幕末の長州藩で多くの人材を育てた吉田松陰。松陰が「松陰先生」と呼ばれるまでの半生は、自身の「学び」を積み重ね、深めていった時期でもありました。松陰の「学び」や「教え」とは、どんなものだったのでしょうか?
note版「思い入れ歴史・人物伝」~松陰先生編の⑬~⑱を一括掲載しました。
- 松陰の教えを受けた明治の元勲
- 松陰の教えと肖像画を残した門下生
- 松陰の同志であり続けた入江九一と野村靖
- 江戸に送られ、刑場の露と消える
- 「死して不朽」の人生だったのか?
- 松陰の遺言書「留魂録」を託し、託されて
松陰の教えを受けた明治の元勲
久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿の「松門の三傑」を筆頭に、吉田松陰に学びを得た人物はたくさんいます。幕末に散った松陰や三傑の志を継ぎ、明治の新時代に活躍した人物を見てみましょう。
まずは伊藤博文です。伊藤は百姓の子に生まれ、足軽の家に養子に入って武士のはしくれとなりました。松下村塾で最も身分が低かったとされますが、それでも松陰から様々な薫陶を受けています。
松下村塾を通して久坂、高杉だけでなく、木戸孝允とも知己を得て、明治新政府では木戸と共に長州藩を代表する政治家となります。そして、初代内閣総理大臣になったのです。
山県有朋は、久坂の推薦を得て松下村塾に入塾しました。その1か月後に松陰は捕らわれの身となったため、山県が教えを受けたのはわずかな期間でしたが、山県は終生「松陰門下」を誇りに思っていたそうです。
山県は、高杉が創設した奇兵隊を率いて戊辰戦争を戦い、上司にあたる大村益次郎が暗殺された後は、大村の後継者として軍制改革をしました。内閣総理大臣も歴任し、大正時代まで権勢を振るいました。
松陰の教えと肖像画を残した門下生
松下村塾の門下生で、伊藤博文や山県有朋ほど出世しませんでしたが、明治新政府で活躍した人物に品川弥二郎がいます。入塾当時は15歳という多感な少年だった品川は、吉田松陰にかわいがられたそうです。
ただし、松陰の教えは厳しかったといいます。獄中から弥二郎に宛てた手紙には、「死生の悟りが開けないと言うのは愚かなことだ」などと痛切な言葉をぶつけています。
弥二郎は松陰の遺志を継いで、京都に「尊攘堂」を創設しました。ここには松陰の遺墨など資料がたくさん収蔵されています。弥二郎は、松陰の教えを後世に引き継ぐという役割を見事に果たしたのです。
また、松陰の初期の門下生に松浦松洞という人がいました。松洞は、松陰の思想である尊王攘夷に感化されて活動しますが、藩重臣の長井雅楽暗殺計画を企ててながら挫折し、その責任をとって自刃します。
松洞は画家でもあり、松陰が安政の大獄で江戸に護送される直前、師匠の姿を肖像画に描きました。その凛(りん)とした姿は、吉田松陰の人物像を語る上で欠かせない絵となったのです。
松陰の同志であり続けた入江九一と野村靖
松下村塾の門下生で忘れてはならない二人、入江九一と野村靖を紹介します。
松下村塾で教えていたとはいえ、吉田松陰は指導者だけの道を進んでいたわけではありません。詳しくは次回触れたいと思いますが、松陰は倒幕を最終目標として、老中の暗殺計画を企てるのです。
あまりにも無謀な計画に、久坂玄瑞や高杉晋作ら大部分の弟子たちが反対しますが、入江九一と野村靖の兄弟だけは計画に賛同しました。松陰は大いに喜び、「本当の同志は君たちだけだ」とまで言っています。
九一と靖は、足軽だった入江家に生まれ、九一が家督を相続し、靖は親戚の野村家を継承しました。二人そろって松下村塾に入塾し、兄の九一は久坂、高杉、吉田稔麿と並ぶ「四天王」に名を連ねています。
九一は、安政の大獄で処刑された松陰の意思を継ぎ、老中暗殺計画を実行しようとして牢獄に入れられます。その後、久坂らとともに禁門の変に出兵しますが、戦いの最中に戦死してしまうのです。
弟の靖も、兄と共に松陰の意思を継ごうとして牢獄に入れられますが、後に許されて長州藩の一員として倒幕に尽力。明治政府では内務大臣や逓信大臣を務めました。
亡き同志・金子重輔と重ね合わせて
松陰は、自分の計画に賛同してくれた九一と靖を「同志」と呼んでいました。さらに靖に宛てた手紙に「金子重之助(重輔)は死んでいなかった」と喜びを語っているいるのです。
ここで改めて金子重輔について紹介します。重輔は、松陰と共にペリー来航に合わせて密航を企て、その罪で捕らえられて獄死しました。松陰にとって重輔は一番弟子であり、同時に「同志」だったのです。
松陰に教えを請い、学んだ人物はたくさんいますが、松陰は「自分と志を同じくする人物」を探していたのかもしれません。計画に賛同した九一と靖を亡き同志の重輔に重ね合わせた気持ちも、よく分かります。
江戸に送られ、刑場の露と消える
吉田松陰は、松下村塾で多くの人物を教えてきましたが、尊王攘夷の志士であることも忘れてはいません。幕府が開国へと進んでいく現状が、どうにも我慢できなくなるのです。
幕府を変えるために松陰が選んだ方法は、時の老中・間部詮勝に攘夷を直接訴えかけ、聞き入れなければ殺害するという過激な計画でした。しかも、その計画を長州藩として実行しようと考えたのです。
松陰は、長州藩に武器弾薬の調達を願い出ましたが、藩主はもちろん、藩の重臣たちは驚き、彼を野山獄に収監します。獄中でも計画実行を企てる松陰に、久坂玄瑞や高杉晋作ら弟子たちも離れていってしまいます。
やがて、過激な思想の松陰の存在が幕府に知られ、藩に身柄を江戸に送るよう命じられます。井伊直弼大老が、後に「安政の大獄」と呼ばれる徹底的な弾圧行っており、松陰も覚悟の上で江戸に向かったと思われます。
取り調べで松陰は、計画の全てを明らかにしました。このことが罪状を重くし、死罪となるのです。1859年10月、吉田松陰は30歳という若さで刑場の露と消えてしまいました。
辞世「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
「死して不朽」の人生だったのか?
吉田松陰は、かつて弟子の高杉晋作に「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし」と教えました。安政の大獄で死罪が決まり、死が現実となった松陰の心境は教えの通りだったのでしょうか?
大革命を見通した先見の明
処刑直前の松陰は「思い残すことは何もない」と言っています。自身の「思い」は、弟子や関係する人々に伝えたと思っていたのでしょう。後は、彼らがその「思い」をどう生かしてくれるかだけです。
松陰の唱えた「草莽崛起(そうもうくっき)」には、「幕府や藩、武士といった支配階級は頼りにならない。在野の人々が立ち上がり、新しい世を作っていくべきだ」との思いが込められていました。
幕末に活躍した長州藩の久坂玄瑞、伊藤博文、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎といった人々は、すべて「草莽」の出身です。代表的なのが、長州藩主力部隊となった「奇兵隊」でした。
明治維新は、支配階級の転換という日本史上屈指の革命でした。「草莽」すなわち在野の人々が立ち上がったからこそ、新しい時代が築けたのです。松陰は、それを見通していたのかもしれません。
親思ふ 心にまさる 親ごころ
松陰が、家族宛てに出した手紙に次のような句が書かれていました。
親思ふ 心にまさる 親ごころ けふの音ずれ 何ときくらん
この手紙は、死罪を言い渡された松陰の「遺書」です。後事のことだけでなく、両親に対する先立つ不孝へのおわび、家族への感謝が綴られ、松陰の深い愛情が込められています。
句は「子供が親を思う心より、はるかに大きい親が子を思う心。私が死罪となったことを聞き、さぞやお悲しみになっていることでしょう」との意味が込められ、詠んでいて胸が熱くなります。
私は「松陰は心残りだったのだろう」と思っています。決して「死して不朽」ではなく、最後まで「生きて大業」を目指していたのだろうと・・・。松陰の無念の気持ちが伝わってくるような気がします。
松陰の遺言書「留魂録」を託し、託されて
吉田松陰が、数多い弟子の中でも「同志」と認めていた人物は、入江九一と野村靖の兄弟だけでした。明治になって、野村のもとに一人の元囚人が訪ねてきました。かつて、松陰と同じ江戸の獄舎にいた沼崎吉五郎です。
沼崎が携えていたのは、松陰が処刑直前に書いた「留魂録」でした。松陰は留魂録を2冊書き、1冊は長州に送り、もう1冊を沼崎に預けていたのです。当時の野村の感慨ぶりは想像に難くありません。
「留魂録」は、「身はたとひ・・・」で始まる句が冒頭で詠まれ、松陰が弟子や長州藩の人々に向けた遺言書です。取り調べの様子や獄中で出会った人のことなどを中心に綴っています。
その中で唯一、名前を挙げて呼びかけていた人物がいます。文中で「子遠」と書かれている入江九一です。
子遠もしよく同志と謀り、内外志をかなへ、このことをしてすこしく端緒あらしめば、吾れの志とするところもまた荒せずといふべし。
これは、かねてから入江と話し合っていた「尊攘堂」の建設について、「同志と相談し、実現に向けて努力してほしい。そうすれば自分の志も遂げられる」と書いています。
松陰は、沼崎に留魂録を預ける際、入江と野村についても話していただろうと思われます。想像の域を超えませんが、沼崎は「松陰先生の遺言書を託すのは、野村靖をおいて他にはない」と考えたのではないでしょうか。
吉田松陰の「留魂録」は、完全な形で山口県萩市の松陰神社に収蔵されています。
松陰先生の教えは、現代にもしっかりと受け継がれているのです。
歴史・人物伝~松陰先生編①~⑦の一括掲載です
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歴史・人物伝~松陰先生編⑧~⑫の一括掲載です