群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた上杉謙信。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われました。義の武将・謙信の生涯について「合戦」を通して紹介します。
note版「思い入れ歴史・人物伝」~謙信の戦い編の序章及び①~⑥を一括掲載します。
序章:孤高の名将・上杉謙信と「義」について
群雄割拠した戦国時代にあって、領土欲にとらわれず、義や権威を重んじながら戦いを続けてきた武将がいます。生涯、妻帯しなかったことでも知られている孤高の名将・上杉謙信です。
歴史に興味を持ち始めた若い頃、数多くの戦国武将の中でも、とくに上杉謙信の生きざまに共感を覚えました。今年5月に歴史のブログを開設した時も、真っ先に紹介した人物が謙信だったのです。
上杉謙信を漢字一文字で言い表すならば「義」。これしかありません。謙信の「義」には、正義、信義、忠義など様々な思いがあり、それは戦いだけでなく、朝廷や幕府を重んじる姿勢にも表れています。
謙信の「義」を象徴する逸話が「敵に塩を送る」です。領地に海を持たない武田信玄を苦しめるため、駿河の今川家が「塩止め」という手段に出て、相模の北条家もこれに賛同し、上杉家にも協力を求めました。
ところが、謙信は「私が戦う相手は信玄であり、領民ではない」として、塩止めはしなかったそうです。糸魚川から大町を経て松本までの千国街道が「塩の道」と言われる由縁になったとされます。
生涯における戦いも独特で、その多くが領土拡大のためではなく、「義」を侵す武将(武田信玄や北条氏康)を倒すための戦いでした。その軍団は士気が非常に高く、戦国最強クラスとまで言われています。
次回からは、「歴史・人物伝~謙信の戦い編」と銘打ち、上杉謙信の生涯について「合戦」を通して紹介していきたいと思います。
初陣で武将としての才能を見せつける
謙信は、越後の守護代・長尾為景の子として生まれました。幼名は虎千代、後に長尾景虎と称します。家督は長男の晴景が継ぐことになったため、虎千代は春日山(新潟県上越市)の林泉寺に入りました。
林泉寺では僧侶の修行を積んでいたのですが、一方で幼い時から武将としての鍛錬や戦略の研究も好きだったといいます。修行の経験は、後の謙信の生きざまに大いなる影響を与えたと思われます。
晴景は病弱だったこともあり、父の為景のように地域の有力武将たちを制圧できませんでした。このため、虎千代は元服後に長尾景虎と名乗り、林泉寺を出て修行の道から武将の道へと歩み始めるのです。
栃尾城(長岡市栃尾)を任された景虎に対し、周辺の有力武将たちが「若輩を一捻りしてやる」とばかりに攻め立てます。しかし景虎は、初陣にもかかわらず戦略を駆使して有力武将を撃退しました。
この栃尾城の戦いは、後に戦国最強クラスの軍団を率いた上杉謙信の片りんを見せる合戦となったのです。
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家督を継ぎ、越後統一を果たす
初陣の栃尾城の戦いで、戦国武将としての資質を見せつけた長尾景虎(上杉謙信)。「越後統一の救世主になる」と、多くの有力武将たちが景虎に期待したのですが、守護代・長尾家を取り巻く状況は複雑でした。
すでに長尾家は、景虎の兄の晴景が継いでおり、景虎は兄を支える家臣の立場でした。ただ、病弱だった晴景の力量では、越後統一は難しいと思われていたのも事実です。
そんな中で、晴景に代わって景虎を守護代にしようという有力武将らの動きが出てきます。その結果、越後守護の上杉家の裁定により、晴景が隠居して景虎が家督を相続し、新たに守護代の任に着きました。
これに対し、長尾一族の実力者・長尾政景らが反発し兵を起こします。政景は、景虎の姉を妻にしているため、骨肉の争いでもありました。景虎は軍勢を率いて政景らを制圧し、念願の越後統一を果たすのです。
ちなみに、政景と妻との間に生まれた子の一人が、後に景虎の養子に迎えられます。この人物こそ、謙信の後継者として戦国から江戸初期を生き抜き、上杉家を存続させた上杉景勝です。
越後統一を果たした景虎ですが、越後の外にはさらなる強敵が待ち受けていました。景虎の戦いは、これからが本番となるのです。
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北条氏、武田氏との敵対関係へ
越後統一を果たした長尾景虎(上杉謙信)のもとを、関東管領の上杉憲政が訪れます。相模の北条氏に圧迫されたため、庇護を求めたのです。景虎は憲政を迎え入れることにしました。
関東管領は、足利将軍家が関東など東国を支配するために配置し、上杉家が代々務めています。景虎は、将軍家を筆頭とする室町幕府の権威を重んじており、関東管領の後ろ盾になることは自分の意に即していました。
北条氏は当主が氏康で、全盛期を迎えようとしていました。領地も北へと伸びていき、やがて越後の勢力圏に近い上野(群馬県)へと進出してきます。上杉憲政を庇護する景虎とも敵対関係になっていくのです。
同じ頃、信濃(長野県)の守護である小笠原長時や北信濃の有力武将・村上義清らが、景虎のもとに救援を求めてきます。甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)が信濃へ侵攻してきたからです。
関東管領を後ろ盾とする景虎は、秩序を乱そうとする晴信が許せず、討伐を決意します。上杉軍は北信濃の善光寺平へと進軍し、武田軍と激突しました。ここに、謙信対信玄の「川中島の戦い」が始まるのです。
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犀川を挟んでにらみ合う景虎VS晴信
武田晴信(信玄)は、甲斐(山梨県)から諏訪、佐久、松本と侵攻し、信濃での領地を拡大してきました。その勢力が善光寺平(長野市周辺)にまで及んだところで、長尾景虎(上杉謙信)が立ちはだかったのです。
北信濃の有力武将だった村上義清らの救援要請もあったでしょうが、それに加えて善光寺平は、景虎の居城・春日山城との距離が60キロほどしか離れておらず、直接的な脅威になっていたのです。
晴信と景虎は天文4年(1555年)、再び善光寺平で相対します。犀川を挟んで両軍がにらみ合いますが、小競り合いはあっても本格的な戦いにはなりません。時間だけがどんどんと経ってしまいました。
休戦を望む晴信は今川義元に仲介を求め、晴信が築いた旭山城の破却などを条件に景虎も休戦に同意し、双方が兵を引き上げました。景虎は、善光寺平から晴信の勢力を削ぐことができたと思っていたのです。
しかし、信濃制圧を目的とする晴信は、再び善光寺平に勢力を伸ばしていくことになります。当然、看過できない事態ではありますが、景虎にはもう一つの戦いが待ち構えていたのです。
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名実ともに関東支配を任される
「義」を重んじる武将・長尾景虎(上杉謙信)は、足利将軍家を頂点とした権威も重要視していました。関東管領の上杉憲政を越後領内に庇護したことも、その表れとされています。
武田晴信との争った3度の「川中島の戦い」の合間に、景虎は2回上洛しています。1558年には将軍・足利義輝の要請に応じ、軍勢を率いて2度目の上洛を果たします。
義輝は、将軍家の権威を守ってくれる武将として、景虎を頼りにしていたとみられます。そして、東の押さえを任せるため、景虎に関東管領に匹敵する立場を与えたとされています。
景虎は、幕府から「関東の支配を任された者」として、侵略を繰り返す北条氏や武田氏を討伐する「大義名分」を得ます。後日、上杉憲政から関東管領と上杉家を相続し、関東における最高権力者になるのです。
一方の北条氏康や武田晴信は「実力ある者が支配地を広げるのは当然」との考えで、景虎と真っ向から対立します。北条氏の関東侵攻に業を煮やした景虎は、北条氏討伐の軍勢を起こすのです。
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北条氏討伐の大軍勢で小田原城を囲む
幕府から関東管領と同等の立場を得た長尾景虎(上杉謙信)は、相模の北条氏康打倒に向け立ち上がります。景虎が本格的に関東へ出陣するのは、この時(1560~61年)が初めてでした。
氏康は、河越城の戦いで関東管領の上杉憲政らを破るなど、勢力を北へと拡大していました。憲政は景虎を頼って越後に逃れており、景虎は幕府の大義名分と憲政の後ろ盾の両方を得ていたのです。
厩橋城(前橋)で越年した景虎は、関東の諸侯に北条氏討伐の号令を発し、大軍を率いて南下しました。野戦では分がないとみた氏康は、居城である小田原城での籠城戦で上杉軍を迎え撃ちます。
上杉軍は10万を超える大軍で小田原城を包囲しますが、戦国屈指の堅城を攻め落とせませんでした。それでも、北条氏の勢力を押し込められたので、大軍での遠征は成功裏に終わったと考え、引き上げます。
景虎は小田原城包囲戦の後、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉憲政から正式に家督と関東管領を引き継ぎます。名を上杉政虎と改名し、幕府における関東の名門の地位を手に入れたのです。
関東遠征から戻った政虎を待ち受けていたのは、宿敵である武田晴信でした。世に名高い「川中島の戦い」が目前に迫っていたのです。
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歴史・人物伝~謙信の戦い編⑦~⑪まとめ記事(川中島の戦い編)
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歴史・人物伝~謙信の戦い編⑫~⑯まとめ記事
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当ブログ第1回目となった「上杉謙信」の記事
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