歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

大河ドラマ「麒麟がくる」についての感想

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大河ドラマ麒麟がくるが、昨夜の放送で最終回を迎えました。このドラマがスタートした時から、最終回は「本能寺の変」だと分かっていましたので、どんな描かれ方をするのかに注目していたのです。

改めて本能寺の変について紹介すると、天下統一にばく進していた織田信長に対し、重臣明智光秀が信長と嫡男・信忠を殺害した謀反で、その後の日本史の転換点となった事件です。

光秀が謀反を起こした理由は昔から様々な推測がされてきましたが、「麒麟がくる」では「光秀が一人で考えて決断した」という筋書きでした。ただし、野望や恨みではなく「排除する」との視点になっていました。

自害の前に信長は「わしを焼き尽くせ」と命じました。信長という存在そのものを世の中から完全に消してしまうとの意図だったと思います。それは光秀の「排除」の理屈とも、ある意味合致するのではないでしょうか。

少し前の回で、帰蝶(信長の妻)との間で「信長が死んだら、光秀も死ぬ」との会話がありました。それはドラマで、光秀の敗北や非業の死がリアルに描かれなかった理由づけにもなっていたのでしょう。

ひとつ釈然としないのは、タイトルの「麒麟がくる」の意味です。光秀は麒麟を呼ぶ存在ではなかったという結末でした。では、麒麟を呼ぶのは誰か、麒麟とは誰のことだったのか? 私には分かりません(苦笑)

最後に、放送中も話題になった架空人物の扱いです。ラストで天皇や将軍が光秀への思いを架空人物(東庵、駒)に語っていますが、あの場面はモノローグでも十分だったなあ、というのが率直な感想です。

1年間たっぷり楽しませていただきました。制作者や俳優さん、スタッフの皆さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。

※当ブログはnote版「歴史・人物伝~わたし編」より転載いたしました

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