歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~山内一豊「命懸けの立身出世」

note版「歴史・人物伝」との共通コラムです

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土佐藩高知県)の初代藩主となった山内一豊は、掛川静岡県)の小大名として関ケ原の合戦では徳川家康に従軍し、戦勝の論功行賞として土佐24万石の大名に出世しました。立身出世の代表格の一人といえますが、決して良いことばかりではありません。

一豊が評価されたのは合戦での戦いそのものではなく、妻の千代から届いた密書を家康に差し出し、石田三成ら大坂方の情報提供をしたことが決め手となったのです。千代は「山内一豊の妻」と称され、内助の功を象徴する賢妻の模範と言われるようになりました。

こうして一豊は、今までの4倍近い石高を持つ大名に出世するのですが、支配地の土佐は一筋縄ではいかない土地でした。関ケ原以前に土佐を支配していた長宗我部盛親は三成方につき、お家騒動も起こしたため改易されてしまいました。一豊は「占領軍」として乗り込んだ形になったのです。

長宗我部家に仕えてきた家来がそのまま残っており、山内家に反抗する動きもありました。領内の騒乱を抑え込めねば、自分が改易の憂き目に遭ってしまうため、一豊は抵抗勢力を徹底的に弾圧します。その結果、大きな騒乱を起こさずに、領内統治のスタートを切れたのです。

一豊には、領内の視察時に影武者を5人も連れて行ったというエピソードがあり、新天地での支配に苦労したことがうかがえます。「吸収合併した子会社の社長に、親会社の中間管理職が送り込まれた」というイメージでしょうが、一豊にとっては命懸けの立身出世だったのかもしれません。

 

 

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「青天を衝け」パリ編までの感想

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大河ドラマ「青天を衝け」は、近代日本経済の父と言われた渋沢栄一の生涯を綴っており、ちょうど明治維新の頃までドラマが進んできました。渋沢は、徳川昭武徳川慶喜の弟)の従者としてパリに滞在中ですが、そこに至るまでの青春期はまさに波乱万丈でした。

渋沢栄一が、他の幕末維新の英傑たちと異なるのは、「良いと思えることならば、持論を変えることも辞さない」という点です。とかく、自分の信念を貫いて生きる人物が多い中で、持論を変えられる柔軟な姿勢を持っている渋沢は稀有の存在だったとも言えるでしょう。

若き渋沢は、バリバリの尊王攘夷論者でした。仲間を募って、高崎城から武器を奪い、外国人が居留する横浜を襲撃するという計画まで立て、実行寸前にまでいったほどです。その根底にあるのは「腐った幕府を倒さねば何も変わらない」という思いだったとされます。

ところが、「倒すべき幕府」の中枢にいた一橋慶喜に仕えることになり、慶喜が将軍になったことで渋沢も幕臣になってしまいます。さらに、徳川昭武の従者として「毛嫌いしている異国」へ赴く羽目になるのです。尊王攘夷を貫こうとする人間には、絶対に出来ない生き方だと思います。

渋沢は、自分の思いと正反対の道であっても、「幕府の内側から変えられるのなら」とか、「敵(異国)を倒すのなら、敵を知ること」などと、むしろ積極的に飛び込んでいきました。その過程の中で「新しい持論」を作り、次のステップへと進むことができたのです。

もう一つ、渋沢にとってラッキーだったのは、仕えたのが一橋家だったということです。慶喜側近の平岡円四郎は、農民の渋沢栄一と渋沢喜作を一橋家にスカウトしました。平岡に代表されるように、一橋家は「能力がある者なら身分は問わない」という家風だったのではないでしょうか。

平岡は数年後に暗殺されましたが、慶喜をはじめ、平岡以外の一橋家重臣たちも渋沢の能力を認め、要職を与えてきました。そして、昭武のパリ留学のお供という重要な任務に結びついていきます。「渋沢の成長は、一橋家あってこそ」だと言い切れるでしょう。

 

せっかく盛り上がってきた「青天を衝け」ですが、オリパラのせいで中断されてしまいます。なんだかなあ・・・

※このコラムは、note版との共通記事です

 

歴史・人物伝~信玄vs謙信「死に様から見えたこと」

note版「歴史・人物伝」との共通コラムです。

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戦国武将のライバル関係として真っ先に挙げられるのが、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信です。5度にわたる川中島の合戦は、戦国屈指の名勝負として語り継がれています。

ともに、最終目標は上洛だったとされていますが、信玄も謙信も道半ばで命が尽きてしまいました。しかし、死に至る経過とその後の展開は好対照だったと言えます。二人の「死に様」を見てみましょう。

余命を悟った武田信玄

信玄は、織田信長との対決に向けて大軍勢を率いて西へと進みます。三方ケ原の戦いで徳川家康を撃破し、信長の勢力圏内間近にまで迫っていましたが、陣中で病状が悪化し、甲府に引き返さざるをえなくなりました。

大軍勢を進める以前から体調はあまりよくなかったとされ、信玄自身も「死期はそう遠くない」と悟っていたふしがあります。自分の息のあるうちに、信長との戦いにケリをつけたいと考えたのでしょう。

お家騒動のタネになりかねない後継者問題にも、きっちりと道筋を立てました。諏訪氏を継いでいた四男の勝頼の子、つまり信玄にとって孫となる信勝を後継当主に据え、その名代として勝頼を指名しました。

陣中で病気が悪化した信玄は、勝頼に対して「自分の死を3年間秘し、その間は力を蓄えておけ」と遺言したそうです。ライバルの上杉謙信については「頼りにすべき人物」と語ったとも伝えられています。

信玄は、己の余命を悟ることができたうえで、何をすべきかを考える時間がありました。だからこそ、自分が死んでも微動だにしない武田家を残そうと、出来る限りの手を尽くせたのだと思います。

突然死した上杉謙信

謙信は、死の前年に加賀(石川県)で織田信長軍と直接対決をし、柴田勝家率いるの軍勢を打ち破ります。冬になったのでいったん越後に軍勢を引き上げ、次の軍事行動に向けて準備を進めていました。

この軍事行動は、関東管領としての関東遠征だったのか、あるいは再び西へと向かおうとしていたのかは分かりません。なぜなら、その最中に謙信は厠で倒れ、意識不明のまま突然死してしまったからです。

謙信には実子がおらず、姉の子である景勝と北条氏の人質である景虎という二人の養子がいました。しかし、後継者の指名は行っていませんでした。まさか、この時点で自分が死ぬとは思っていなかったのでしょう。

また、信玄が「我が死を3年間秘せ」と遺言し、武田家の行くべき道を示唆したのに対し、突然死した謙信は上杉家の方向性を明確に示すことができませんでした。後継者問題と共に、当然家中は動揺してしまいます。

その結果、お互いに後継者を主張した景勝と景虎は、家中を二分する後継者争い(御館の乱)を起こしてしまいます。戦いは1年におよび、その間信長はさらに勢力を拡大し、両家の実力差がさらに開くことになるのです。

どんな死に様が理想なのか?

歴史にifはありませんが、もしも二人の死に様が逆だったら、歴史はどうなっていたでしょうか? 信玄が大軍勢を率いていた途中で突然死したら・・・、謙信が余命を悟っていたとしたら・・・

信玄はよく、「上洛を目の前にした無念の死」と評されることがあります。ですが私は、「武田家の盤石な体制を維持する」という目的を果たした点では、安堵して死を迎えられたのではないかと思います。

一方で上杉家は、謙信というカリスマ的存在を失い、後継者争いまで起きて弱体化してしまいました。謙信は、打倒信長や関東管領の使命、さらに上杉家の行く末、すべてにおいて「無念の死」となってしまったのです。

適切な表現ではないかもしれませんが、謙信は「ピンピン、コロリ」の代表格、一方の信玄は「余命宣告をされた患者」と言えます。どちらの生き様、死に様が理想なのか・・・その結論は出せません。

 

 

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note版で「歴史・人物伝~エピソード編」始めます

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思い入れ歴史・人物伝~エピソード編をスタートすることになりました。歴史上の人物について、事実かどうかにかかわらず、有名なエピソードなどを交えながら、ざっくばらんに紹介しようという意図です。

コラムのベースになるのは、ブログ版「歴史・人物伝」です。最初の頃は、思いつくままに歴史上の人物について1~2話完結でコラムを書いていました。事象ではなく人物にスポットを当てた思いは以下の通りです。

「人に歴史あり」と言いますが、ある人物の生涯で起きた出来事について、本人や利害関係者など様々な目線で見ていくと、客観的な歴史学的視点とは異なる「生身の人間像」が浮かび上がってきます。

また、歴史に「if(もしも)」は無いと言いますが、あえて「if」を付けたうえで出来事を考えると、あらゆる可能性が広がっていきます。それこそが「歴史ロマン」なのではないでしょうか?

 

そんなわけで、ブログ版で紹介した人物コラムをリメイクし、note版で改めて紹介したいと思い、エピソード編と銘打ってみました。まずは戦国時代の武将から始めますが、時代が偏らないようにしたいと思います。

※noteの記事より転載しました

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歴史・人物伝~新選組上洛編番外コラム「芹沢鴨かがり火事件と演出」

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浪士組上洛中の本庄宿で、芹沢鴨が宿割りを忘れられたことに腹を立て、宿場の真ん中で大きなかがり火を焚くという事件は、新選組のドラマでは必ず登場するエピソードとなっています。

宿割りを担当していたのは近藤勇と池田徳太郎で、立腹する芹沢に対し、平身低頭で謝り、何とかその場を収めて宿に入ってもらったのです(ここでも名札の「三番組」が気に入らないと怒るのですが・・・)

大河ドラマ新選組!」では、単身謝りに来た近藤に対し、芹沢は頑としてかがり火を消そうとしません。近藤は「消していただくまで、ここを動きません」とかがり火の間近に正座し、芹沢を見据えるのです。

燃え盛る炎の前での両者の我慢比べとなりましたが、近藤の胆力を見定めた芹沢が折れ、かがり火は消されました。芹沢と近藤の運命の出会いであり、後にドラマの伏線になっていくのです。

かがり火事件は、永倉新八の「新選組顛末記」で紹介されていますが、当時の他の史料で事件を記載したものはありません。ただ、永倉の創作や思い違いだと決めつけてしまうのも、どうかと思います。

ちなみに「新選組顛末記」では、同行していた幕臣の山岡鉄太郎が「職を辞して江戸に帰る」と言い出したため、芹沢が山岡のご機嫌を損ねないよう、以後はおとなしく従ったと記しています。

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新撰組顛末記 (新人物文庫)

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歴史・人物伝~新選組上洛編①~⑥「京までの道のりと京での浪士組」

noteで連載していました「歴史・人物伝~新選組上洛編」が完結しました。①~⑥までを一括掲載いたします。

歴史・人物伝は、今回から幕末の京を震撼させた集団「新選組」について書いていきます。前回は「新選組同志編」として、近藤勇と同志たちの銘々伝をご紹介しました。今回は「上洛編」と題し、江戸を出発した近藤らが上洛を果たすまでをたどりたいと思います。

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京に向かった近藤勇と同志たち

幕末の京都の治安維持のため、幕府は「毒を以て毒を制す」の考えからか、浪士集団(浪士組)を編成して上洛することになりました。この浪士組に参加したグループの一つが、近藤勇率いる試衛館道場でした。

小石川の伝通院に集結した浪士組には、有名道場の出身者や水戸の脱藩浪士、さらに名のある博徒といった海千山千の面々ばかり。小さな町道場の試衛館はその中の無名集団に過ぎませんでした。

それでも近藤勇は、将軍を警護して攘夷を果たすという使命感に燃えていました。同志である土方歳三沖田総司山南敬助永倉新八原田左之助藤堂平助井上源三郎も同様だったに違いありません。

浪士組を幕府に献策したのは、尊王攘夷の志士・清川八郎です。ただ、清川の胸の内は「幕府のため」ではありません。幕府を利用して、尊王攘夷の戦闘集団を作り上げようとの策略を秘めていたのです。

そんなこととは露知らず、近藤一派を含んだ浪士組が江戸を出発しました。近藤は、先発して宿を割り振りする役目を仰せつかります。ところが、本庄宿(埼玉県)で宿割りのミスから思わぬ事件が起きてしまうのです。

事件の主役こそ、水戸脱藩浪士の芹沢鴨でした。

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傍若無人芹沢鴨という男

京へと出発した近藤勇らを含む浪士組は、中山道を進んでいきます。血気盛んな男たちの集団ですので、何が起きるか分かりません。その心配が早くも本庄宿(埼玉県)で起きてしまうのです。

宿泊先を手配する宿割りという役目を近藤と池田徳太郎が担当していましたが、本庄宿で三番組組頭の宿を取るのを忘れてしまいました。その組頭こそ、水戸脱藩の荒くれ者として知られる芹沢鴨なのです。

後に新選組の前身である壬生浪士組の筆頭局長を務めた芹沢ですが、前半生は謎に包まれています。ただ、水戸出身ということで名前は知られていたと思われ、壬生浪士組を預かった会津藩でも一目置かれた存在でした。

宿を忘れられた芹沢は怒気を含めて「俺は野宿でいい」と突っ張り、宿場の中心で大きなかがり火をたき始めたのです。慌てた近藤と池田は、芹沢の宿を探すとともに平身低頭で謝る羽目になりました。

すったもんだの末、ようやく宿に入った芹沢ですが、今度は「三番組」と書かれていた札が気に食わず、自分で「一番組」と書き換えてしまいます。常に先頭に立つという気構えを見せつけた、といったところでしょう。

後に、宿命とも言える存在となる近藤勇芹沢鴨の出会いは、トラブルという形から始まりました。近藤にとっては、芹沢を強烈に意識するだけではなく、屈辱的とも言える仕打ちだったに違いありません。

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中山道を歩く浪士たち

京の治安維持のために幕府が組織した浪士組は、中山道を進んでいきます。途中には碓氷峠和田峠といった峠越え、木曽谷などの難所が幾つもありましたが、なぜ東海道ではなく中山道だったのでしょう。

浪士組の面々は素性に問題があったり、粗暴だったりする連中なので、道中で事件などを起こされてはたまらないから、東海道を避けたのではと言われています。それも理由の一つだったでしょう。

他にも理由は考えられます。まず、東海道には橋が掛けられていない大井川と、海路を使う伊勢湾という二つの関門がありました。さらに、国内で最も厳しいとされた箱根の関所を通らねばなりません。

道中での「手間」という点を考えれば、歩いていさえすれば到着できる中山道の方が都合がよかったのでしょう。当時の中山道は主要幹線路であり、和宮様の嫁入り行列も中山道を進みました。

ところで、私の住む諏訪地方には中山道の宿場町・下諏訪があります。上洛する浪士組にとっては、和田峠という難所を超えた先にある宿場ですので、必ず宿を取っていただろうと思われます。

下諏訪には湯量豊富な温泉がありますので、浪士組一行の長旅を癒したに違いありません。今も残る名湯に、近藤勇土方歳三新選組の面々が浸かったのだと思うと、歴史のロマンを感じます。

今回は、浪士組とは直接関係のない話を書きましたが、ご容赦を(笑)

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ついに京の都に入る

江戸から中山道を進んでいた浪士組は、10数日かけて京に到着しました。幕府の管理下にあるとはいえ、物々しい武装集団がやって来たことを人々はどんな目で見ていたのでしょうか?

浪士組が荷を下ろしたのは京都市の南西部にあたる壬生村です。京都御所祇園といった中心地からは遠い場所で、近藤勇らが故郷の多摩を思い浮かべるような郊外の散村だったようです。

一行は村内の郷士宅などに分宿し、近藤のグループは芹沢鴨のグループとともに八木邸と前川邸に滞在します。近藤と芹沢が同宿した理由はよく分かりませんが、このことが後の新選組結成につながっていくのです。

八木邸には当時、為三郎という少年がいました。八木為三郎は老後、作家の子母沢寛の聞き取りに応じ、当時の思い出を語ります。それが「新選組遺聞」という著書になり、新選組の実像を知る資料となりました。

新選組遺聞」には、近藤、芹沢をはじめ、土方歳三沖田総司らがどんな人物だったのかが書かれています。壬生村の大人たちには恐ろしい集団でしたが、為三郎少年は好奇心を持って見ていたのでしょう。

京に到着し、休む間もなく近藤や芹沢をはじめ、浪士組の主だった面々が集められます。そこで、浪士組結成を幕府に提案した清川八郎から「本当の目的」を聞かされるのです。

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清川八郎に異を唱える

不逞浪士たちから将軍を守ることを目的とし、清川八郎の献策を受けて幕府が組織した浪士組でしたが、清川の真の目的は別でした。京都に着いて間もなく、清川は京都御所孝明天皇)に建白書を差し出したのです。

建白書は「国のため攘夷に尽力する」と天皇に誓ったもので、「浪士組は幕府ではなく、天皇の命に従う」と公言する狙いがあります。天皇の命であれば倒幕も辞さないとも取れる内容でした。

そのうえで清川は、攘夷決行のため、江戸に引き返すよう求めたのです。浪士組を監督していた幕府の役人は驚愕しましたが、建白書が天皇の目に触れてしまったため、清川の言い分を覆せませんでした。

ところが、清川に決然として異を唱えた者がいたのです。それが芹沢鴨でした。芹沢は「将軍が上洛中なのに江戸へ戻るのは道理に合わない。京でも攘夷はできる」と言い切り、京に残る道を選択しました。

八木、前川邸で芹沢と同宿だった近藤勇ら試衛館のグループも芹沢に同調します。多摩出身の者が多い近藤らにとっては、将軍こそが「仕えるべき主君」だと思っていたに違いありません。

ただ、浪士組の大多数は清川とともに江戸へ引き返してしまいます。残ったのは芹沢、近藤ら10数人。幕府の管轄下から離れる彼らに、助け舟を出したのが京都守護職会津藩だったのです。

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会津藩お預かりに

幕府が組織した浪士組は清川八郎の策略にまんまとはまり、天皇の意をくんだ尊王攘夷集団に様変わりしてしまいました。これに異を唱えた芹沢鴨近藤勇の一派だけが浪士組から離れることになったのです。

清川は攘夷決行のため、江戸に引き返す決断をします。清川に煮え湯を飲まされた幕府首脳は、芹沢、近藤一派が京に残り、将軍警護と治安維持という当初の目的を果たせるよう知恵を絞ったのです。

当時、京都で治安維持の最高責任者だったのは、会津藩松平容保でした。幕府首脳の要請を受け、芹沢、近藤一派を「会津藩お預かり」として召し抱えたのです。芹沢らにとっては有り難い「助け舟」でした。

会津藩が彼らを受け入れた背景には、治安維持のためには志士たちの監視だけでなく、粛清という手段も選ばねばならず、そうしたダーティーな仕事を芹沢、近藤一派に担わせようとしたのではないかと推察されます。

加えて、芹沢鴨が水戸脱藩浪士で尊王攘夷の志が高かったことも、松平容保の目に留まったのではないでしょうか。むろん、この時点では近藤勇らの存在を容保が知る由もなかったわけです。

こうして、会津藩お預かりの身として京に滞在することが出来た芹沢、近藤一派は、引き続き壬生村に滞在し「壬生浪士組」となって活動を開始。これが、後の「新選組」になっていくのです。

新選組上洛編は今回で終了します。この続きは改めて書きたいと思います。

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「青天を衝け」で知った渋沢栄一

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大河ドラマ「青天を衝く」が、2月中旬からという中途半端な時期の放送開始となりました。前週まで「麒麟がくる」が放送されており、とくに最終回は本能寺の変というクライマックスで、その余韻が残っているという中でのスタートとなったのです。

主役の渋沢栄一は「近代日本経済の父」と言われ、新しい1万円札の絵柄に採用されたことで話題となりましたが、その経歴はあまり知られていません。私も渋沢については、幕臣だったことや明治時代に多くの企業を創設した人物だという程度の知識しかありませんでした。

渋沢は、農家の跡取り息子として生まれましたが、「農業」だけでなく、藍玉や繭の生産という「工業」、製品を売りさばいたり、材料を買い付けたりする「商業・流通」を経験してきました。農工商にかかわってきた暮らしこそが、彼の経済人としての原点だったと思います。

ドラマの放送に合わせて、渋沢栄一の自伝である「雨夜譚」を読んでみました。若い頃の自分の足跡を振り返った話で、徳川慶喜の家臣になっていく過程や、ひょんなことから徳川昭武の海外留学のお供をしたことなど波乱万丈な青年期をおくっていた姿がうかがえます。

その中から読み取れたのは、「良いこと」を取り入れるのなら自論を変えるのも辞さないという柔軟な姿勢です。「思想信条に殉ずる」志士たちが多かった時代には、ある意味異色の人物と言えます。ですが、渋沢も「人の役に立ちたい」という一本筋が通った考えを持ち続けていました。

渋沢栄一については、まだまだ書き足りないことがたくさんありますが、今回はひとまずここまでといたします。ドラマは、まだ名もない農民という段階ですが、今後どのように描かれていくのか楽しみです。

※note版の転載コラムです

 

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

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