歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回からその後への3つの伏線

11日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣から、北条政子御家人を束ねた名演説、そして大規模な軍事衝突(承久の乱)へと向かうというストーリーでした。

今回のブログでは、私が気になったシーンをピックアップしてみます。それが、最終回でどのように描かれのるか、あるいは描かれないのか、さらにはドラマ終了後も続く歴史の流れにどう影響してくるのか、そのあたりを書いてみました。

 

1 三浦義村の究極の二股膏薬

三浦義村は、弟の胤義が京都にいることを利用し、後鳥羽上皇(朝廷側)への接近を謀ります。もともと北条氏に不満を持っている胤義は、朝廷側に付き、京都守護の伊賀光季(伊賀の方・のえの兄)を血祭りに上げます。

義村の元には上皇から義時追討の院宣が届き、これを大義名分に反北条勢力の結集を画策しようとします。しかし、院宣が複数の御家人に乱発されたことを知り、義時ら幕府執行部に自ら院宣の存在を明かしたのです。

義村の考え方は終始一貫して「三浦氏の存続」の一点しかありません。朝廷側に付けば盟友の義時を討つことになり、幕府側に付くなら胤義と敵対関係になってしまいます。それらをすべて折り込み済みで行動しているのです。

政子の名演説によって御家人が一致団結したことで、義村は「弟を切り捨てる」という選択をするわけです。まさに究極の二股膏薬と言えるでしょう。

 

2 伊賀の方の義時毒殺説を補強

北条義時の死について、古くから暗殺説がささやかれていました。同時代の貴族である藤原定家の日記のなかに、伊賀の方(のえ)が毒殺したことを匂わす記述がありますが、私はこの記述に疑問を持っています。

伊賀の方は、執権の有力な後継候補だった泰時ではなく、自分の子の政村を執権にしようと画策していました。もしも毒殺を考えるのであれば、義時よりも泰時を狙うのではないでしょうか。つまり、義時を殺す動機が見当たらなかったのです。

ところが、ドラマは動機を明確にさせました。それが、兄の伊賀光季の討ち死にだったのです。のえは、義時が兄を見捨てたと思い込み、激しい憎しみを持ちます。のえ役の菊地凛子さんの鬼の形相がそれを表していました。

最終回は義時の死が描かれると思われます。そこに、のえがどのようにかかわってくるのでしょうか。興味は尽きません。

 

3 伊賀の方の政変への伏線か

おそらく、ドラマでは描かれないと予想されるのが、義時の死後に起きた伊賀の方の政変。政村を後継執権にするばかりではなく、三寅(藤原頼経)を廃して、娘婿(一条実雅)を将軍に立てようとした企てです。

これを阻止したのが政子だったわけです。ドラマの中で、義時が「泰時を後継者に据えたい」という本心を明かしたことで、政子も次期執権は泰時と決めていました。さらに演説のシーンで、御家人たちの士気を高めたのも泰時でした。

この政変にも三浦義村が一枚かんでいました。義村は政村の烏帽子親であり、泰時よりも政村の方が扱いやすいと考えていたでしょう。伊賀の方や伊賀一族も、幕府の長老格である義村の実力を頼みにしていたふしがあります。

政子は、自ら三浦邸に赴いて義村を直接ただし、泰時の執権就任に異議の無いことを確約させます。政子が「尼将軍」としての威厳をみせつけたわけです。

 

それにしても、北条政子の演説シーンは見事でした。弟の義時を救いたいという思いを持ちつつも、同時に兄の北条宗時が夢見て、夫の源頼朝と義時が築き上げた「坂東武者が築いた政権」を何が何でも守り抜く決意が込められていました。

おそらく、源実朝が存命中はそこまでの思いは無かったのではないかと思います。実朝を失い、義時が上皇から朝敵扱いされたことにより、思いが強まったのではないでしょうか。小池栄子さんの迫真の演技に思わず引き付けられましたね。

 

 

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