歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」歴史書によって真逆に描かれた比企の乱

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、御家人たちの苛烈な権力争いがピークを迎え、将軍頼家の急病発症をきっかけに、北条氏と比企氏が争いを激化。比企氏を滅ぼした北条氏が、名実ともに御家人のトップに立つことになるのです。

比企氏と北条氏の対立

比企の乱と呼ばれる騒乱は、比企氏の当主である比企能員の謀殺に端を発します。能員の娘は頼家の側室となり、嫡男である一幡を産みました。一幡が将軍になれば能員は外祖父として、権力の中心に座ることができるのです。

一方の北条氏、とくに北条時政は頼家の弟である千幡の祖父にあたります。頼家に万が一のことがあれば、幼い一幡よりも千幡を押そうという声が大きくなるはずです。しかも、千幡の乳母が時政の娘・美衣(阿波局)だったことも影響しています。

鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡では、能員と頼家が北条氏殲滅を企てますが、それを知った北条政子が時政に通報。時政は戦闘態勢を整えた上で、能員を呼び出して殺害し、そのまま比企氏に軍勢を仕向けて滅ぼしてしまうのです。

一方、京の朝廷に近かった慈円が書いたとされる愚管抄によると、比企の乱は北条氏による陰謀が原因で、能員は時政におびき出されて殺されたとしています。頼家が出家して一幡に家督を譲ったのが事実なら、比企氏が謀略を図る理由がありません。

比企氏はなぜ滅んだのか

比企氏が滅んだ理由を私なりに考えてみると、比企氏は頼朝など源氏との結びつきこそ深かったのですが、御家人のなかでは支持者が少なかったのではないでしょうか。その点、北条氏は御家人たちの支持を着実に集めていました。

例えば、三浦氏は頼朝挙兵以前からの盟友であり、三浦一族の和田義盛との絆も深いです。また、安達氏も盛長から景盛に代替わりし、後に安達氏と北条氏の関係を考えると、比企側から北条側に変わっていったのではないかと思います。

有力御家人で、頼朝や頼家から絶大な信頼を受けていた梶原景時が失脚したことは、比企氏にとって権力者に一層近づけた好機となったのですが、言い換えれば、それによって北条氏ら御家人たちのターゲットになってしまったとも言えます。

忘れてはならない視点は、北条氏が時政、義時、政子という「三枚看板」だったのに対し、比企氏は能員一人で対抗していたということです。だからこそ、能員は御家人たちを味方にしなければならなかったのですが、それができませんでした。

佐藤二朗さんの怪演

「鎌倉殿13人」では、北条時政や義時が「比企氏を滅ぼさねば鎌倉はまとまらない」と考え、能員の謀殺と比企氏殲滅に動いたというストーリーでした。ただし、謀略ではなく、大義名分を得るところは、義時を主役としたドラマらしい展開です。

比企氏は、早くから北条氏との対決姿勢を鮮明にしており、何度も追い落としを図ろうと画策しました。それを印象付けたのが、比企能員を演じた佐藤二朗さんの怪演です。裏表のあるうさんくさい人物像は、強烈なインパクトでした。

謀殺の場面でも、平服の下に鎧を身に付けるなど猜疑心の強さを鮮明に見せつけましたが、堂々と戦支度で迎えた時政(坂東彌十郎さん)とは対照的でした。しかし、お互いにお家繁栄を常に願っていたという思いは同じだったのですね。

そして北条義時が、「北条家が板東武者の頂点に立つ」という思いを明確にさせた回でもありました。石橋山の合戦で戦死した兄の宗時の回想が出てきましたが、その野望がいよいよむき出しになってくるのでしょう。次週以降も注目ですね。

※このコラムはnoteと共通記事です

 

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