歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~松陰先生編⑧~⑫「吉田松陰とその学び、教えとは」

幕末の長州藩で多くの人材を育てた吉田松陰。松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。松陰の「学び」や「教え」とは、どんなものだったのでしょうか?

note版「思い入れ歴史・人物伝」~松陰先生編の⑧~⑫を一括掲載しました。

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逸材が学び、育った松下村塾

野山獄の収監から自宅幽閉となった吉田松陰は、獄中での講義経験を生かして、家族を相手に「孟子」の講義を始めます。これを聞きつけた近所の人も講義に加わるようになったのです。

松陰の評判は徐々に高まっていき、講義を受けたいと希望する若者が増えてきました。そこで、自宅の庭先にあった小屋を改装し、叔父の玉木文之進が創設した「松下村塾」を引き継いだのです。

松陰は、自らの思想である「尊王攘夷」を基本に、儒学兵学、史学などを講義し、時には塾生同士が議論することも督励しました。また、身分の隔たりなく誰でも入塾できたのも松下村塾の特徴でした。

塾生たちも日々の学びや議論を通して知見を蓄えます。その中から、久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿伊藤博文入江九一、野村和作、山県有朋ら幕末から明治にかけて活躍した逸材が育ったのです。

松陰自身も20代中頃と若かったので、塾生からすれば「先生」であるとともに「兄貴分」でもありました。松陰の側からしても「弟分」にあたる塾生たちに学ぶことは多かったのではないでしょうか。

次回からは、松下村塾で学んだ「松陰の教え子たち」より、代表的な人物を紹介していきます。併せて、松陰の盟友だった人たちにも触れていきます。

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防長第一の人物と評された久坂玄瑞

吉田松陰松下村塾)の教え子たちの一人目は久坂玄瑞を取り上げます。

藩医の子に生まれた玄瑞は、18歳の時に九州に遊学した際、宮部鼎蔵と出会います。宮部は、かつて松陰と東北視察に出向いた友人であり、「長州人なら松陰に学びなさい」と助言されたのです。

松下村塾に入塾した玄瑞は、松陰の教えを受けながら才能を開花させていきます。松陰は「防長第一の人物」とまで高く評価し、妹・文の結婚相手に推したほど、かわいがっていました。

松陰の思想である「尊王攘夷」を自身の思想として掲げ、松陰の死後は「尊王攘夷」の若きリーダーとして京都などで活動します。玄瑞の生涯で最も輝いていた時期ではないでしょうか。

長州藩は政変によって京から追放されましたが、主導権奪還のために京へ軍勢を進発させます。この先頭に立ったのが玄瑞だったのです。しかし、蛤御門の変長州藩は敗れ、玄瑞は自刃しました。

玄瑞は、土佐藩尊王攘夷のリーダーだった武市瑞山と交流しており、坂本龍馬中岡慎太郎とも面識がありました。龍馬や慎太郎にも「松陰の教え」を伝えていたのではないかと思います。

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奇兵隊を作り上げた男・高杉晋作

吉田松陰松下村塾)の教え子たちの二人目は高杉晋作を取り上げます。

松陰が「防長第一の人物」と評した久坂玄瑞の良きライバルであり、友人でもあった高杉晋作は、塾生の中でも身分の高い武家の出身です。入塾して間もない頃は、武士としてのプライドも高かったと思われます。

しかし、身分を超えて集まった優秀な塾生たちを見て、「人材は決して武士の中だけにいるわけではない」と考えるようになりました。それが、松陰の教えの一つ「草莽崛起(そうもうくっき)」につながるのです。

草莽崛起とは、在野の人々に変革を促すという意味です。晋作は、それを実践に移し、様々な身分の人たちが混在する軍事組織「奇兵隊」を創設します。やがて、倒幕に向かう長州藩の主力部隊に育っていくのです。

晋作が、松陰からの手紙で学んだ有名な言葉があります。

死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし

人の生死は「自分が何を成し遂げるか」によって決まる、と言いたかったのでしょう。若き晋作の心に刺さった言葉は、その後の生き方に影響を及ぼしていったのです。

 高杉晋作はたくさんのエピソードを残し、幕末でも極めて魅力的な人物です。個人的にも大好きな偉人なので、いずれ「晋作編」として紹介できればと思っています(笑)

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池田屋事件に巻き込まれた吉田稔麿

吉田松陰松下村塾)の教え子たちの三人目は吉田稔麿を取り上げます。

松下村塾の双璧と呼ばれた久坂玄瑞高杉晋作に匹敵する人物だったのが、吉田稔麿です。人によっては、久坂、高杉と並んで「松門の三傑」と称したり、入江九一を加えて「四天王」と呼んだりしています。

稔麿は、塾生の中では物静かなタイプだったといい、松陰から「識見に優れている」と評価されていました。しかし、幕末の動乱で活躍した久坂や高杉に比べ、稔麿は歴史に名を残せなかったのです。

長州藩が京都から追放された政変後も、密かに京都で活動を続けていた稔麿でしたが、ある歴史的な事件に巻き込まれてしまい、命を落としました。志士を取り締まっていた新選組が一躍名を上げた「池田屋事件」です。

事件では、多くの志士たちが殺されたり、捕縛されたりしました。その中に、松陰の友人だった宮部鼎蔵がおり、稔麿も松陰との縁で宮部とのつながりがあったのだと思われます。

最後に、漢学者の牧野謙次郎が明治になって語った「維新伝疑史話」に出てくる話を紹介します。

稔麿が、放たれた牛の絵を描き、その下に烏帽子、木刀、木の棒を添えた。山県有朋が何を意味するのか尋ねると、「高杉晋作は人にしばられることを好まない暴れ牛のようなもの。久坂玄瑞は雰囲気が立派なので烏帽子を被せれば絵になる。入江九一は斬れないが脅すことくらいはできる木刀だろう」と答えた。さらに山県が木の棒について尋ねると、「それは凡庸なお前だ」と言い放った。

実際に語ったかどうかは別として、常に冷静沈着に物事を見ていた吉田稔麿の人物像が分かるエピソードですね。

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松陰を支えた小田村伊之助と桂小五郎

今回は、吉田松陰松下村塾)の教え子たちからいったん離れ、松陰の盟友とも言える二人の人物について語ります。

義弟として支えた小田村伊之助

一人は、松陰の義弟にあたる小田村伊之助(楫取素彦)です。松陰の妹・寿と結婚して義弟となったのですが、年齢は伊之助が1歳年上。同世代の仲間と言ってもいいでしょう。

伊之助は儒学者の小田村家の養子に迎えられ、藩校の明倫館で学び、江戸にも留学しました。こうした経歴が松陰と似ており、学問を通して知己の間柄になったのだろうと思われます。

松陰が自宅幽閉された頃には、伊之助はすでに義弟となっており、松下村塾を開設する際には尽力したそうです。伊之助は身内として松下村塾の運営を助け、松陰の支援者として信頼を得ていました。

安政の大獄で江戸に送られた松陰が、処刑される前に獄中の仲間にあてた遺書には、久坂玄瑞ら教え子と共に伊之助の名が記されていたそうです。後事を託せる人物と見込んでいたことがうかがえます。

伊之助は明治以降、楫取素彦と名を改め、群馬県の県令として製糸業発展に尽力しました。また、寿の死去後にはその妹である文と再婚しています。

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明倫館時代の弟子・桂小五郎

もう一人は松陰より3歳年下の桂小五郎木戸孝允)です。小五郎は、若くして藩主・毛利敬親から褒賞を受けるなど俊英として注目されました。この点は松陰と似通った経歴の持ち主と言えます。

小五郎は松下村塾の塾生ではありませんが、松陰が藩校・明倫館の教授だった時に、松陰から兵学を教わっています。つまり、明倫館を通しての師弟関係だったのです。

松陰と小五郎は同じ時期、すなわちペリー来航の前後の頃、江戸に居ました。師弟関係のうえ、年齢も比較的近かったので、尊王攘夷など様々な国事の議論を交わしたと思われます。

そうした過程で、松陰は「桂小五郎は優れた人材である」と評価し、藩の上役に小五郎の登用を推挙したといいます。小五郎も、松陰の門人であるとの意識を終生持ち続けたようです。

桂小五郎長州藩のリーダーとして倒幕を果たし、木戸孝允と名を改めた明治維新初期の国家づくりに多大な功績を残しました。

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歴史・人物伝~松陰先生編①~⑦の一括掲載です

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