歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~新選組上洛編①~⑥「京までの道のりと京での浪士組」

noteで連載していました「歴史・人物伝~新選組上洛編」が完結しました。①~⑥までを一括掲載いたします。

歴史・人物伝は、今回から幕末の京を震撼させた集団「新選組」について書いていきます。前回は「新選組同志編」として、近藤勇と同志たちの銘々伝をご紹介しました。今回は「上洛編」と題し、江戸を出発した近藤らが上洛を果たすまでをたどりたいと思います。

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京に向かった近藤勇と同志たち

幕末の京都の治安維持のため、幕府は「毒を以て毒を制す」の考えからか、浪士集団(浪士組)を編成して上洛することになりました。この浪士組に参加したグループの一つが、近藤勇率いる試衛館道場でした。

小石川の伝通院に集結した浪士組には、有名道場の出身者や水戸の脱藩浪士、さらに名のある博徒といった海千山千の面々ばかり。小さな町道場の試衛館はその中の無名集団に過ぎませんでした。

それでも近藤勇は、将軍を警護して攘夷を果たすという使命感に燃えていました。同志である土方歳三沖田総司山南敬助永倉新八原田左之助藤堂平助井上源三郎も同様だったに違いありません。

浪士組を幕府に献策したのは、尊王攘夷の志士・清川八郎です。ただ、清川の胸の内は「幕府のため」ではありません。幕府を利用して、尊王攘夷の戦闘集団を作り上げようとの策略を秘めていたのです。

そんなこととは露知らず、近藤一派を含んだ浪士組が江戸を出発しました。近藤は、先発して宿を割り振りする役目を仰せつかります。ところが、本庄宿(埼玉県)で宿割りのミスから思わぬ事件が起きてしまうのです。

事件の主役こそ、水戸脱藩浪士の芹沢鴨でした。

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傍若無人芹沢鴨という男

京へと出発した近藤勇らを含む浪士組は、中山道を進んでいきます。血気盛んな男たちの集団ですので、何が起きるか分かりません。その心配が早くも本庄宿(埼玉県)で起きてしまうのです。

宿泊先を手配する宿割りという役目を近藤と池田徳太郎が担当していましたが、本庄宿で三番組組頭の宿を取るのを忘れてしまいました。その組頭こそ、水戸脱藩の荒くれ者として知られる芹沢鴨なのです。

後に新選組の前身である壬生浪士組の筆頭局長を務めた芹沢ですが、前半生は謎に包まれています。ただ、水戸出身ということで名前は知られていたと思われ、壬生浪士組を預かった会津藩でも一目置かれた存在でした。

宿を忘れられた芹沢は怒気を含めて「俺は野宿でいい」と突っ張り、宿場の中心で大きなかがり火をたき始めたのです。慌てた近藤と池田は、芹沢の宿を探すとともに平身低頭で謝る羽目になりました。

すったもんだの末、ようやく宿に入った芹沢ですが、今度は「三番組」と書かれていた札が気に食わず、自分で「一番組」と書き換えてしまいます。常に先頭に立つという気構えを見せつけた、といったところでしょう。

後に、宿命とも言える存在となる近藤勇芹沢鴨の出会いは、トラブルという形から始まりました。近藤にとっては、芹沢を強烈に意識するだけではなく、屈辱的とも言える仕打ちだったに違いありません。

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中山道を歩く浪士たち

京の治安維持のために幕府が組織した浪士組は、中山道を進んでいきます。途中には碓氷峠和田峠といった峠越え、木曽谷などの難所が幾つもありましたが、なぜ東海道ではなく中山道だったのでしょう。

浪士組の面々は素性に問題があったり、粗暴だったりする連中なので、道中で事件などを起こされてはたまらないから、東海道を避けたのではと言われています。それも理由の一つだったでしょう。

他にも理由は考えられます。まず、東海道には橋が掛けられていない大井川と、海路を使う伊勢湾という二つの関門がありました。さらに、国内で最も厳しいとされた箱根の関所を通らねばなりません。

道中での「手間」という点を考えれば、歩いていさえすれば到着できる中山道の方が都合がよかったのでしょう。当時の中山道は主要幹線路であり、和宮様の嫁入り行列も中山道を進みました。

ところで、私の住む諏訪地方には中山道の宿場町・下諏訪があります。上洛する浪士組にとっては、和田峠という難所を超えた先にある宿場ですので、必ず宿を取っていただろうと思われます。

下諏訪には湯量豊富な温泉がありますので、浪士組一行の長旅を癒したに違いありません。今も残る名湯に、近藤勇土方歳三新選組の面々が浸かったのだと思うと、歴史のロマンを感じます。

今回は、浪士組とは直接関係のない話を書きましたが、ご容赦を(笑)

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ついに京の都に入る

江戸から中山道を進んでいた浪士組は、10数日かけて京に到着しました。幕府の管理下にあるとはいえ、物々しい武装集団がやって来たことを人々はどんな目で見ていたのでしょうか?

浪士組が荷を下ろしたのは京都市の南西部にあたる壬生村です。京都御所祇園といった中心地からは遠い場所で、近藤勇らが故郷の多摩を思い浮かべるような郊外の散村だったようです。

一行は村内の郷士宅などに分宿し、近藤のグループは芹沢鴨のグループとともに八木邸と前川邸に滞在します。近藤と芹沢が同宿した理由はよく分かりませんが、このことが後の新選組結成につながっていくのです。

八木邸には当時、為三郎という少年がいました。八木為三郎は老後、作家の子母沢寛の聞き取りに応じ、当時の思い出を語ります。それが「新選組遺聞」という著書になり、新選組の実像を知る資料となりました。

新選組遺聞」には、近藤、芹沢をはじめ、土方歳三沖田総司らがどんな人物だったのかが書かれています。壬生村の大人たちには恐ろしい集団でしたが、為三郎少年は好奇心を持って見ていたのでしょう。

京に到着し、休む間もなく近藤や芹沢をはじめ、浪士組の主だった面々が集められます。そこで、浪士組結成を幕府に提案した清川八郎から「本当の目的」を聞かされるのです。

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清川八郎に異を唱える

不逞浪士たちから将軍を守ることを目的とし、清川八郎の献策を受けて幕府が組織した浪士組でしたが、清川の真の目的は別でした。京都に着いて間もなく、清川は京都御所孝明天皇)に建白書を差し出したのです。

建白書は「国のため攘夷に尽力する」と天皇に誓ったもので、「浪士組は幕府ではなく、天皇の命に従う」と公言する狙いがあります。天皇の命であれば倒幕も辞さないとも取れる内容でした。

そのうえで清川は、攘夷決行のため、江戸に引き返すよう求めたのです。浪士組を監督していた幕府の役人は驚愕しましたが、建白書が天皇の目に触れてしまったため、清川の言い分を覆せませんでした。

ところが、清川に決然として異を唱えた者がいたのです。それが芹沢鴨でした。芹沢は「将軍が上洛中なのに江戸へ戻るのは道理に合わない。京でも攘夷はできる」と言い切り、京に残る道を選択しました。

八木、前川邸で芹沢と同宿だった近藤勇ら試衛館のグループも芹沢に同調します。多摩出身の者が多い近藤らにとっては、将軍こそが「仕えるべき主君」だと思っていたに違いありません。

ただ、浪士組の大多数は清川とともに江戸へ引き返してしまいます。残ったのは芹沢、近藤ら10数人。幕府の管轄下から離れる彼らに、助け舟を出したのが京都守護職会津藩だったのです。

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会津藩お預かりに

幕府が組織した浪士組は清川八郎の策略にまんまとはまり、天皇の意をくんだ尊王攘夷集団に様変わりしてしまいました。これに異を唱えた芹沢鴨近藤勇の一派だけが浪士組から離れることになったのです。

清川は攘夷決行のため、江戸に引き返す決断をします。清川に煮え湯を飲まされた幕府首脳は、芹沢、近藤一派が京に残り、将軍警護と治安維持という当初の目的を果たせるよう知恵を絞ったのです。

当時、京都で治安維持の最高責任者だったのは、会津藩松平容保でした。幕府首脳の要請を受け、芹沢、近藤一派を「会津藩お預かり」として召し抱えたのです。芹沢らにとっては有り難い「助け舟」でした。

会津藩が彼らを受け入れた背景には、治安維持のためには志士たちの監視だけでなく、粛清という手段も選ばねばならず、そうしたダーティーな仕事を芹沢、近藤一派に担わせようとしたのではないかと推察されます。

加えて、芹沢鴨が水戸脱藩浪士で尊王攘夷の志が高かったことも、松平容保の目に留まったのではないでしょうか。むろん、この時点では近藤勇らの存在を容保が知る由もなかったわけです。

こうして、会津藩お預かりの身として京に滞在することが出来た芹沢、近藤一派は、引き続き壬生村に滞在し「壬生浪士組」となって活動を開始。これが、後の「新選組」になっていくのです。

新選組上洛編は今回で終了します。この続きは改めて書きたいと思います。

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新選組始末記―新選組三部作 (中公文庫)

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  • 作者:子母沢 寛
  • 発売日: 1996/12/18
  • メディア: 文庫