歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~松陰先生編①~⑦「吉田松陰とその学び、教えとは」

幕末の長州藩で多くの人材を育てた吉田松陰。松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。松陰の「学び」や「教え」とは、どんなものだったのでしょうか?

note版「思い入れ歴史・人物伝」~松陰先生編の①~⑦を一括掲載しました。

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吉田松陰が「先生」と呼ばれる理由は?

幕末から明治にかけて、長州藩山口県)出身者が大勢活躍しました。明治のリーダーだった伊藤博文山県有朋維新三傑の一人・木戸孝允桂小五郎)、そして幕末の英傑である高杉晋作久坂玄瑞

木戸を除く4人は松下村塾で学びました。その師こそが吉田松陰です。松下村塾は地方の小さな私塾に過ぎませんが、日本の歴史を変え、明治の日本社会を支えた人材が次々と巣立っていきました。

松陰の教えとは

吉田松陰は、地元の山口県萩市で今でも「松陰先生」と呼ばれ、多くの人たちの尊敬を集めています。木戸や伊藤、山県らをあまり「先生」と呼びませんが、なぜ松陰だけが「先生」なのでしょうか?

その理由は、松陰の教えにあるのではないかと私は推察します。一つは、単に知識や教養を得るだけの学問ではなく、その知識を実践に生かすことが大事という考え方です。

もう一つは、身分の分け隔てなく誰でも入塾を認めたという姿勢です。高杉のような上級武士の子もいれば、足軽など軽輩も多く、「学びに身分差別はない」というのが松陰の信条でした。

松陰は優れた指導者でしたが、同時に革命の志士でもありました。その激烈な生涯は、安政の大獄によりわずか30年で閉じたのです。松陰が残した教えは、高杉や久坂らに引き継がれ、維新へとつながっていきます。

吉田松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。その生涯をたどりながら、「松陰の学び」をキーワードに松陰先生編を書いていきたいと思います。

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幼き頃から学問に打ち込む

吉田松陰は、1830年に杉家の次男として生まれ、叔父の養子となって吉田家を継ぎました。吉田家は山鹿流兵学師範を務めており、それにふさわしい教育が求められたのです。

幼い松陰を教育したのは、父の末弟にあたる玉木文之進でした。文之進は松下村塾を開き、ここで松陰も学びます。叔父・甥の関係でしたが、文之進はたいへん厳しく松陰を教えたとされています。

妹・千代の回想によると、松陰は他の子供たちのように「遊び」をすることは全くなく、「机に向かうか、筆をとっている姿しか思い浮かばない」と振り返っています。大変な努力家だったことがうかがえます。

文之進の教育があってか、松陰の学才は藩主・毛利敬親の知るところとなり、11歳にして敬親の御前で講義を行いました。そして、20歳前後には藩校明倫館で兵学を教えるまでになったのです。

ちなみに、文之進が創設した松下村塾は彼の旧宅を使っており、その後松陰が引き継ぐ形となった松下村塾松陰神社境内、世界遺産に指定)とは少し離れた場所にあります。

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全国を歩き、自分の目・耳で学ぶ

20歳前後の若さで藩校・明倫館で兵学を教える身となった吉田松陰ですが、学ぶことを忘れたわけではありません。地元の萩に居るだけでは机上の学問になってしまうと考え、遊学の旅に出ます。

松陰は、南の九州熊本から江戸、そして北は津軽(青森)までくまなく歩きました。兵学師範の松陰にとって、海外列強からの海防が最大のテーマとなっており、現地を訪れることで自らの目や耳で確かめたかったのです。

私事ですが、以前に津軽半島突端の竜飛岬を訪れた際、「吉田松陰詩碑」を見学し、「こんなところまで来ていたのか」と驚いたことがありました。交通機関のなかった当時としては、大変な道のりだろうと推察されます。

松陰は、津軽海峡に外国船が往来していることを知り、現地を確かめながら具体的な海防策を考えたのだと思います。机上だけでなく、実践することの大切さを体験し、学んだのではないでしょうか。

さらに松陰は、自身の知見を深めるため、江戸で多くの人物と交流するのです。

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佐久間象山ら多くの逸材と交流

全国を視察して歩き、見聞を広げてきた吉田松陰は、江戸で砲術や兵学の勉強に励みます。松陰が学びの師に選んだのは、西洋砲術家であり、当時最高の知識人と言われていた佐久間象山です。

この頃、勝海舟(海舟の妹婿が象山)をはじめ、坂本龍馬、橋本佐内、河井継之助ら様々な立場で幕末に活躍した人材が、象山の元で学んでいました。つまり、全国から集まった逸材と松陰は交流していたのです。

その一人、熊本藩宮部鼎蔵とは意気投合し、二人で東北地方に視察の旅をしました。藩の許可が出る前に旅立ったため、松陰は脱藩の罪で国元に戻されますが、藩主によって許され、再び江戸遊学に出ます。

そして、江戸を震撼とさせる事態が起こります。1853年にアメリカのペリーが浦賀に艦隊を率いてやって来ました。江戸にいた松陰は、この事態に衝撃を覚えるとともに、ある決意を胸に秘めていくのです。

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外国に学ぼうとして密航を企てる

ペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来て、諸外国の脅威を目の当たりにした吉田松陰は、海防の重要性を再認識するとともに外国の優れた軍事力や文化に驚いたのです。

松陰は「外国を討つべし」という攘夷思想の持ち主でしたが、同時に「外国から学ぶべきことは多い」との考えも持っていました。そこで、一番弟子の金子重輔とともに外国留学の手立てを探ります。

翌年、ペリーが下田に再度来航したのをチャンスと思い、金子とともに旗艦に乗り込み、渡航を申し入れました。しかし、幕府との関係悪化を懸念したペリーは拒絶し、外国留学の夢は断たれたのです。

幕府に引き渡された松陰と金子は、密航の重罪人として投獄されます。死罪になる可能性もあったのですが、最終的には長州藩に護送され、国元での蟄居を申し付けられました。

もし松陰と金子が渡航を果たしていたならば、松陰が松下村塾を開くこともなく、優秀な人材も集まるべくもなく、あるいは長州藩の歴史が変わっていたかもしれません。まさに「歴史の大きな岐路」だったのです。

国元に送り返された松陰は、野山獄に収監されます。そして、金子重輔は病気が悪化し、獄中で亡くなってしまいます。松陰は、金子の死を深く悼み、「死を招いた原因は自分にある」と自身を攻め続けていたのです。

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獄中で教え、学び合う松陰や囚人たち

ペリーの来航を狙った渡航作戦に失敗し、密航の罪で国元に返された吉田松陰は野山獄に収監されます。そして、松陰の密航に付き従った一番弟子の金子重輔が亡くなってしまい、意気消沈してしまいました。

野山獄は監獄とはいえ、比較的自由がきき、家族との面会も可能だったようです。また囚人とはいっても、比較的身分の高い人たちが入っており、そうした人たちは様々な教養を身に着けていたのです。

藩主に講義をしたほどの松陰ですので、その講義を聞きたいと思う人がいても不思議ではありません。金子の死で落ち込んでいた松陰は勇気づけられ、やがて獄中で「孟子」の講義を始めます。

ここから、互いに教え、学び合う「獄中勉強会」に発展していきます。囚人だけでなく、看守までその輪に加わるほどでした。また、後に松下村塾の講師となった富永有燐とも出会っています。

その中に、唯一の女性だった高須久子がいました。久子は、若き才能のある松陰に興味を持ち、松陰もまた、自分が持っていない短歌や俳句の感性がある久子に尊敬の念を抱いていたと思われます。

松陰は約2年半で野山獄から出て、自宅幽閉処分に切り替えられるのです。

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仲が良かった松陰と、きょうだいたち

野山獄での収監から許された吉田松陰は、自宅の杉家で幽閉の日々をおくることになります。杉家は、父の杉常道、母の滝、兄の杉梅太郎(民治)のほか、複数の妹や弟たちが暮らしていました。

梅太郎は松陰の2歳年上で、兄弟の仲はとてもよかったそうです。幼い時から松陰を生涯励まし続け、明治になって官職を退いてから松下村塾を継承しました。晩年は松陰の思い出話を人に聞かせていたといいます。

千代は松陰の2歳年下の妹で児玉家に嫁ぎました。明治41年に雑誌のインタビューで兄・松陰について語っていますが、松陰の人柄や家族愛など、血気盛んな志士とは違った人物像を紹介したのです。

寿は小田村伊之助(楫取素彦)と結婚します。小田村は松陰とほぼ同世代の長州藩士で、松下村塾を開いたり、再度牢に入れられたりした時には、良き相談相手になったようです。

文は松下村塾の塾生だった久坂玄瑞と結婚します。久坂は若くして亡くなってしまいますが、その後も杉家とは縁が深く、明治になって寿の死去後、楫取と再婚するのです。

末弟である敏三郎は、生まれつき耳が聞こえなかったそうです。幽閉の身だった松陰は、家族相手に講義を行っていましたが、障害のある敏三郎を教えることは松陰自身も勉強になったのではないでしょうか。

自宅での教えは、家族から近所の人たちへと広がっていき、やがて叔父の玉木文之進が開いた松下村塾を継ぐようになるのです。

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