歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~戦後80年特別コラム「鈴木貫太郎とは」

2025年は太平洋戦争終結から80年目という節目を迎えます。
そこで「思い入れ歴史・人物伝」では初めてとなる、戦前・戦中・戦後の昭和の時代を生きた人物を取り上げてみました。

 

太平洋戦争が勃発したのは昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃がきっかけでした。その時の首相は誰だったかと聞かれれば、多くの人が東条英機と答えられるでしょう。

戦争の終結は昭和20年(1945)8月15日。昭和天皇自らが終戦詔書を朗読した玉音放送によって国民は知ることになります。では、その時の首相は誰だったのか?

鈴木貫太郎と、即座に答えられる人は少ないでしょう。
恥ずかしながら私も、昭和史の本を読むようになって初めて鈴木貫太郎首相のことを知りました。

鈴木貫太郎が首相に任じられたのは、戦争末期の昭和20年4月7日。当時鈴木は77歳という年齢で、日本の総理大臣としては最高齢での就任となりました。なぜ、鈴木だったのでしょうか。

鈴木は慶応3年生まれで、明治時代は海軍の軍人として活躍しました。とくに日露戦争では連合艦隊の司令官として日本海海戦での勝利に貢献。その後、連合艦隊司令官長まで務めました。

再婚した妻のたかが、昭和天皇の教育係を務めていたこともあって、鈴木は昭和天皇侍従長となります。天皇の相談相手になるなど、信頼関係を深く築いたことが、後の戦争終結への布石となっていくのです。

鈴木は、青年将校によるクーデター「2・26事件」で岡田啓介斎藤実高橋是清とともにターゲットとなってしまい、襲撃を受けます。一時心肺停止に陥ったものの、一命をとりとめるという危難に見舞われました。

そして時は流れて昭和20年。昭和天皇をはじめ、側近たちは「泥沼化した戦争を何とか終結させたい」と考え、終戦工作を託せる人物として鈴木に白羽の矢が立ちました。

 

鈴木は老齢であること以上に「軍人は政治に関与すべからず」という明治天皇の勅諭を自らの信念としており、強く固辞しました。そんな鈴木を翻意させたのが昭和天皇だったといいます。

天皇は「国難である今の局面を任せられる人はいない。頼む」と話されたそうです。天皇から「頼む」とまで言われてしまえば、鈴木も断るわけにはいかなかったでしょう。

鈴木は、表向きには一億玉砕とか本土決戦とか、威勢のいい所信表明をしていましたが、裏では陸軍などの抗戦派に悟られないように終戦工作を進めていました。

ポツダム宣言を黙殺したことで、広島と長崎に原爆を投下されるという事態に陥り、鈴木内閣は最終決断を迫られます。しかし御前会議では、鈴木ら終戦派と抗戦派が激しく対立し、意見がまとまりません。

そこで鈴木は「かくなるうえは陛下のご裁断を仰ぎたい」と発言し、天皇終戦の道を選んだのです。天皇との深い信頼関係があってこそ、天皇の英断を終戦へのよりどころにできたのでしょう。

こうして8月15日を迎え、天皇玉音放送が流されました。同じ日、鈴木は天皇に辞表を出して退陣の意を示し、2日後に鈴木内閣は総辞職をしたのでした。

 

日本に危急存亡の危機が迫る中で、戦争の終結という大命題に取り組まねばならなかった鈴木。軍人としての芯の強さ、天皇との絆、そして老練な政治手腕によって、大命題を見事に果たすことができたと思います。

 

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