歴男マイケルオズの「思い入れ歴史・人物伝」

戦国や幕末・維新を中心に古代から現代史まで、主に「人物」に視点を置きながら、歴史好きのオヤジが思いつくままに書いています

歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」北条時政を処刑しなかった義時の考え方とは

10月2日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、源実朝に代わって平賀朝雅を将軍にしようとした北条時政と妻の牧の方(りく)の野望が、北条義時によって打ち破られるというというストーリーでした。

謀略が失敗に終わった時政は、伊豆へ流罪となるわけですが、これまで謀反を疑われた御家人梶原景時比企能員畠山重忠ら)は討伐されてきたのに、時政は命を奪われませんでした。ドラマでは、その理由も丹念に描かれています。

義時は「斬首やむなし」と考えていましたが、実朝の助命要望に加え、文官の合議で「頼朝挙兵の功労者として罪一等を減ずるべき」と決し、流罪に落ち着きました。時政は「義時が手をまわしてくれた」と思い、感謝します。

時政の流罪について、私はドラマでの解釈以外にも理由があったと考えています。それは、義時や北条政子が「同族間での粛清はしないほうがいい」と決めていたからではないでしょうか。

源頼朝が、弟の義経、範頼をはじめ、木曽義仲を抹殺するなど、源氏は血で血を洗う抗争を繰り返しました。その結果、一族が弱体化してしまったのを見て、源氏の二の舞になることを避けたかったのではないでしょうか。

仮に時政を処刑すれば、一族でも容赦しない義時の姿勢に、反発や恐れを抱く者が出てくるとも限りません。「身内に甘い」と言われようとも、一族の結束だけは頑として守り抜きたいと考えていたのでしょう。

一方で、時政の娘婿だった平賀朝雅は討伐しています。平賀は北条一族と血縁関係がないので、時政の代わりに粛清の対象になってしまいました。あるいは「時政をそそのかせた陰の謀反人」と思っていたのかもしれません。


宮沢りえさんが演じたりく(牧の方)についても触れておきます。吾妻鏡では徹底した悪女として記されているわけですが、ドラマでは悪女というより、「上昇志向が強すぎるがゆえに破滅していった女性」として描かれてきたと思います。

義時は、平賀と同じように血縁関係のないりくを暗殺しようと企てますが、暗殺者トウは失敗しました。義時に対し、りくは命乞いをするのではなく、毅然とした態度を貫き通します。腹をくくった女の強さを感じさせられました。

もし殺されてしまっていたら、後味の悪いドラマになってしまうところでしたので、安堵したのも事実です(笑)

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」牧の方(りく)VS北条政子

9月25日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、北条一族内の抗争への序章が描かれました。対立の構図は「時政VS義時」の親子になりますが、その陰には「牧の方(りく)VS尼御台(政子)」という女同士の対立があります。

時政と牧の方は、執権としての権威を回復させ、政権中枢にいる義時と事実上の実権を握っている政子を排除しようと企てます。その手段として、実朝を将軍の地位から追い払い、娘婿の平賀朝雅を将軍に据えるというものです。

平賀朝雅は、曽祖父が新羅三郎義光という源氏の出身で、将軍の座に着けるだけの家柄の人物でした。時政が将軍を傀儡にして実権を握るのに、これ以上好都合な存在はありません。

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牧の方は、政子に対して「政治に口出しせず、おとなしく仏の道に進んでもらいたい」と苦々しく思っていたでしょう。朝雅は政子と血縁関係がないので、将軍になれば政治に関与できなくなるだろうと目論んでいました。

政子からすれば、実子の実朝に落ち度があるわけでもないのに、将軍を交代させるというのは暴論に過ぎず、到底納得できるものではありません。牧の方と年齢が近かったと思われるので、昔から「疎ましい義母」と感じていたかもしれません。

ドラマでは、これまで御家人同士の争いの蚊帳の外にいた政子ですが、牧の方がからんでいる父親(時政)の謀略には、積極的に関与せざるを得ません。政子の存在は、義時が御家人たちを味方につける意味でも大きかったと思います。

 

もう一つ、この抗争とは関係ありませんが、後々の伏線となるシーンがありました。それは、政子と実朝の妻(千世)と、義時の後妻ののえ(伊賀の方)が、お菓子を食べながら歓談する場面です。

一見和やかそうが、上昇志向を見え隠れさせるのえに、政子も千世も辟易としてしまうのです。政子が、のえを快く思っていないという描写のようにも見え、義時の死後に起こる「伊賀の方の乱」の伏線のように思えてなりません。

 

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」武士の鑑と言われた畠山重忠の描かれた人物像

18日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、畠山重忠が幕府の大軍と壮絶に戦う場面が放送されました。重忠と北条義時の一騎打ちは、とても見ごたえがあり、後事を託そうとした重忠の思いが伝わってきました。

畠山重忠が、後世に「武士の鑑」と言われるようになったのは、吾妻鏡平家物語での重忠の描かれ方に要因があると思います。源頼朝に忠義を尽くした武士だったことは事実でしょうが、それ以上に美化されていたことは否定できません。

吾妻鏡では、北条時政や妻の牧の方(りく)を批判的に書いていますが、その象徴的な出来事として、畠山重忠討伐事件を取り上げたと思われます。同時に、事件をきっかけに時政追放に動いた北条義時や政子の行為を正当化しています。

それが「忠義に厚い重忠」を概念化させ、軍記物で「伝説的な活躍をした人物」として重忠が描かれるようになったのではないでしょうか。さらに、江戸時代の武士の思想にもマッチし、重忠の人物像として定着していったのだと思います。

北条氏と畠山氏の対立の背景には、武蔵の国をめぐる権力抗争があったと推測されます。武蔵の有力者だった比企氏が滅ぼされたあと、武蔵支配をもくろむ北条氏にとって、畠山氏は「最後の難敵」だったのではないでしょうか。

頼朝の信頼が厚かったということは、息子である頼家や実朝からも信頼されていたと思われます。畠山氏にもっと政治力があったり、比企氏と手を組めたりしていれば、逆に北条氏が滅ぼされていた可能性も否定できません。

 

最後にドラマの話になりますが、中川大志さん演じる畠山重忠が大軍に立ち向かっていくシーンを見て、同じ三谷脚本の「真田丸」で、真田幸村堺雅人さん)が徳川軍に決死の突撃を敢行した大坂夏の陣の場面を思い出しました(笑)

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のえ(伊賀の方)の子どもと孫について

4日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時の後妻として、のえが登場します。この女性は後世、伊賀の方と呼ばれ、義時の死後にお家騒動を引き起こした人物として、吾妻鏡では悪女のように書かれています。

お家騒動というのは義時の後継者争いで、長男だった泰時を差し置いて、自分が生んだ子である政村を次期執権の座に着かせようとしたといいます。しかし、北条政子らがそれを阻み、伊賀の方は流罪になってしまうのです。

ただ、政村は同罪にされませんでした。ふつうなら排除されても仕方がない立場でありながら、泰時は義弟の政村を重用し続けます。泰時の性格もあったのでしょうが、政村の実力をしっかり見定めていたとも言えるでしょう。

政村は、5代執権時頼の時に連署を務め、時頼の死後は後継者の時宗が幼かったこともあり、7代執権の座に着きます。さらに時宗が8代執権になると、再び連署となって時宗の政権を支えていく大長老になっていくのです。

政村の弟に実泰がいますが、彼も伊賀の方の政変で罪を問われませんでした。実泰本人はあまり活躍できませんでしたが、その子である実時は、時頼や時宗の頃に一門の重臣として北条政権を支える存在になっていきます。

また、実時は「金沢文庫」を創設し、蔵書の収集・保存にあたってきました。鎌倉時代の歴史や文化を知る貴重な資料を残したという功績は、とても大きかったと思います。現在も「中世歴史博物館」として研究者や一般市民が利用しています。

ドラマでは、のえ役の菊池凛子さんが「本音と建て前」を使い分ける女性を演じ、一気に注目を集めました。子の政村や孫の実時から推測するならば、伊賀の方は賢い女性だったのではないかと思われます。どんなふうに描かれるのか楽しみですね。

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」実力者たちのスタンスについて+善児&トウのこと

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、毎回シビアな展開が続いています。権力抗争に明け暮れた鎌倉時代が舞台なので仕方ありませんが、史実を追っていると「次回は〇〇の番だな」と読めるので、それをどのように描くのかも楽しみにしています。

今回のコラムでは、北条義時を支え続けた2人の人物について書きます。一人目は、盟友と目される三浦義村です。

義時が北条家を守るために奔走しているのなら、義村は三浦家が第一と考えている人物といえます。そして、三浦家を守るために最善の行動を取っているのですが、結果としてその行動は「北条家(とくに義時)に助力する」ことに結びつくのです。

第33回では、幽閉された源頼家の元を使者として訪れ、頼家に対して決起を促すような言葉を引き出しています。その一方で、「ともに立とう」と誘われても「お断りします」と言い切り、頼家を見捨てる冷徹さも持ち合わせているのです。

義村にとって、頼家と組んだところでリスクは大きすぎるばかり。頼家が北条氏にとって危険な存在であるよう仕向けたうえで、北条氏の手によって抹殺させ、そのことで源実朝中心の政権を安定させようとの魂胆があったのだろうと思います。

もう一人、注目したい人物は北条時房です。

これまでは、コメディーパートが多かった時房ですが、史実をひもとけば、北条義時と泰時の2代にわたって政権を支えてきた重要人物なのです。善児の家を義時と訪れた際、その決意が垣間見れたシーンがありました。

「泰時は昔の自分と同じだ」と語る義時に対し、「自分は泰時とは真逆でありたい」と言っています。私は、時房が「北条氏のダークな部分」を引き受けるという決意表明だったのではないかと考えています。

このあとの時房は、京で朝廷や貴族たちとのつなぎ役を担ったり、軍事行動の際には泰時を補佐したりと、北条政権を確立していくために奔走します。義時にとって、これほどありがたい味方はいなかったのではないかと思います。

その後の北条氏を見ても、3代泰時には弟の重時がいましたし、5代時頼には知恵者と言われた金沢実時の存在があり、一族の有力者が執権を支えるという仕組みを持っていました。その先駆けとなったのが北条時房だったのです。

善児に止めを刺したトウ

ドラマ上の架空人物ですが、ここで善児とトウについても語らせてもらいます。

源頼家暗殺を命じられた善児は、猿楽の一員に化けて潜入しましたが、泰時に正体を見破られてしまい、仕方なく正攻法での殺害に踏み切ります。しかし、「一幡」と書かれた紙に気を取られ善児は、頼家の太刀を浴びてしまうのです。

頼家はトウによって斬殺されましたが、善児は「しくじった」形となり、しかも深手を負ってしまいます。その善児に対し、トウは「この時を待っていた」と刀で突き刺し「父のかたき」「母のかたき」と言って、止めを刺したのです。

トウにとって善児は、源範頼暗殺の時の巻き添えを食って殺された父母のかたきで、それを押し殺して師匠として仕えてきた人物です。一義的には「かたき討ち」の面が大きいのでしょうが、私は別の側面もあったのではと解釈します。

それは、トウが善児に「引導を渡した」ということです。傷を見て、トウは「善児はもたない」と思ったに違いありません。だからこそ、かたき討ちをするのなら今しかないと考え、同時に「苦しまずに死なせてやろう」と思ったのではないでしょうか。

憎いかたきではあっても、自分が生きる道を作ってくれた恩人でもあり、トウは複雑な思いを持ち続けてきたのでしょう。武士の流儀で言うならば「介錯」の意味合いにも通じる、トウの善児に対するリスペクトだったのだと思いたいです。

トウのかたき討ちは、登場時から予想していましたが、このような形になるとは想像できませんでした。やはり三谷幸喜脚本はスゴイです!

 

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」平賀朝雅は北条親子対決のキーマン

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」21日の放送では、北条時政の娘婿として平賀朝雅が初登場しました。番組を見るまでは、朝雅のことはほとんど知りませんでしたが、調べてみると、かなり曰く因縁がある人物だと分かりました。

ドラマでまず気が付くのは、御家人たちの話し合いのなかでの言葉遣い。北条義時大江広元といった年長者に対しても、敬語を使っていません。これは、朝雅が御家人の中でも地位が高いということを示しています。

朝雅は、曽祖父が新羅三郎義光、すなわち源氏の出身なのです。父の義信は、頼朝とはほぼ同世代で、治承・寿永の乱源平合戦)では頼朝に従軍し、幕府開設後には一門のトップとして御家人筆頭の地位にあったといいます。

頼朝と頼家の親子により、義経、範頼、阿野全成といった直系が次々と粛清されるなかで、平賀氏は命脈を保ってきたばかりか、鎌倉幕府の中枢に居続けられました。その名門出である朝雅に目を付けたのが時政だったのです。

北条氏はやがて、時政と牧の方(りく)が、義時や政子と対立するようになります。そして、時政らは実朝を将軍から引きずり下ろし、朝雅を次期将軍に据えようと画策するのです。そうなれば、時政は将軍の義父となり、一層強い権力を握れるわけです。

朝雅自身も、御家人たちの争いの火種を作ります。史実をひもとけば、それが何か分かりますが、ドラマとしてはネタバレになってしまいますので、このコラムでは詳細には触れません。ドラマをお楽しみに、といったところです(笑)

ここからは余談ですが、ドラマのラストで頼家の子・善哉に対し、比企尼草笛光子)が北条氏への恨みつらみを植え付けるシーンには、戦慄が走りました。この善哉こそ、成長して公暁となり、やがて源氏政権に止めを刺すことになるのです。

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歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「鎌倉殿の13人」歴史書によって真逆に描かれた比企の乱

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、御家人たちの苛烈な権力争いがピークを迎え、将軍頼家の急病発症をきっかけに、北条氏と比企氏が争いを激化。比企氏を滅ぼした北条氏が、名実ともに御家人のトップに立つことになるのです。

比企氏と北条氏の対立

比企の乱と呼ばれる騒乱は、比企氏の当主である比企能員の謀殺に端を発します。能員の娘は頼家の側室となり、嫡男である一幡を産みました。一幡が将軍になれば能員は外祖父として、権力の中心に座ることができるのです。

一方の北条氏、とくに北条時政は頼家の弟である千幡の祖父にあたります。頼家に万が一のことがあれば、幼い一幡よりも千幡を押そうという声が大きくなるはずです。しかも、千幡の乳母が時政の娘・美衣(阿波局)だったことも影響しています。

鎌倉幕府が編纂した吾妻鏡では、能員と頼家が北条氏殲滅を企てますが、それを知った北条政子が時政に通報。時政は戦闘態勢を整えた上で、能員を呼び出して殺害し、そのまま比企氏に軍勢を仕向けて滅ぼしてしまうのです。

一方、京の朝廷に近かった慈円が書いたとされる愚管抄によると、比企の乱は北条氏による陰謀が原因で、能員は時政におびき出されて殺されたとしています。頼家が出家して一幡に家督を譲ったのが事実なら、比企氏が謀略を図る理由がありません。

比企氏はなぜ滅んだのか

比企氏が滅んだ理由を私なりに考えてみると、比企氏は頼朝など源氏との結びつきこそ深かったのですが、御家人のなかでは支持者が少なかったのではないでしょうか。その点、北条氏は御家人たちの支持を着実に集めていました。

例えば、三浦氏は頼朝挙兵以前からの盟友であり、三浦一族の和田義盛との絆も深いです。また、安達氏も盛長から景盛に代替わりし、後に安達氏と北条氏の関係を考えると、比企側から北条側に変わっていったのではないかと思います。

有力御家人で、頼朝や頼家から絶大な信頼を受けていた梶原景時が失脚したことは、比企氏にとって権力者に一層近づけた好機となったのですが、言い換えれば、それによって北条氏ら御家人たちのターゲットになってしまったとも言えます。

忘れてはならない視点は、北条氏が時政、義時、政子という「三枚看板」だったのに対し、比企氏は能員一人で対抗していたということです。だからこそ、能員は御家人たちを味方にしなければならなかったのですが、それができませんでした。

佐藤二朗さんの怪演

「鎌倉殿13人」では、北条時政や義時が「比企氏を滅ぼさねば鎌倉はまとまらない」と考え、能員の謀殺と比企氏殲滅に動いたというストーリーでした。ただし、謀略ではなく、大義名分を得るところは、義時を主役としたドラマらしい展開です。

比企氏は、早くから北条氏との対決姿勢を鮮明にしており、何度も追い落としを図ろうと画策しました。それを印象付けたのが、比企能員を演じた佐藤二朗さんの怪演です。裏表のあるうさんくさい人物像は、強烈なインパクトでした。

謀殺の場面でも、平服の下に鎧を身に付けるなど猜疑心の強さを鮮明に見せつけましたが、堂々と戦支度で迎えた時政(坂東彌十郎さん)とは対照的でした。しかし、お互いにお家繁栄を常に願っていたという思いは同じだったのですね。

そして北条義時が、「北条家が板東武者の頂点に立つ」という思いを明確にさせた回でもありました。石橋山の合戦で戦死した兄の宗時の回想が出てきましたが、その野望がいよいよむき出しになってくるのでしょう。次週以降も注目ですね。

※このコラムはnoteと共通記事です

 

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