、(中略)滅せぬもののあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い(後略)
※地図と読む現代語訳「信長公記」より

太田の創作かもしれませんが、私は事実だと思っています。出陣前に信長が本当に舞ったからこそ、太田はあえて記録に残したのです。信長の死生観を今に伝える見事な描写ですよね。

「思い入れ歴史・人物伝~信長編」の執筆にあたり、以後も「信長公記」を参考にしたいと考えています。

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青年期の「大うつけ」信長

若い頃の織田信長は、人々から「大うつけ」と言われていました。うつけ者というと、暗愚というイメージを持ってしまいがちですが、信長の場合は「変わり者」という意味合いにとらえた方がいいでしょう。

信長公記」でも、青年期の信長をこう書いています。

「町中を歩きながら、人目もはばからず、栗や柿はいうまでもなく瓜までかじり食い、町中で立ったまま餅を食い、人に寄りかかり、いつも人の肩にぶら下がって歩いていた」※地図で読む現代語訳信長公記より

ドラマや映画での青年・信長の姿は、誇張表現されたものかと思っていましたが、衣装などは別にして、立ち振る舞いは「信長公記」を忠実に再現しています。作者の太田牛一も「見苦しい」としているほどです。

ただ、「信長公記」によると、弓、鉄砲、槍の稽古や鷹狩りという武士のたしなみは、しっかりと修練していました。とくに「鉄砲の稽古」を行っていたという記述は注目されます。

当時は鉄砲が日本に入ってきて、数年しか経っていません。信長がいち早く鉄砲に興味を示し、自ら扱い方を学んでいるというのは、彼の先見の明を知るエピソードとも言えますね。

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野心家の父・信秀の打った手とは

織田信長の父の織田信秀は、勇猛果敢で野心的な武将として知られていました。信秀は、織田本家の出身ではありませんでしたが、その実力をもって次第に勢力を拡大していきました。

ただ、信秀の周りは敵だらけでした。東には「海道一の弓取り」と言われた大大名・今川義元がおり、北の美濃は斎藤道三が事実上の権力者です。足元の尾張国内では他の織田一族との対立抗争があったのです。

そこで信秀は、斎藤道三と同盟関係になることを画策します。都合が良いことに、信秀には嫡男の信長がおり、道三には帰蝶濃姫)という娘がいました。そこで信長と帰蝶の政略結婚が成立したのです。

道三も、信秀の武略に手を焼いていたので、信秀との同盟関係はまさに「渡りに船」でした。おそらく帰蝶には、尾張の情勢を逐一報告するよう指示していたと思われます。

ですが、信長は「大うつけ」と噂されていた男です。嫁入りする帰蝶の気持ちは、複雑だったに違いありません。

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妻・帰蝶の謎に包まれた生涯

織田信長の父・織田信秀は、敵だらけの四面楚歌を打開するため、美濃の斎藤道三と同盟を結ぶため、信長の嫁に道三の娘・帰蝶濃姫)を迎えることになりました。

信長の正室(妻)となった帰蝶ですが、その生涯だけでなく、正確な名前すら伝わっていません。「信長公記」にも「道三の娘」としか記されず、美濃の姫だから「濃姫」と呼ばれていたようです。

信長には、嫡男の信忠や後に後継者争いをする信雄、信孝がいますが、いずれも帰蝶が生んだ子ではありません。おそらく、二人の間には子がいなかったか、いたとしても女子だったのではないかと思われます。

帰蝶の生涯は謎に包まれているため、ドラマなどでは脚色しやすく、中には「本能寺の変で信長と最後まで戦った」という演出もありました。道三の娘という血筋からも「戦える女性」を描きやすかったのでしょう。

私は、信長が美濃の攻略を始めた頃(1560~66年)に離縁したか、死別したと考えます。帰蝶が「濃姫」と呼ばれたのも、あくまで美濃との縁結び(同盟)のためで、敵対すれば解消されても仕方ないと思うからです。

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信秀の死と葬儀での出来事

道三の娘・帰蝶濃姫)を嫁に迎えた織田信長でしたが、間もなく悲しい出来事が起こります。父の信秀が病死したのです。40代前半での死は、若すぎるだけでなく、織田家の行く末にも影響を及ぼしました。

信長には同母の弟・信勝がいました。信長が「大うつけ」と陰口を叩かれていたのですから、家臣の中には「後継者には信勝がふさわしい」と思う者も少なからず存在していたと思われます。

それが顕在化するのが、万松寺で執り行われた信秀の葬儀での出来事でした。「信長公記」には、次のように記されています。

「その時の信長の出で立ちは、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅まげに巻き立て、袴もはかない。仏前に出て、抹香をかっとつかんで仏前に投げかけて帰った」※地図と読む現代語訳信長公記

今で言うならば、「ど派手な普段着のまま葬儀に現れ、焼香用の抹香を位牌に投げつけたて立ち去った」ことになります。信長は嫡男なので、当然喪主を務めているはずなので、驚くべき行動です(苦笑)

一方の信勝は、居住まいを正し、礼にかなった作法だったそうです。誰の目にも、「乱暴で礼儀知らずの兄」と「律儀で礼儀正しい弟」と写ったでしょうし、信勝に後継者を期待する声が出てもおかしくありません。

ただ、「信長公記」には、こんな記載もあります。

「筑紫から来た旅僧一人だけが、『あの方こそ国持ち大名になるお人だ』と言ったとか」※地図と読む現代語訳信長公記

これは私の推測ですが、作者の太田牛一が旅僧の言葉を借りて、信長を尊敬する自らの思いを込めたのではないでしょうか。その時の信長の振る舞いを見て、ここまで見通せた人がいたとは、とても思えないのです(笑)

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★歴史・人物伝~信長編⑥~⑩はこちら

rekishi-jinbutu.hatenablog.com

歴史・人物伝~序章「なぜ歴史好きになったのか。自己紹介も兼ねて」

note版「思い入れ歴史・人物伝」の序章をブログで一括掲載します。

教科書では学べないこと

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「思い入れ歴史・人物伝」のスタートは、誰からにすればよいのか? 昨日から迷っているのですが、その前に「どうして歴史上の人物に興味を持つようになったのか」を書きたいと思います。

私は中学、高校時代と社会科(地理・歴史)だけが得意で、常に好成績でした。しかし、それは「受験勉強の知識」に過ぎず、歴史を学ぶには「事象や人物を掘り下げなければならない」ことが分かったのです。

例えば、大化の改新は「645年に中大兄皇子中臣鎌足が、蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼし、新たな政治を始めた」と教わりました。しかし、なぜこのような事件(乙巳の変)が起きたのかは、深く学んでいません。

中大兄皇子は、後に天智天皇として即位しますが、事件から即位まで20年以上かかっているのです。その理由を掘り下げるには、中大兄皇子の人物像や天皇家を取り巻く当時の政治的背景などを知る必要があります。

歴史は人間が作るものなので、そこには人間らしいドラマが必ずあります。それを映像化したのが、ドラマやドキュメンタリー番組でした。次は、私の歴史好きを決定づけた「大河ドラマ」について書きます。

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大河ドラマの影響は大きい?

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NHK大河ドラマは、私の歴史好きを後押ししてくれます。戦国時代の明智光秀を主人公にした2020年の大河ドラマ麒麟がくる」が放送再開されて、本当によかったと思っています。

本腰を入れて見た最初の大河ドラマは、1988年の「武田信玄」でした。諏訪地方に住む私にとって、信玄はなじみ深い戦国武将で、後継者の勝頼を生んだ母親は「諏訪御料人」と呼ばれた女性だったからです。

ただ、どちらかというと信玄よりも、川中島の戦いで激闘を繰り広げた上杉謙信の方が私は好きです。ドラマでは柴田恭兵さんが演じ、「正義の何たるかを示す!」というセリフがお気に入りでした(笑)

大河ドラマは、舞台となった地域の観光誘客や活性化にも大きな効果を生んでいます。また、その地域を訪れることで、ドラマの主人公や人物たちの足跡に触れ、さらに歴史を深掘りする機会を与えてくれるのです。

私の趣味というか、道楽でもあるひとり旅では、「歴史の舞台を歩く」のも大きな目的の一つになっています。次は、歴史探訪の面白さについて書いてみたいと思います。

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歴史探訪も旅の目的に

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私が、ひとり旅を始めたのは30歳になってからです。旅先は日本国内だけですが、これまでに全47都道府県を旅して歩きました。通算のひとり旅も100回を超えています。

ひとり旅の目的の一つに「歴史探訪」があります。歴史上で起きた様々な出来事の舞台となった土地を歩いたり、現地の博物館・資料館を見学したりして、その当時に思いを巡らせているのです。

日本の歴史で最も有名な戦い「関ケ原の合戦」を探訪する旅では、東軍の徳川家康、西軍の石田三成ら武将たちが陣構えをした場所に立ち、合戦の状況をあれこれと想像してみました。

現地を訪れてみると、三成の陣は関ケ原が全貌できる好位置に付けていたことが分かります。他の西軍武将の配置を考えても、三成が戦略的な布陣を行ったことが一目瞭然でした。これも現地で再確認できたのです。

その土地を訪れて初めて分かったこと、改めて理解できたことなど、歴史探訪の面白さにどっぷり浸るのも旅の醍醐味です。新型コロナウイルスが早く終息し、再び旅行を楽しめるようにと願っています。

自己紹介を兼ねた序章はここまでといたします。

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タイトルの変更と、noteでの執筆開始

当ブログのタイトルを変更いたしました。これまでは「歴史・人物書きたい放題」でしたが、新しいタイトルは「思い入れ歴史・人物伝」です。

 

タイトル変更の深い意味はありません。実は、当ブログと並行してnoteでも歴史関係の連載を始めようと思い、8月9日から執筆をスタートさせました。noteは、私にとって初めての媒体となるため、書きやすいテーマとして歴史を選んだのです。

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これに伴って、当ブログも少しずつマイナーチェンジができればと思っています。具体的な構想には至っていませんが、当面はnoteへの執筆がメインとなるため、やや更新頻度が減るかもしれません(苦笑)

 

余談ですが、大河ドラマ麒麟がくる」が8月30日から再開されるようです。だいぶ間が空いたので、前のストーリーを忘れかけていますが、9日から3回の総集編を見ておさらいしておこうと思います。

 

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