歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~新選組編⑦~⑫「近藤勇と試衛館の同志たち」

幕末の京都にその名をとどろかせた新選組。局長の近藤勇をはじめ、土方歳三沖田総司ら中核を担った面々は、江戸の小さな道場「試衛館」の同志たちです。その銘々伝と近藤を取り巻く人々を紹介したnote版「思い入れ歴史・人物伝」~新選組の⑦~⑫をブログで一括掲載します。

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 一番隊長で人気ナンバーワンの沖田総司

ここからは、新選組の礎を築いた試衛館時代の仲間たちの銘々伝を語っていきます。

近藤勇土方歳三と並び、新選組の中でも知名度抜群なのが沖田総司です。近藤、土方より10歳ほど年下ですが、剣の腕は抜群だったようで、近藤から塾頭を命じられるほどでした。

沖田は「三段突き」と呼ぶ技が得意だったそうで、新選組時代は多くの浪士たちに恐れられていました。試衛館での指導ぶりは、かなり荒っぽかったと伝わっていますが、若さゆえだったのかもしれません。

ドラマで沖田総司を演じる俳優は、イケメンをキャスティングすることが多いようですが、当の沖田が美男子だったのかは定かではありません。病気により若くして亡くなったことからイメージされたのでしょう。

人柄については、新選組屯所だった八木家の八木為三郎が「子供たちと鬼ごっこをしたり、いつも冗談を言っていた」と振り返っています。人懐こい若者だったのではないでしょうか。

ちなみに、総司の姉は八王子千人同心の井上家から婿をもらい、沖田家を相続しました。これが、総司が天然理心流や試衛館との縁を結ぶきっかけになったのだと思います。

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新選組の変遷を書き残した永倉新八

新選組銘々伝は沖田総司に続き、永倉新八について書きます。永倉は、松前藩士の子として生まれた武士出身で、修行の最中に近藤勇と出会い、試衛館に出入りするようになりました。

永倉は神道無念流の使い手で、その実力は沖田を上回り、新選組では一番の剣の達人とも言われました。近藤勇とともに、浪士たちが集まっていた池田屋へ真っ先に突入した武勇伝が残っています。

一方で、近藤や土方の新選組運営に対し、異を唱えることもしばしばありました。「近藤のわがままが増長している」として、京都守護職松平容保会津藩主)に直接訴え出たことさえあったのです。

幕末・維新の激動を生き抜いた永倉は、明治になって間もなく、近藤や土方らを供養するための碑を東京板橋に建立しました。無念の思いで生涯を閉じた近藤の思いが、永倉にはよく分かっていたのでしょう。

大正時代まで生きた永倉は、自伝「新選組顛末記」を残しました。ここには、試衛館時代からの新選組の様々なエピソードが書き記されており、新選組の実像を知るための貴重な資料になっています。

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短気な槍の使い手の原田左之助

槍の使い手として知られる原田左之助は、幾つかの武勇伝を残している人物でもあります。かなりの短気だったと伝わっており、それを示す次のエピソードが有名です。

左之助は若い頃、「腹を切る作法も知らない」と馬鹿にされたことに腹を立て、本当に切腹をしてしまいます。幸い、命に別状はなかったのですが、その時の傷が腹に一直線に残されていたといいます。

しかも、そのことを反省するのではなく、何かといえば腹を見せ、「俺の腹は金物の味を知っている」と自慢していたそうです。豪放磊落な性格だったことがうかがえます。

坂本龍馬中岡慎太郎が京都で暗殺されたとき、新選組の犯行が疑われ、左之助が容疑者として浮かび上がりました。瀕死の中岡が「こなくそ」という方言を聞いたと証言したことがきっかけになりました。

左之助愛媛県出身で、「こなくそ」は四国地方の方言だったのです。ただ、もし左之助が犯人なら、刀ではなく得意の槍を使っただろうと私は思いますので、新選組の犯行ではないと考えます。

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全盛期に切腹した幹部・山南敬助

山南敬助は、土方歳三とともに新選組の副長を務めた幹部隊員ですが、その活動ぶりや人物像についてはあまり伝わっていません。新選組の全盛期に、切腹により世を去ってしまったからかもしれませんね。

永倉新八の「新選組顛末記」によると、山南は仙台の出身で、剣術の腕もさることながら、尊王攘夷思想の持ち主だったといいます。試衛館時代から上京する頃は、近藤勇も頼りにしていた存在だったのでしょう。

人柄は温厚篤実と伝わっており、新選組で現場の第一線に立った土方歳三に対し、裏方として近藤のサポート役を務めてきたのだろうと思います。それゆえに、徐々に土方と「そりが合わなくなった」のかもしれません。

新選組顛末記」では、切腹の様子に触れています。介錯をしたのは沖田総司で、山南は取り乱すことなく、作法にのっとって堂々と腹を切ったのです。近藤らに武士としての最後の意地を見せつけたかったのでしょう。

その姿に近藤は「浅野内匠頭でも、こうみごとにあいはてまい」と称賛したといいます。ちなみに大河ドラマ新選組!」では、山南を堺雅人さんが演じ、彼の切腹の回が最も反響が大きかったようです。

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切り込み隊長・藤堂平助の非業の死

試衛館時代からの同志の中で、最も年下だったのが藤堂平助でした。沖田総司とほぼ同年代で、若さもあってか、新選組では「切り込み隊長」として様々な修羅場の最前線に立っていたそうです。

平助は、藩祖に藤堂高虎をもつ津藩藤堂家の殿様の落胤だったと伝わっていますが、真偽のほどは定かではありません。仮に落胤なら、藤堂とは名乗らないと思うので、個人的には「偽」かなと思っています(苦笑)

そのエピソードを「真」と思わせたのは、平助が美男子だったからでしょう。新選組隊士の美男子と言えば、沖田が真っ先に浮かびますが、実は平助のことだったのではないかとも言われています。

平助は、試衛館の前に伊東甲子太郎の道場にも出入りしており、その縁で伊東一派を新選組に誘います。ですが、伊東は間もなく「御陵衛士」として分派し、最後は近藤らによって粛清されてしまうのです。

この時、平助は伊東とともに御陵衛士に加わったため、伊東粛清の際の油小路事件では、旧知の仲間たちと斬り合いになって殺害されます。永倉新八は平助を逃がそうとしましたが、かないませんでした。

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浪士組に参加して江戸を立つ

近藤勇をはじめ、試衛館の同志たちにとって大きな転機となる出来事がありました。幕府が上洛する将軍の警護のため、志のある者たちを募って京都に送り込む「浪士組」を組織したのです。

浪士組の発案者は、尊王攘夷思想の持ち主である清川八郎で、腕に自信があるならば身分は問わないという画期的な組織でした。そのため、幕府の予想を大きく上回る浪士たちが集まったといいます。

浪士組の中には、有名道場の出身者や名の知れた博徒、そして水戸藩出身の芹沢鴨といったそうそうたる面々がいました。町道場に過ぎない試衛館は、さほど目立たない存在だったと思われます。

それでも、実戦的な剣術である天然理心流の真価を発揮するには、これ以上ない条件であり、佐幕意識の高い多摩出身の近藤は、幕府に取り立ててもらう絶好のチャンスだと考えたのかもしれません。

浪士組は小石川の伝通院を出発し、中山道を通って京都へと向かいました。近藤勇を筆頭に、土方歳三沖田総司山南敬助永倉新八原田左之助藤堂平助井上源三郎の胸に去来した思いは何だったのでしょうか? 

思い入れ歴史・人物伝~新選組編は、ひとまず今回で終了させていただきます。いずれ、京都での活躍も書きたいと思っています。

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