歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「青天を衝け」パリ編までの感想

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大河ドラマ「青天を衝け」は、近代日本経済の父と言われた渋沢栄一の生涯を綴っており、ちょうど明治維新の頃までドラマが進んできました。渋沢は、徳川昭武徳川慶喜の弟)の従者としてパリに滞在中ですが、そこに至るまでの青春期はまさに波乱万丈でした。

渋沢栄一が、他の幕末維新の英傑たちと異なるのは、「良いと思えることならば、持論を変えることも辞さない」という点です。とかく、自分の信念を貫いて生きる人物が多い中で、持論を変えられる柔軟な姿勢を持っている渋沢は稀有の存在だったとも言えるでしょう。

若き渋沢は、バリバリの尊王攘夷論者でした。仲間を募って、高崎城から武器を奪い、外国人が居留する横浜を襲撃するという計画まで立て、実行寸前にまでいったほどです。その根底にあるのは「腐った幕府を倒さねば何も変わらない」という思いだったとされます。

ところが、「倒すべき幕府」の中枢にいた一橋慶喜に仕えることになり、慶喜が将軍になったことで渋沢も幕臣になってしまいます。さらに、徳川昭武の従者として「毛嫌いしている異国」へ赴く羽目になるのです。尊王攘夷を貫こうとする人間には、絶対に出来ない生き方だと思います。

渋沢は、自分の思いと正反対の道であっても、「幕府の内側から変えられるのなら」とか、「敵(異国)を倒すのなら、敵を知ること」などと、むしろ積極的に飛び込んでいきました。その過程の中で「新しい持論」を作り、次のステップへと進むことができたのです。

もう一つ、渋沢にとってラッキーだったのは、仕えたのが一橋家だったということです。慶喜側近の平岡円四郎は、農民の渋沢栄一と渋沢喜作を一橋家にスカウトしました。平岡に代表されるように、一橋家は「能力がある者なら身分は問わない」という家風だったのではないでしょうか。

平岡は数年後に暗殺されましたが、慶喜をはじめ、平岡以外の一橋家重臣たちも渋沢の能力を認め、要職を与えてきました。そして、昭武のパリ留学のお供という重要な任務に結びついていきます。「渋沢の成長は、一橋家あってこそ」だと言い切れるでしょう。

 

せっかく盛り上がってきた「青天を衝け」ですが、オリパラのせいで中断されてしまいます。なんだかなあ・・・

※このコラムは、note版との共通記事です