歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」豊臣家は血脈が絶えてしまったのか?

大河ドラマ「どうする家康」も、いよいよ放送が大詰めとなってきました。打倒徳川に意気上がる豊臣勢。対する家康はじめ徳川勢も戦国乱世にピリオドを打つ覚悟を決め、大坂夏の陣に挑む・・・というところまできましたね。

さて、豊臣秀吉が一代で築き上げた豊臣家は、彼の死後わずか16年で滅び去ってしまうのですが、天下を取った徳川家、曲りなりにも大名として存続した織田家と異なり、なぜ豊臣家は消滅してしまったのでしょうか?

豊臣一族の末路を振り返ってみましょう。

まずは秀吉の直系です。秀吉が1598年に死去した時、唯一の子である秀頼はわずか5歳でした。1603年に徳川家康征夷大将軍になったことで、家康との身分が逆転してしまいました。

秀頼の正室は、家康の孫娘である千姫ですが、二人の間には子供がいません。側室との間に1男1女をもうけましたが、秀頼が自害した大坂夏の陣の後、男児国松も捕らえられて処刑されてしまいました。

女児の方は、千姫の助命嘆願もあって仏門に入ることを条件に生き残りました。尼寺である鎌倉の東慶寺に入って天秀尼となって出家し、正保2年(1645)に37歳で死去しました。彼女の死で豊臣家直系はこの世から姿を消しました。

さて、歴史を戻して振り返ってみますと、結果的に秀吉にとって痛恨事となる事件がありました。それは、秀吉の養子として関白を継いだ羽柴秀次を謀反の疑いで自害に追い込んだ「秀次事件」でした。

秀吉の姉・ともの長男だった秀次は、秀吉の後継者となったわけですが、事件によって命脈を絶たれます。さらに秀吉は秀次だけでなく、嫡男の仙千代丸をはじめ、4人の男児を全て処刑してしまったのです。

ともにはほかに秀勝、秀保という2人の子がいました。秀勝は浅井三姉妹の江と結婚して娘1人をもうけますが、朝鮮出兵の最中に没しました。秀保は秀吉の弟である秀長の養子となり、秀長死去後に家督を継ぎますが、若くして亡くなっています。

秀吉の弟である秀長は、男子を幼くして亡くしていますし、妹の朝日姫は子宝に恵まれませんでした。このため、豊臣家は秀吉直系だけでなく、兄弟姉妹の系譜も存続することができなかったのです。

ただし、豊臣家の血脈が完全に途絶えたわけではありません。秀勝と江の娘・完子(さだこ)淀殿のもとで育てられたあと、九条家に嫁ぎ、4男3女の子宝に恵まれます。完子と秀吉とは血のつながりはありませんが、豊臣家の名を後世に残したのです。

 

さて、大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ最終回。どんなエンディングが待ち受けているのでしょうか?

 

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